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銀色の月  作者: 篠崎葵
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第六章 銀色の月の下で

 季節は秋から冬に移ろうとしていた。


 二週間くらいすると、あたしの周りにいたマスコミの人たちの人数は急激に減っていった。完全に誰もいなくなったわけじゃないだろう。あたしからは見えないどこからか見られているかもしれない。そう思う半面、表面上は以前のような日常に戻って、あたしの心は少し落ち着いてきた。

 ヒカリからは、あれから連絡はなかった。あたしたちが別れたという公の発表もなかった。彼はどう思ってるだろう、どんな生活を送っているんだろうということはいつも気になったけど、別れを持ちかけたあたしには知る術がなかった。


 その年が終わり、新しい年になり、三学期が始まってしばらくたったある日のことだった。

 学校から帰って少しすると、彩姉から電話があった。

「祐奈、ヒカリは一体どうしちゃったの!?」

「え? なんのこと?」

 あたしは、ヒカリと別れたことを彩姉に話してなかった。別れた直後は精神的に参っていて、誰ともそういう話をする気になれなかったのだ。それが落ち着いた後も、あの辛い日々を思い出したくはなかった。別れてから二か月経った今でも、あたしの心はヒカリの話ができるほど元気になったわけじゃない。

 彩姉はイライラするように言った。

「『なんのこと?』じゃないわよ。ヒカリがクレムン脱退したって、ホントなの?」

 脱退? 彼がバンドを? そんな話、なにも聞いてない。寝耳に水だった。

「し……知らない」

「知らないって、祐奈、あんた、ヒカリとあれからどうなってるの? うまくいってるの?」

 彩姉に突っ込まれて、あたしは白状せざるを得なかった。話を聞いた彩姉は、あきれたと言った風にあたしをなじった。

「バカ祐奈! ヒカリはちゃんと捕まえとかなくちゃいけなかったのに」

 彼女は小さく溜息をつくと、ポツリと言った。

「もしかしたら、彼が脱退したのは、あんたと別れたことと関係あるかもね」

「え? あたしのせい?」

「いや、こっちの話。あんたたちがちゃんと話し合って別れたのなら、あたしがどうこう言うことじゃないから。ま、いいわ。この話はこれ以上祐奈には突っ込まないことにする。じゃね」

「待って! 脱退って、ホントなの?」

 彩姉は言葉を選ぶようにあたしに教えてくれた。

「まだ確認はとれてない。事務所からはなんの発表もないし。でも複数の筋からの情報だから、間違いないと思うわ」

「そうなんだ……」

「祐奈、別れたんなら、気にすることないよ。そのうち発表があるだろうし。またメディアの連中が来るかもしんないけど、しっかりすんのよ。じゃね」

 いつものように忙しいらしく、彩姉はそれだけ言うと電話を切った。

 脱退って本当だろうか。だとしたら、理由は? これからどうするつもりなの? バンドはどうなっちゃうの?

 頭の中にいろんな疑問が湧いて、あたしはどうしていいかわからなかった。一番の疑問は、彩姉がちらりと漏らした、ヒカリの脱退にあたしが関係あるかもって話。一体どういうこと? なぜ二か月も前に別れたあたしが関係あるの? あたしが一体なにをしたの? わからないことだらけだった。

 脱退する原因として考えられることは、メンバーと喧嘩したとか、事務所とトラブったとか。あたしに想像できる理由はそのくらいだった。


 その夜、あたしは思い切ってヒカリに電話してみた。今まで彼に自分から電話したことはなかった。まさかこんな形で自分から電話するようになるなんて、思いもしなかった。でも、彼の身に一体なにが起きたのか、知りたかった。知らなきゃいけないと思ったのだ。

 あたしの携帯に残されている、ヒカリが勝手に登録した彼の電話番号。彼に初めて会った日のことを思い出す。この番号が変わっていないことを願いながら、通話のボタンを押した。

 彼が出たら、一体なにから話せばいいだろう。驚くだろうな。ドキドキしながら携帯を耳にあてると、ほどなくしてアナウンスが流れた。

「おかけになった電話は、電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため、かかりません」

 電話番号が変わっていないらしいことに安堵した半面、ショックだった。電波が届かないところにいるとは考えにくい。ヒカリは電源を切ってるんだろう。彼はあたしが電話することを知るわけないから、他の人の電話も受ける気がないってことだ。この番号以外の携帯を持っていないのなら、電話を一切受け付けないってこと。ということは、脱退したって可能性は大きい。

 その夜、何度か電話してみたけど、機械的なアナウンスが空しく繰り返されるだけだった。


 翌日から、またメディアの人たちがあたしの周りに現われた。思った通り、彼らの目的はヒカリの脱退についての情報と、あたしとの関係のその後を知ることだった。あたしは以前のように無視を通した。

 ヒカリには、折を見て何度か電話をしてみた。結果は同じだった。

 無表情なアナウンスを何度も聞くと、空しくなる。繋がらない電話を切ると、悲しくなる。涙が出そうになる。

 でも、ヒカリに別れを言い出したのはあたしのほう。彼があたしからの電話に出たくない気持ちはもっともだ。今さら話をしたいなんて、あたしのわがままだってことはわかってる。

 彼の言葉を思い出す。

——もしユウナちゃんにそのつもりがないんだったら、もう会わないことにしよう。

 別れた以上、彼はあたしと話をしたがってないだろう。あたしと会いたがってないだろう。きっとそうだ。

 でもあたしの気持ちは違った。ヒカリと話したい。ヒカリに会いたい。彼がなにか問題を抱えてるなら励ましてあげたい。少しでも力になりたい。そしてもう一度ヒカリの笑顔を見たい……!

