表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
43/43

番外編5 監査院の日常と、黒字のお茶

結婚後の生活は、思っていたより劇的ではなかった。


朝、起きる。


食堂で朝食を取る。


北境監査室へ行く。


王宮財務院から届いた報告書を確認する。


白灯支援基金の月次表に赤を入れる。


氷竜熱収支協定の返済記録を照合する。


昼食を取る。


午後、工房や医療院や街道灯の現場へ行く。


夕方、戻って記録を書く。


夕食を取る。


夜、カイ様とお茶を飲む。


とても普通だ。


ただし、その普通は、わたしにとってかなり贅沢だった。


前世では、朝食を抜くことがあった。


王宮では、昼食を机の端で済ませることがあった。


今は、食事を抜こうとすると料理長と夫の両方から止められる。


かなり強力な二重監査だ。


「エリス、昼だ」


監査室の扉が開き、カイ様が顔を出す。


「あと一枚です」


「その一枚は、食後も存在する」


「消えませんか」


「消えたら、むしろ問題だ」


その通りだった。


わたしはペンを置いた。


机の上には、王宮から届いた新しい報告書がある。


南部穀倉地帯の霜害対策費。

西部街道の修理費。

北区孤児院の暖房点検記録。


どれも、以前なら問題が起きてから届いたかもしれない。


今は、問題になる前に届く。


それだけで、ずいぶん違う。


食堂では、リリアナ様が子ども用帳簿の新版を広げていた。


今日は北境へ出張講座に来ている。


「エリス様、氷竜さんの欄を増やしました」


「かなり大きいですね」


「子どもたちから要望が多くて」


帳簿の三分の一が氷竜だった。


支出欄が少し圧迫されている。


「絵は良いですが、数字の欄を削りすぎないように」


「はい。詩と帳簿の間を目指します」


彼女は胸を張った。


その横で、レオンハルト殿下からの視察報告が置かれている。


最近の殿下は、各地を回るたびに現場の食事についても一行書く。


南部の豆粥は薄い。

西部街道宿の黒パンは硬いが保存性が高い。

北境の玉ねぎスープは、相変わらず熱い。


カーター財務官は、その一行を削らず残している。


食事の感想から、現場の物資事情が分かることもあるからだ。


昼食は、玉ねぎスープではなく、春野菜の煮込みだった。


料理長が言う。


「玉ねぎだけの台所だと思われるのは不本意だからね」


「誰が思っているのですか」


「王太子殿下」


「報告書の影響ですね」


料理長は鼻を鳴らした。


「今度来たら、春野菜も刻ませる」


殿下の研修項目が増えた。


午後、わたしはカイ様と街道灯の点検へ出た。


春の街道は、冬と違って足元がぬかるむ。


雪解け水が流れ、馬車の轍が柔らかい土に残っている。


街道灯二十七番は、あの日の応急修理から正式な部品に交換されていた。


それでも、灯柱の根元には小さな銅板が付けられている。


北境暖房網再建初期修理地点。


「少し大げさでは」


わたしが言うと、カイ様は首を横に振った。


「ここから始まったことを、忘れないためだ」


忘れないため。


その言葉は、今のわたしにはよく分かる。


人は忘れる。


善意も、失敗も、未払いも、感謝も。


だから記録する。


冷たい数字だけでなく、暖かい理由も。


点検を終えたあと、近くの丘へ登った。


北境の街道と城下が見える場所だ。


遠くには氷鳴き谷の白い霧。


その向こうに、竜が眠っている。


「エリス」


カイ様が小さな包みを差し出した。


中には、干し林檎が入っていた。


「ムギ用ですか」


「君用だ」


「わたしは馬ではありません」


「分かっている。だが、初めて北境へ来たとき、君の鞄からムギが干し林檎を食べた」


「虚偽報告事件ですね」


「そのお詫びがまだだった」


かなり遅い清算だった。


でも、受け取ることにした。


干し林檎は甘く、少し酸っぱかった。


春の風に合う味だ。


「黒字です」


わたしが言うと、カイ様は笑った。


「干し林檎が?」


「はい。あと、この時間も」


仕事の途中で、夫と丘に立ち、街道灯を見ながら干し林檎を食べる。


これは帳簿に載せづらい。


でも、確かにわたしの人生を豊かにしている。


夕方、監査室へ戻ると、ルルが机の上で寝ていた。


彼女の前には、王宮から届いた新しい書類が一枚。


件名。


監査補助ルルに対する干し肉支給基準について。


差出人はカーター財務官。


王宮財務院は、とうとう猫の経費に正式見解を求めてきた。


わたしは深く息を吸った。


「カイ様」


「なんだ」


「猫の干し肉支給基準を作る必要があります」


彼は真剣に頷いた。


「重要だな」


「過払いは癖になりますので」


ルルが薄目を開けた。


その表情は、過払いを望んでいるように見えた。


わたしはペンを取った。


監査院の日常は、今日も忙しい。


王宮の赤字も、北境の暖房も、聖女基金も、氷竜の返済も、猫の干し肉も。


問題は尽きない。


けれど、ひとつずつ見れば処理できる。


そして、処理したあとには温かいお茶がある。


わたしの人生は、今のところ黒字だ。


これから赤字の日が来ても、きっと大丈夫だと思う。


隣に相談できる人がいる。


記録を一緒に見てくれる人がいる。


休めと言ってくれる人がいる。


それは、どんな加護より心強い。

これで本当に完結です。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