表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀色の月  作者: 篠崎葵
2/6

第二章 ドキドキの夏休み

 八月に入り、補習が休みになった。これから半月が本格的な夏休み。

 でも毎日暑い。暑すぎ! あたしは智ちゃんとメールをやり取りしたり、時々遊びに出掛けたりして少しでも快適に過ごせるよう心掛け、短い夏休みを満喫しようとした。

 ヒカリからの電話はしばらくなかった。電話どころか、メールもほとんど来なかった。忙しいのはわかってる。彼がそう言ってたから。でも、忙しさの中であたしのこと忘れられてるんじゃないかなと思うと、寂しかった。

 そうは言っても、あたしはヒカリの彼女ってわけじゃない。付き合って欲しいとも、好きだとも言われたわけじゃない。ヒカリにとって、あたしはただのファンの女の子の一人かもしれない。ううん、きっとそうだ。だってヒカリは毎日のようにテレビや雑誌で見る人気ミュージシャンのメンバーで、そもそもあたしなんか相手にしてくれる立場の人じゃない。電話をくれたり、食事に誘ってくれるほうがあり得ないことなんだ。

 そうだとすると、なんであたしに構ってくれたんだろう。なぜあたしにメールくれたり、電話をくれたり、おまけに食事に誘ってくれたりするんだろう。ただの気まぐれ、暇潰しだったのかな。ヒカリとあたしの位置関係がよくわからなくて、あたしはモヤモヤした日々を送った。


「祐奈、アイス食べに行こー!」

 短い夏休みの半ばのある日、智ちゃんに電話で誘われて、あたしたちはコールドストーンに行った。フレンチバニラのアイスにラズベリーとパイナップルを混ぜ、スポンジとキャラメルソースを乗せてもらう。アイスの濃厚な味とフルーツの甘酸っぱさ、キャラメルのほどよい甘さで、サイコー! あたしたちは友達の噂話とか、学園祭の準備の話とか、休み明けの課題テストの話とか、いろいろくっちゃべって、大満足で店を後にした。

 でも、外に出ると、太陽が燦々と輝いて街中を照らしている。アスファルトが午後の太陽光の照り返しを受けてゆらゆらと影を作っている。

「うわー、外に出ると暑いなー。祐奈、コンビニに涼みに行こう」

 あたしたちは涼を求めてコンビニに立ち寄った。ついでに、勉強の合間に食べるお菓子でも買って帰ろう。そう思って雑誌のコーナーの横を通ったときだった。

「あ、クレムン!」

 雑誌を手にした女の子の声が耳に入り、あたしはそれに反応してそっちを向いた。

「どれ?」

 別の子が覗き込むように雑誌に顔を向ける。

「ホントだ。サイ、カッコイイ!」

「ファン感謝ライブだって。観に行きたかったなー」

 三人の女の子たちはくっつくようにして、一冊の雑誌に見入っている。

 あたしは彼女たちの横を通り過ぎ、その雑誌の表紙を確認すると、同じ物を手にとった。『J-music!』。彩姉が編集してる音楽雑誌だ。急いで中をめくってみる。すぐに彼女たちが見ていたクレセント・ムーンの特集ページが見つかった。

 ヴォーカリストらしく、サイの大きな写真が載っている。メンバーの写真やインタビュー記事も。それらのいくつかは、あたしが彩姉と楽屋を訪れたときの写真だった。あの日の出来事が頭の中に甦る。

 サイの好奇心に満ちた、悪戯っ子のような茶色い瞳。それはとても魅力的だ。でもそれだけじゃない、彼は優しいんだよ。あたしにケーキやお茶を出してくれたんだよ。あたしは心の中で隣の女の子たちにそう話し掛けていた。

 メンバーが揃った写真では、サイの横にヒカリがいた。ヒカリの写真もあちこちに載っている。ヒカリの笑顔は、あたしに彼の穏やかで優しい声や仕草を思い出させる。

——やった! ユウナちゃんの番号ゲット!

——迷惑だったかな。気に障ったら消すよ。

——ヒカリさんなんて言われたの初めてだ。ヒカリでいいよ。

——プリプロダクションが終わるまでに、どこかに遊びに行こうか、ユウナちゃん?