 あたしは、今までにないほどヒカリを求めていた。彼に会いたくてたまらなかった。


 土曜日、ヒカリのマンションに行ってみた。勇気を出して階段を上がる。以前と同じくネームプレートに名前はなかったけど、入口を見る限りなにも変化はなかった。

 呼び鈴を押して少し待ってみる。反応がない。車はあるから、中にいるのか、寝てるのか。近所に出掛けてるとか、電車でどこかに行ったとか、知り合いの車で出掛けたとか。あれこれ考えてみたけど、どれも可能性がありそうで全くわからない。しばらく待ったけど彼に会えそうになく、あたしは諦めて家に帰った。

 翌日も同じことを繰り返した。次の週末も。でもヒカリの消息は全く掴めなかった。


 何度目かの土曜日、いつものように呼び鈴には反応がなく、あたしは身を翻して階段を降りた。いい天気だった。コートもいらないみたい。小春日和とはこのことだろうな。

 せっかく外に出たから、どこかに行きたくなった。目的もなく歩き、マンションの近くの公園にやってきた。いつだったか、ヒカリと太郎と三人、正確には二人と一匹で来た公園。太郎は元気にしてるかな。太郎に会いたいな。そんなことを考えながら、公園の入口まで歩く。


 暖かな土曜日の午後。あのときのように、親子連れが多い。子どもたちが砂場や遊具で遊んでいる。なんて平和なんだろう。あたしの周りとは大違いだ。

 そのとき、入口に近い大きな木の陰に男の人の姿を見つけた。木に背をもたせ掛け、トレンチコートを着て、見るともなしに公園にいる人たちを眺めている。片手をコートのポケットに突っ込み、もう片手で煙草を吸っている。ヒカリだった。

 見つけた……! 会いたかったヒカリ。彼があたしの視界の中にいる。話したいことがたくさんある。なんて声をかけたらいいんだろう。

 一歩ずつ近付いてみる。木陰にいる彼はあたしに全く気づいてないようだった。最後に会ったときより髪が伸びて、無造作に彼の肩にかかっている。少し痩せたんじゃないかな。あたしは注意深く彼に視線を合わせ、ゆっくりと歩を進めて声をかけた。

「ヒカリ……」

 ヒカリは驚いて振り返り、視界にあたしを捉えて、信じられないという顔をした。けれどすぐにあたしを無視するようにまた前を向いて煙草をふかした。

「あの……、元気?」

 彼は短くなった煙草を地面に落とし、靴で踏み付けながら言った。

「変わりないよ」

 ぽつりと呟いたようなその言葉は不愉快そうで、あたしに顔を向けることはなかった。避けてる……。瞬時にそう感じ、心が痛くなった。でもやっと会えたんだから、今どうしてるのか、バンドを脱退したのかどうかだけでも、聞いておきたかった。

「ヒカリ……、バンド脱退したって聞いたけど、本当?」

 ヒカリはチラリとあたしを見た。その視線は冷たかった。

「あんたに関係ないだろ」

 今まで優しく「ユウナちゃん」と呼んでくれたヒカリから「あんた」と言われたことがショックだった。関係ないと言われたことも。彼の言葉があたしを刺す。ヒカリはやっぱり怒ってるんだ。あたしが一方的に別れたから。あたしは、こんなにも彼を傷つけたんだ。あんなに優しかった彼を……。項垂れるしかなかった。

「ごめんなさい……。そういう噂を聞いて、心配だったから……。今どうしてるか、これからどうするつもりなのか……」

 ヒカリはまたチラッとあたしを見てから、吐き捨てるように言った。

「クレセント・ムーンの曲のほとんどは俺が書いてる。その印税だけで当分は生活していける。その気になればソロでも、プロデュースでも、スタジオ・ミュージシャンとしてでも、仕事には困らないさ」

 すがっていた木から身体を起こし、彼はコートの裾を軽くはたいてその場から去ろうとした。

「待って、ヒカリ……!」

 彼は背を向けたまま足を止めた。バンドに戻って欲しい。そして以前の彼に戻って欲しい。あたしはそれを願って言った。

「あたしに……なにかできることは、ない?」

 緊張した背中をあたしに見せたまま、彼は右手の拳をギュッと握った。

「二度と……俺の前に現われるな」

 彼とあたしの間の空間が、ピキンと音を立てて割れた気がした。その欠片があたしの心に刺さった。冷たい言葉。あたしは動けなかった。

 彼はそのまま歩いて行った。

 終わった……。彼との関係は、本当に終わってしまったのだ。


 その夜、あたしはずっと泣いた。今日やっと会えたヒカリ。彼との言葉のやり取りであたしは傷つき、それをどうやって癒したらいいかわからなかった。

 でも、いくら泣いていてもヒカリとの仲を修復できないのはわかっていた。それなら、せめてバンドだけは続けて欲しい。あの、きらきらと輝くような音を、聴いてるだけで幸せになるような音楽を、もっともっと創って欲しい。心に沁みるような美しいバラードを、ずっと創り続けて欲しい。そのために、あたしは一体なにができるだろう……。


 それから一週間ほどしたある日、彩姉から電話が来た。

「祐奈、元気にしてる?」

「ん……」

「どしたの? 元気って声じゃないね。なんかあった?」

 彩姉、相変わらず鋭い……。あたしは、ヒカリと本当に終わってしまったことを、彩姉に話した。こうして話せるってことは、あたしの中で少し整理がついたってことだろうか。そうとも思えないけど、とにかくちょっとは元気になれたってことかな。

 話を聞いた彩姉は、小さく溜息をついた。

「祐奈、あんた、ヒカリと別れて、ほんとにそれで納得してる?」

「納得もなにも、だって、こうなっちゃったんだもん、仕方ないよ」

「仕方ないじゃなくて、あんたはそれでいいの?」

 それで……いいとは思わない。でも、もうどうにもできない。

「ヒカリのこと、もうなんとも思ってないの?」

 あたしは思わず叫んだ。

「思ってないわけないよ! あたし……、あたし……ヒカリのこと、ホントに好きだったんだから!!」

 彩姉は落ち着いた口調で、あたしを諭すように言った。

「じゃあ、このまま諦めちゃダメ。ちゃんとその気持ちをヒカリに伝えなきゃ」

「でも……、ヒカリはもうあたしと会ってくれないよ」

 彩姉は小さく笑った。

「祐奈、それ、ヒカリの本心だと思ってる? 彼が、本当にあんたに会いたくないと思ってると思うの?」

「えっ?」

「祐奈なら、どう? 結婚したいって思うほど本気で好きな人と、喧嘩したわけでもないのに急に嫌いになれる? もう二度と会いたくないってホントに思える?」

「それは……」

「会いたくないってのは、彼の本心じゃないわよ。ううん、別れてしまった好きな子と会うのが辛いって意味じゃ本心かもしれないけど、でも、ホントの本心じゃないわよ。祐奈、頃合いを見て、ちゃんと気持ちを伝えるのよ。協力するから」

「うん……」

 彩姉が言うことは、わからなくはなかった。でも、本心を伝えたところで、彼はそれを受け入れてくれるだろうか。それが心配だった。

「あ、それで、ダイチとのことだけど、祐奈に直接伝えたくて」

「うんうん、その後、どう?」

 彩姉が遠慮がちに言った。

「会社を退職して彼と正式に結婚することになったの。で、急なんだけど、内々だけで式を挙げることになって、祐奈にも来て欲しいんだ」

「えーっ! そうなんだ! よかったね、彩姉」

 鬱いでいた気持ちが少し明るくなった。

「式を済ませてから、マスコミに公表する予定。祐奈んとこにも急いで案内状を送るから、よろしくね」

 電話を切ってから、あたしはいろいろ考えた。彩姉はダイチとの愛を大事に大事に温めて、結婚という結果に結び付けたんだ。彩姉ってすごい。

 あたしにはそれができなかった。今からでも取り返しがつくだろうか。あたしは、彩姉みたいに、なにがあっても彼に付いていくだけの覚悟ができてるだろうか。気持ちを伝えたら彼はあたしを許してくれるだろうか……。それから彩姉の結婚式の日まで、あたしはそんなことをいっぱい、いっぱい考えた。


 * * *


 二月のバレンタインデーの日、彩姉とダイチの結婚式の日が来た。あたしは淡いピンクでヒラヒラの膝丈のドレスを着て、フェイクファーのコートを着て、慣れないヒールを履き、おぼつかない足取りで式場のホテルに入った。

 お父さんとお母さんと一緒に彩姉の控室に入る。

「彩姉、結婚おめでとう!」

 彩姉は純白のウエディングドレスを着て、お化粧を済ませ、髪もきれいに整えられて、もうすっかり仕度ができていた。きらきらと輝くティアラに長いヴェールが素敵。まるでモデルさんみたいに綺麗な彩姉。少しふっくらしたお腹もなんだか愛おしく見える。眩しいくらいに輝いてる。

「祐奈、ありがとう!」

 彼女は椅子から立ち上がり、あたしを抱きしめた。

「彩姉、すっごく綺麗だよ。ダイチが惚れ直すこと間違いなし!」

 言うと、彩姉は嬉しそうに微笑んだ。なんて穏やかで綺麗な笑顔なんだろう。

「次は祐奈の番だからね。一緒に幸せになろう」

「うん……」

 あたしは、彩姉みたいに幸せになれるのかな。正直、不安だった。


 式の時間が近付き、あたしたちはチャペルに移動した。小さなチャペルだけど、家族や本当に親しい人たちだけで式を挙げるにはちょうどいい。ステンドグラスから入り込む光に溢れ、花で飾られて美しく、別世界に来たようだった。

 パイプオルガンの音色が厳かに響き、式が始まった。背の高いダイチは凛々しくて、彩姉は本当に綺麗で、あたしはうっとりして二人を見ていた。誓いの言葉も、指輪の交換も、誓いのキスも、溜息が出るほど素敵だった。二人はこの瞬間、本当に夫婦になったんだ。彩姉とダイチが本当に愛し合って、お互いを信頼してるのがわかる。心からこのときを待ち望み、喜んでるのが感じ取れる。あたしは感激して、涙が出た。