 ヒカリからもらった言葉が次々とあたしの耳に甦った。並んで歩くと見上げるほど高い背。あたしの反応を見るときに覗き込むような、興味深そうな表情。無邪気な笑顔。黒い優しい瞳……。

「ヒカリに会いたい!」あたしの心がそう叫んだ。ヒカリはいつの間にか「クレセント・ムーンのヒカリ」以上の存在になっていた。

「なに見てんの、祐奈?」

 智ちゃんの声で我に返った。

「あ、うん」

 驚いて間抜けな返事をしてしまった。智ちゃんはあたしの隣にやってきて、雑誌を覗き込む。

「あ、クレムン。へぇ、カッコイイ!」

 あたしは慌てて雑誌を閉じ、言い訳めいたことを言った。

「これ、従姉妹が編集したんだ。買って帰ろっと」

 レジでお金を払い、そのまま外に出た。初めて出会った日のヒカリが、この雑誌の中にいる……。あたしは雑誌を大事に胸に抱えた。


「どうする、祐奈? どっか行きたいとこあるぅ?」

「んー、別にない」

 あたしたちは目的もなく、ブラブラ歩き始めた。学校はもう一週間休みだし、特に予定もなかった。夏休みだというのに数日前まで毎日主要教科の補習があったから、「さあ、休みですよ」と言われても調子が狂う。

 辺りは夏休みらしく、あたしたちと同じ学生らしい人たちで溢れていて、お喋りしたり笑いながら歩く人もいれば、足早に通り過ぎる人もいる。仲良さそうなカップルを見ると羨ましくなるな。

「映画でも見よっか、祐奈」

「そうだね。今なにやってるっけ?」

 そのとき、あたしはすれ違いそうになった男の人から声をかけられた。

「ユウナちゃん」

 え? だれ?

 顔を上げて確かめると、それはサイだった。

 な、な、な、なんでサイがここにいるのぉ? しかもあたしに声をかけてくるなんて。なんでぇ!?

 驚きながらサイを見つめる。細身のジーンズに包まれたすらりと長い脚、大きな黒いテンガロン・ハットにはさりげなく巻かれた組み紐の端にタッセルフリンジが揺れていて、オシャレ。そこから覗くシャギーの金髪。やっぱサイはカッコイイ。

「久しぶりだね」

 彼は当たり前のようにあたしににっこりと笑いかけた。

「う、うん……」

 こんなところでサイに会うなんて、驚きを通り越して、夢見てるみたい。この人込みの中であたしに気づいてくれたなんて。

「今、忙しいんじゃないの? えっと、プリプロ……なんとかで……」

 言うと、サイはクスッと笑った。

「プリプロダクション」

「そう、それ!」

「よく知ってるね。さっきまで打ち合わせしてたんだけど、ダルくなって逃げて来ちゃった。ヒカリはまだスタジオにいると思うな。俺はこうして逃げることができるけど、あいつはできないからね」

「そうなんだ……」

 ヒカリはどこかのスタジオで、スタッフの人たちと打ち合わせしてるんだ。頑張ってるんだな……。あたしはスタッフたちに囲まれて、一生懸命次のアルバムの構想を話し合ってるヒカリの様子を想像した。