 披露宴も素晴らしかった。彩姉手作りのウエディングケーキには、薔薇がいくつも飾られて可愛らしい。彩姉はどんな気持ちでこれを作っただろう。ダイチも、テレビやライブで見る表情とは違って穏やかで、幸せそうだ。

 あたしは思った。結婚するって、こういうことなんだ。二人で心をひとつにして、支えあって、大切なものを守っていく。愛する人とそれができるのは、どんなに素敵なことだろう。結婚してこれから家庭を作ろうとしている彩姉とダイチの姿を目の当たりにして、「結婚」の意味がやっとわかった気がした。ヒカリが求めていたものは、これなのかもしれない。

 あたしは、彩姉とダイチの姿に、あたしとヒカリを重ねて見ていた。

「ユウナちゃん」いつも優しくそう呼び、あたしに穏やかな眼差しを向けてくれたヒカリ。

「俺の全部でユウナちゃんを守るよ」そう言ってあたしを励ましてくれたヒカリ。

 早朝、ツアー先の名古屋から車を飛ばして会いに来てくれたヒカリ。

「好きだよ、ユウナちゃん……」そう言って抱きしめてくれたヒカリ。

 愛しい……。あたしの心は彼への気持ちで溢れかえっていた。彩姉とダイチのように、あたしもヒカリと結婚したい。ずっと、ずっと彼と一緒にいたい。そして、その気持ちをヒカリに伝えたかった。ううん、伝えなきゃいけないと思った。


 * * *


 昼過ぎ、披露宴が終わってから、あたしはお母さんに、寄りたいところがあるから先に帰ってと言い残して、ヒカリのマンションに向かった。

 駅からマンションまでの五分の道のりを歩きながら、あたしはヒカリにどんな風に気持ちを伝えたらいいんだろうって、ずっとそれを考えていた。たとえヒカリが分かってくれても、そうでなくても、とにかくヒカリに対する気持ちが変わっていないこと、ううん、以前よりもっと好きなことを伝えたいと思った。こんなに好きだって想いを、どんな言葉で伝えればいいんだろう。


 ヒカリのマンションに着くと、彼の車が駐車場にあった。家にいるかもしれない。

 期待を込めて呼び鈴を押す。だけど、いつものようにヒカリは出てこなかった。どこかに出掛けてるんだろうか。今日は絶対に気持ちを伝えたい。あたしはそう決めていたので、マンションの前でヒカリを待った。

 三十分、一時間……。待っててもヒカリは帰って来なかった。

 もう一度呼び鈴を押してみた。すると、中から声が聞こえた。

「ニャアン」

 太郎だ。

「太郎、太郎なの?」

「ニャア」

 間違いない。太郎だ。

「太郎、あたしよ、祐奈よ。開けて。ねぇ」

 猫にこのドアを開けられるはずはない。それはわかってるんだけど、なんとかこのドアを開けて中の様子を、ヒカリがいるかどうかだけでも確かめたくて、あたしはドアをノックして開けてと言い続けた。カリカリカリ……と、中からドアを引っかくような音がした。太郎がドアを開けようとして爪を立ててるんだ。

「太郎、開けて」

 しばらくの間カリカリいう音が聞こえていた。けどそのうち音がしなくなった。太郎は諦めて奥の部屋に入っていってしまったらしい。

 あたしはまたここでじっとヒカリを待つハメになった。ヒカリと一緒に暮らしてる太郎が羨ましい。今ではヒカリにとってあたしの存在なんて、きっと猫以下だ……。泣きそうになって、あたしは廊下に座り込んだ。

 やがて辺りが薄暗くなってきてあちこちに灯りが灯り、そのうちすっかり暗くなった。今日はヒカリとは会えないんだろうか。だんだん心細くなってくる。たとえ今ヒカリに会っても、もしかしたら公園で会ったときのように拒否されるんじゃないかな……。そう思うと弱気になる……。でも、帰る気にはなれなかった。今日は絶対ヒカリに会わないといけないって気がしたのだ。

 時計を見ると、九時を回っていた。お母さんに、もう少し遅くなるからと電話を入れた。ごめんなさい、お母さん、どうしてもヒカリに会いたいの。心の中でそう謝りながら。


 それからさらに一時間が経った。ヒカリに電話してみた。やっぱり、以前のように通じなかった。

 ヒカリは今夜は帰って来ないんだろうか。朝までここにいても、ヒカリに会えないのかな。徹夜も覚悟だったけど、とにかくヒカリが今どこでどうしているのか、知りたかった。

 あたしは携帯にサイの番号を表示した。以前、ヒカリとサイの家に遊びに行ったとき、なにかあったらいつでも電話してって、サイが直接あたしの携帯に入れてくれた番号だ。通話のボタンを押してしばらくすると、サイが出た。

「はい」

「……サイ? ……祐奈です。遅くに電話してごめんなさい」

「ユウナちゃん? どうしたの?」

 サイは驚いたらしく、心配そうな声だった。

「今、ヒカリのマンションの前にいるの。話したいことがあってずっとヒカリを待ってるんだけど、留守みたいで……。ヒカリがどこにいるか知らないかな」

 サイは少し考えてから言った。

「あいつ、一か月くらい前にバンドを抜けるって言ってさ、それから俺も会ってないんだ」

 やっぱりヒカリはバンドを脱退してたんだ。なにがあったんだろう。

「そうなんだ……。わかった。忙しいとこ邪魔してごめんなさい」

 あたしがそう言うと、サイが訊いてきた。

「ユウナちゃん、今一人でいるの?」

「うん」

「もう十時過ぎてるよ。今日は帰ったほうがいいよ。女の子が一人で遅くまで出歩いてると危ないよ」

「ん……。でも、どうしても話したいことがあるの。もう少し待ってみる」

「あいつ、最近キョドフっぽいみたいだから、待ってても会えるかどうかわかんないぜ」

 サイが親切にそう言ってくれた。会えるかわからないのは覚悟の上だ。

「心配してくれてありがと。でも、どうしても会いたいから。ごめんね、心配かけて。じゃ」

 電話を切ろうとしたら、サイがあたしの声を遮って言った。

「ユウナちゃん、俺、そっち行くよ。変な奴に付いて行ったりすんじゃないぜ。待ってなよ」

「え。そんな、悪いよ。あたしは大丈夫だから」

「俺は構わないから。じゃ、後でね」

 言って電話は切れた。

 サイもずっとヒカリに会ってないんだ。あんなに仲が良かったのに。二人の間に、バンド仲間との間に、一体なにが起こったんだろう。


 しばらくして、カンカンと階段を上がる靴音がして、廊下の蛍光灯の光の中にサイと聖月さんが現われた。

「ユウナちゃん、久しぶり。元気そうでよかった」

 サイはそう言って、ドアの前、あたしの隣に座り、その隣に聖月さんが座った。

「忙しいのにごめんなさい」

「大丈夫。最近暇だから」

 そう言って、サイは人懐こい顔で笑った。

「噂でも聞いたんだけど、バンド、ヒカリはホントに脱退したの?」

 あたしが訊くと、サイはあたしを見て頷いた。

「うん。だから、俺、今仕事なくてさ。暇なの」

 そう言って、自虐的に笑った。聖月さんもつられて笑った。

「どうして……? 喧嘩でもしたの?」

「いや」

 サイはジーンズのポケットから煙草を出し、火をつけた。

「きみとヒカリが別れたって話、聞いたよ。それからヒカリはすっかりやる気をなくして、セッションしてても上の空でさ。曲も書ける状態じゃないから、もう続けられないって。少し充電期間をおこうって提案したけど、みんなに迷惑かけるの嫌だから、新しいギタリスト探すなりなんなりしてくれって言って、それきり来なくなった」

 あたしのせい……。あたしのわがままで、バンドのみんなやその関係者にまで迷惑かけてるんだ……。心が痛くなった。

「ごめんなさい……」

 サイはあたしを見て、小さく笑った。

「きみが謝ることはないよ。これはヒカリと俺たちの問題なんだから。でも……」

 サイは煙草の煙を吐くと、キッと空を睨んだ。

「あいつは戻ってくる。絶対戻ってくる。だから俺たちは解散せず、新しいメンバーも入れずに、あいつが戻ってくるのを待ってる」

 サイの言葉は力強く、自信が感じられた。彼はキラキラと輝く瞳であたしを見て続けた。

「で、それが今夜かもしれないと思って、ここに来たわけ」

 言って、ふっと笑った。

「え……。どうしてそんなことわかるの?」

「だって俺、あいつのことメチャメチャ愛してるもん」

 サイは子どものように笑った。

「ホント、妬けるわ。ねぇ、ユウナちゃん」

 聖月さんが冗談めかして言う。羨ましいな、こんなに理解してくれて、信じてくれる人がいて。

「あたしも、サイみたいにヒカリを理解したい」

「いいんだよ、ユウナちゃんはユウナちゃんのままで」

「そうかな……」

「そうだよ」

 そう言われると、ちょっと気が楽になった。

「あたし、今日、ダイチと彩姉の結婚式に行って来たんだ」

 あたしが言うと、サイはああ、と頷いた。

「そう言えば、今日だったね」

「うん。すっごくいい結婚式だったの。で、あたし、結婚するってどういうことか、やっとわかった気がしたの」

「うん」

「ヒカリと知り合って二か月くらいで、いきなり結婚を前提にして付き合って欲しいって言われたでしょ。でもあたし、結婚なんて考えたことなかったから、今までよくわからなかった」

 ヒカリとこれだけ仲のいいサイだから、あたしたちのことはなんでも知ってるだろうと思って、あたしは安心してサイに打ち明けた。すると、サイは意外なことをあたしに言った。

「確かに、二か月でそんな話されたら戸惑うだろうね。でもヒカリにとって、きみと出会ってからの二か月は、すごく中身の濃いものだったんだよ」

 あたしは意味がわからず、キョトンとしていた。

「ヤツは二か月の間、きみをすごくよく見ていた。観察してたって言ってもいい。それできみがどんな子かを理解し、好きになっていったんだ」

「どうして? あたし、美人でもないし、特別な物もなにも持ってないよ」

 サイは少しの間、黙って空を見ていた。廊下の照明がサイの金色の髪を照らし、整った横顔に影を作る。サイはゆっくりと話し始めた。

「ヒカリには、高校のとき付き合ってる子がいた。オーケストラ部でフルートを吹いててね。高二のときの全校集会で、オケ部の演奏が披露されたんだ。その中の一曲に『コーカサスの風景』から『酋長の行列』って曲があって、冒頭のピッコロのソロを彼女が吹いたんだよ。ピッコロって楽器、知ってる? フルートより短くて、高い音が出るやつ」

「うん……」

 ピッコロは知ってる。その軽やかで美しい音色も。でもあたしにとって興味があるのはピッコロの話ではなくて、「コーカサスの風景」の曲のほうだった。タイトルに覚えがある。ヒカリの車に初めて乗ったとき、車の中にあったCD。その中の一枚がその曲だった。ヒカリの車の中にそれがあるってことは、ヒカリは今でもその彼女が好きなんだろうか。心臓が高鳴ってくる。

「ピッコロは扱うのが難しくてね。だけど、彼女の奏でる音はとても美しく軽やかだった。ヒカリは一発でその音に魅了されて、彼女に交際を申し込んだんだ。ヒカリはあの通りルックスも性格もよくて人気があったから、彼女はすぐにOKした。そして、二人は付き合い始めたんだ」

 今のヒカリには女の子の影がない。あたしはそれで安心していた。でも、好きな子がいたんだ。サイがあたしにそんな話をするってことは、ヒカリはその子がすごく好きだったに違いない。彼女が奏でた曲のCDを車に置いてるヒカリ。今でも彼女のことが好きなのかも……。あたしは思わずギュッと目を瞑った。

「その人、なんて名前?」

川島杏かわしま・あん

 かわしま……あん……。ヒカリが好きになった人。あたしより前に。どんな外見をして、どんな人だったんだろう……。ヒカリとなにを話して、どこに行って、どんな時間を過ごしたんだろう……。そして今、ヒカリとその人はどういう関係なんだろう……。見たこともないその人に、あたしは激しい嫉妬を感じていた。

「杏はフルート奏者になりたいという希望を持っていて、音大志望だった。実際、それだけの能力を持っていた。俺たちもその頃からバンド組んで音楽やってたこともあって、二人はよく音楽の話をしていた。ヒカリは杏に影響され、クラシックの勉強をするようになった。音楽史や作曲家について、演奏法、作曲法なんかを独学で勉強するのさ。俺たちの音楽にクラシックの影響がみられるって評は、そうしたヒカリのバックグラウンドのせいだろうな」

 あたしは黙って膝を抱え、胸の痛みを感じながらサイの話を聞いていた。サイは続ける。

「杏は東京芸大に進学し、ヒカリは杏のいる東京の大学に進学したかったから明治を選んだ。二人は大学に入ってからも付き合ってた。ところが一年の夏休み、杏は学校の合宿で信州に行き、そこで合宿のバスが起こした事故に巻き込まれて死んだんだよ」

 え……?

 あたしは驚いてサイの顔を見た。サイは淡々と話を続けた。

「ヒカリがどのくらい杏のことを好きだったかはわからない。杏自身が好きだったのか、それとも彼女の音楽の才能に惹かれてたのか。杏も本当にヒカリが好きだったのか、今となってはわからない。二人は音楽の話ばかりしてたからね。でも、ヒカリがその後女の子と付き合ってないところを見ると、ヒカリなりに杏に対する思いはあったんだろう」

 そこまで話して、サイは短くなった煙草を廊下のコンクリートに擦り付け、新しい煙草を出して火をつけた。大きく煙を吐くと、サイはまっすぐあたしを見て言った。

「ユウナちゃん。初めてきみを見たとき、俺たちは驚いたよ。きみは、杏にそっくりなんだ」

 ……! 言葉が出なかった。

 うそ……。あたしが、ヒカリが好きだった人にそっくり? そんなのうそ……。

「あの日楽屋できみを見た瞬間、俺たちは目を疑った。杏は生きてたのか? ってさ」

 楽屋での出来事を思い出してみる。確かに、サイとヒカリがあたしを見る目は不思議そうだった。それはあたしも気になってた。

「顔だけじゃなくて、声や喋りかたもどことなく似てる。杏もきみみたいなポニーテールだったしね。ヒカリは瞬時に思ったそうだ。この子が杏じゃないことを確かめないと、ってね。そうじゃないと、杏がまだ生きてるって妄想に駆られてなにも手につかなくなる、って。ヤツはそう言ってた。だから、あいつは咄嗟にきみと携番を交換したんだよ」

 そうだったんだ。それですべて納得がいく。ヒカリがいきなりあたしと携番を交換したわけも、あたしにメールをくれて、コンサートや食事に誘ってくれたわけも……。

「じゃああたしは、亡くなったその人の身代わりなの……?」

 泣きそうになった。ヒカリはあたし自身が好きになってくれたんだと信じてた。なのに、以前の恋人に似てるから、その人の身代わりだったなんて……。嫌だ! 嫌だ!! ヒカリがあたしを通して元カノを見てたなんて……!!

 サイはちらっとあたしを見て、フッと笑った。

「最初、ヒカリはきみに杏の面影を求めてたかもしれない。でも、あいつだって杏が死んだことは理解してる。だから、ヤツはきみと杏との違いを探した。きみが杏じゃない証拠を一生懸命ね。メールの言葉の端々、会話のひとつひとつ、文字から感じられる感情、仕草や癖、好みから性格に至るまで、注意深く、真剣にきみを見ていた。だからヤツにとって、きみとの最初の二か月は、他の人の一年分にあたるくらい濃い時間なんだよ」

 出会った頃のヒカリは、そんな風にあたしを見てたんだ。知らなかった……。

「あたし……、その杏って人と違ってた? どこが違ってた?」

 苦しい心を抱えてそう訊くと、サイはくすっと笑った。

「それはヒカリに訊くんだね」

 スルーされて、あたしの心はもっと苦しくなった。そんなあたしの気持ちが顔に現われたからか、サイはアハハと笑って教えてくれた。

「きみと少し付き合うと、杏との違いが次々にわかったってヒカリは言ってた。杏はどっちかっていうと和食が好きだったけど、きみはイタリアン派。杏はあまり甘い物を食べなかったけど、きみはケーキもアイスも大好き。杏は人込みが苦手だったけど、きみはテーマパークや流行りのショップが好き。杏は年上の人でも物おじしなかったけど、きみはヒカリに遠慮して、自分からメールしたり電話したりしない。そしてなにより、杏はいつもポーカーフェイスだった。でもきみは喜怒哀楽がストレートに伝わってきて、表情がとても豊かだって。それから……」

「もういい!」

 あたしは大声でサイの言葉を遮った。あたしの知らない杏っていう女性があたしの目の前に現われそうで怖くて、抱えた膝の上に顔を埋めた。しばらく沈黙があってから、サイの穏やかで優しい声があたしの耳に響いた。

「それからはね、ユウナちゃん、ヒカリはきみのことを『可愛い』って言うようになったんだよ。きみを『森下祐奈』だって認めたな、と俺は思った」

 あたしは驚いて顔を上げ、サイを見つめた。サイは穏やかな視線をあたしに投げかけ、きれいな笑顔でにっこりと微笑んだ。

「ユウナちゃん、きみは自信をもっていいよ。きみは杏の身代わりなんかじゃない。考えてもごらんよ。身代わりの子に結婚を考えて欲しいなんて言うかい? そんな気持ちで結婚したって、すぐに破綻するよ。ヒカリはそれがわからないほど馬鹿じゃない」

 サイの言葉には説得力があった。彼の言うとおりだと思った。

「ユウナちゃん」

 今まで黙ってあたしたちの話を聞いていた聖月さんが、遠慮がちに口を開いた。

「ユウナちゃんの気持ちはどうなの? 今日ヒカリに話をしに来たって聞いたけど、よかったらなにを話したいのか聞いてもいい?」

 訊かれて、あたしは正直に答えた。

「あたし……、ヒカリに謝りたい。ヒカリと付き合ってることを週刊誌に書かれてから、あたしの周りに知らない人がいっぱい集まって……、学校でもいろいろ言われたりして……、どうしていいかわからなかったの。精神的に疲れてしまって、それでヒカリにもうダメって言っちゃった。でも、あたし、やっぱりヒカリが好き。だから、ヒカリにごめんなさいって言いたい。ヒカリは許してくれないかもしれないけど……」

 サイはにっこりして言った。

「大丈夫だよ、ユウナちゃん。あいつはきみにゾッコンだから」

 あたしは首を横に振った。

「この前偶然会ったんだけど、二度と俺の前に現われるなって言われた。あたし、ショックだった……。きっとすごく怒ってるよ……」

 クスクスとサイは笑いながら呟いた。

「あいつ、まだ引きずってるのか」

 そしてあたしの肩をぽんと叩いた。

「心配しなくても大丈夫だよ。俺が応援する」

 あたしを見るサイの大きな瞳は、あたしを包み込むように温かく、優しかった。

「ありがと、サイ……。あたしも、サイと聖月さんみたいに、ヒカリとこれからも仲良くしていきたい。彩姉とダイチみたいに……」

 結婚式で見た、眩いばかりに美しい二人の姿が思い出されて、ふと涙がこぼれ、その後の言葉が続かなかった。サイが黙ってあたしの肩を抱いてくれた。あたしはヒカリに対する思いが溢れてなにも言えなくて、ただ泣いていた。


 * * *


「遅ぇなぁ、あいつ」

 サイが呟く。時計は十二時になろうとしていた。あたしたちが座り込んでいるコンクリートの廊下はますます冷え込んで、身体の芯から震えてくる。もう諦めて帰ろうかと思ったときだった。

 階段からカツカツと靴音がして、人影が現われた。ヒカリだった。彼は一人じゃなかった。隣には女性がいて、二人で笑いながら楽しそうに歩いている。

 ダークブラウンに染められたセミロングの髪。整った顔立ちの綺麗な人。ヒカリと同じくらいの年齢で快活そうなその人は、ヒカリとお揃いのようなダウンジャケットを着て、自分の手をヒカリの腕に回し、くっつきそうなほど顔を近付けてひそひそと話しながら笑っていた。

 瞬間、ヒカリの彼女だと感じた。こんな時間に女性と二人で仲良さげに帰って来るなんて、彼女以外あり得ない。二度と俺の前に現われるなって言ったのは、そういうことだったんだ。そんなこと想像もしていなかったあたしは、雷に打たれたようなショックだった。

 二人はそのまま近付いて来る。あたしは全身が固まって、息ができないくらいだった。

 隣の部屋のドアまで来て、ヒカリがようやくあたしたちに気づいて立ち止まった。彼と目が会うと、突然大粒の涙が出た。そのまま立ち上がり、ヒカリの脇を抜けて急いで階段を降りた。

 見たくなかった……! ヒカリの新しい彼女なんか……!!

 階段を降りて少し走るともう力が出なくて、倒れるように歩道の端に座り込み、声を殺して泣き崩れた。涙が止まらない。胸が苦しい。ヒカリはあたしのことなんか忘れて、新しい恋を始めたんだ……。


「ユウナちゃん……」

 しばらくして背後から声がした。ヒカリの声だった。あたしは振り返ることができなかった。

「あわてんぼ。今一緒に帰ったの、彼女だと勘違いしたろ。あれ、俺の姉貴だよ」

 え……? 姉貴? お姉さん?

 驚いて振り向くと、ヒカリがあたしを見下ろしていた。

「マンションを引き払って広島に帰ろうと思って、荷造りとか手伝いに来てもらったんだ。前から東京に遊びに行きたいって言ってたから、それも兼ねて。今日は姉貴をあちこち連れて歩いて来たから、こんな時間になっちゃった」

 言いながら彼はあたしの前に回って跪き、手で涙を拭ってくれた。

「……ホント?」

「嘘ついたってしょうがないだろ」

「広島に帰るって話も?」

 彼は瞳を閉じて、辛そうな顔をした。

「……そのつもりでいる」

「そう……」

 彼がせっかく拭いてくれたのに、また涙が出てきた。目の前にいる彼が広島に帰ってしまったら、きっと二度と会うことはないだろう。そんなのって、悲しすぎる……。

「昼からずっと待っててくれたんだって? 最後だから、話を聞くよ」

 こんな形で最後になるなんて……。思ってもみなかった。ヒカリとこれからも一緒にいたい、ずっと一緒にいたいって伝えたくてここに来たはずなのに。

 いや……。最後なんて、いや……。いやだよ……。心の中でそう繰り返す。

 ヒカリはなにも言わず、苦しそうな、泣きそうな目を向けてあたしの言葉を待っていた。あたしはぽつりぽつりと話し始めた。

「今日、彩姉とダイチの結婚式に行って来たの。すごく素敵で……。それで、あたし、結婚するってことがどういうことか、やっとわかった気がしたの。それをヒカリに伝えたくて……」

「……うん。どういうことだと思った?」

「愛する人と心をひとつにして、支えあって、大切なものを守っていくことだって……」

 ヒカリがクスッと笑った。

「そんな難しいことじゃないよ」

「え……?」

 あたしはびっくりして目を上げてヒカリを見た。

「じゃあ……なに?」

「二人で一緒に幸せを探すことだよ」

 ヒカリの笑顔を見て、目が覚めた気がした。初めて知った。ヒカリが結婚をそんな風に考えてたなんて。二人で一緒に幸せを探す……。それならあたしにもできそう。でも……。

「俺と一緒に幸せを探してみる?」

 ヒカリが悪戯っぽく言った。

 え? それって、あたしと結婚してくれるってこと?

 あたしは彼の言葉が信じられなくて、返事ができなかった。ヒカリはしばらくあたしの返事を待ってたみたいだけど、しびれを切らして言った。

「ユウナちゃん、二度目だぜ。俺のプロポーズに返事してくれないの?」

 あたしは驚いてヒカリに確認した。

「あたしと……結婚してくれるの?」

 瞬間、彼の長い腕が伸びて、ふわっとあたしを包み込んだ。

「もちろん、喜んで。ただし、今度はキャンセルはナシだよ」

「ヒカリ……。ありがとう……」

 また、涙が溢れた。今度は嬉しくて。

 ヒカリがあたしの耳元で囁く。

「辛い思いをさせたね。ごめん」

「ううん、あたしこそ……」

 あんな辛いことがあったのに、あたしたちはなにも変わってなかったんだ……。心のつっかえがすべて流されていく。あたしはしばらくの間、ヒカリの広くて温かな胸に抱かれ、幸せと心地良さを噛みしめていた。

 やがてヒカリが腕を解き、あたしの右手を握ると、もう一方の手でポケットからなにかを出して掌に乗せた。彼の手が離れると、そこに現われたものは、赤いリボンの付いたキーだった。

「これって……」

 あの日、あたしが彼の車のダッシュボードの上に置いたスペアキー。あたしは目を上げてヒカリを見た。彼はちょっと恥ずかしそうに言った。

「何度も捨てようと思ったんだけど、捨てれなくて……。ずっと持ってた」

 彼の言葉が心に沁みる。あたしのことを嫌ったりしてなかったんだ。怒ってたわけでもない。きっと、あたしが彼を必要とするのと同じように、あたしを必要としてくれてたんだ……。

 彼は両手であたしの右手を包み込んでキーを握らせた。

「これは、ずっとユウナちゃんのものだよ」

「うん……」

 それからあたしの左手を握って言った。

「おいで、姉貴に紹介するよ。それと、引越しは中止だ」

 立ち上がり、並んでマンションに向かって歩き出す。ヒカリの温かい手があたしにしっかりと繋がれている。あたしの宝物、大切なこの手を、もう二度と離さない。あたしは心の中でそう誓った。

 空を見上げると、銀色の月があたしたちを祝福するように輝いていた。


END

長い文章を読んで下さり、ありがとうございました。

今回で完結です。

感想などいただけたら嬉しいです。

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[良い点] 太宰治じゃないですが、同じものを人はみていたとしても、それぞれがそれぞれのパラダイムでそれをみていて、相手の立場にって見た時、まったく違うものをみていたと気づかされる。普段でも、そういった…
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