「よかったら、励ましのメールでも送ってやってよ」

「えっ。仕事中でしょ? 迷惑じゃないの?」

 サイは優しそうな瞳でまっすぐにあたしを見て言った。

「メールくらいだったら大丈夫だよ。あいつ、喜ぶぜ」

「ホント?」

「うん」

 その言葉があたしを後押ししてくれるような気がした。

「じゃあ、後でメールしてみる。ありがと」

 サイは満足したように小さく頷いた。

「うん。じゃ、またね、ユウナちゃん」

 帽子の奥で軽くウィンクして、彼は歩いていった。その後ろ姿を見送りながら「サイ、ありがと」と心の中で呟いた。

 サイの姿が見えなくなってからふと横を見ると、智ちゃんの目がハートになってる。信じられない物を見たって顔。

「智ちゃん……。ど、どしたの……?」

「ゆ……祐奈……」

 智ちゃんはカラカラになった喉の奥から搾り出すような声で言った。

「今の……、まさか、クレムンのサイじゃないよね……」

「サイ……だけど……」

 サイの行った方向を見つめていた智ちゃんがあたしに振り向き、まんまるな目をして言った。

「まじでー!? なんで祐奈とサイがこんなにお近づきなの!? なんでーっ!?」

 智ちゃんの大声で回りの人たちが振り向いてあたしたちを見る。

「ちょっと、智ちゃん、静かに。声が大きいよ」

 あたしは慌てて智ちゃんの口に掌を当てた。そして思った。やっぱり智ちゃんには彼らとのことを話しておかなきゃいけないかもしれないって。

「とりあえず、帰ろ。うちくる?」


 部屋に入ると、絶対誰にも話さないように念を押して、智ちゃんに今までのことを話した。彩姉に誘われてコンサート会場の楽屋を訪れたこと。そこでメンバーに優しくしてもらったこと。携帯の番号を登録されたこと。その後、ヒカリと連絡を取り合うようになり、一緒に食事に行ったこと……。

 智ちゃんは「えーっ、まじー?」「うそー?」を連発するばかりだった。信じられないのも無理ない。クレセント・ムーンって言えば今ホントに人気のバンドで、そのメンバーと気軽に話をしたり食事をしたりなんて、絶対にあり得ないことだもん。あたしが智ちゃんの立場だったとしても、そんなの嘘だろって思うだろう。

「でも……」

 智ちゃんはしんみりと言った。

「祐奈がさっきサイと親し気に話してたのは事実だもんね。まさかサイのそっくりさんじゃないだろうし、仮にそっくりさんだとしても祐奈がそんな手の込んだイタズラするなんて考えらんないしね」

 そう言って、あたしの話を信じてくれようとした。あたしは思いっきり大きく首を縦に振った。

「でもさ」

 テーブルの上のコーラを一口飲み、智ちゃんが続ける。

「なんでヒカリは祐奈に構うわけ? 確かに祐奈は可愛いけどさ、どこにでもいるようなフツーの女子高生ってタイプじゃん?」

 そう、そこなのよ。

「あたしもそれがわかんない。でも、特別な付き合いしてるとかそんなんじゃないから」

「ふーん」

 智ちゃんはイマイチわからないといった返事をして、コーラをゴクゴクと飲んだ。

「で、祐奈的にはどうなの? ヒカリとかサイのこと、どう思ってるの?」

 改めてどう思ってるのかって訊かれると、考えてしまう。

 サイはカッコイイお兄さんって感じ。あんな人と友だちになれたら、どんなに楽しくて素敵だろうって思う。そうなれたらいいな、って。相手は人気ミュージシャンなんだから無理だってのはわかってるけど、今日はサイのほうから私に声を掛けてくれたし、友だちって言える日が来るのを心のどこかで期待してる。

 ヒカリに対しては……サイとは違う気持ち。サイに対するみたいに憧れって言うんじゃなくて、もっと近い存在に感じる。もっと温かいものを感じる。そして、もっと近くにいたい、もっとヒカリのことを知りたい……。

 あたしはその気持ちを正直に智ちゃんに伝えようとした。

「二人とも、好きだよ。メンバーみんないい人たちだし。サイとは友だちになれるといいな、って思ってる。ヒカリとは……」

 そこまで言って、あたしはそれ以上言葉を続けることができなかった。自分の気持ちを智ちゃんにどう言葉で伝えていいかわからなかったの。

 あたしがしばらく黙って俯いていると、智ちゃんがぽつりと言った。

「……好きなの?」

 あたしは、コクリと頷いた。

「祐奈ぁ、無理だって!」

 間髪を入れずに智ちゃんが言う。

「女子高生をからかってるだけだよ。遊ばれて捨てられるのがオチだよ。やめなよ」

「ヒカリはそんな人じゃないよ。ホントに優しいんだよ」

 あたしは思わず反論した。飾らない彼の言葉や態度を見てると、それがわかる。

「優しいのだって、そんなフリしてるだけじゃないの?」

「そんなことない。女の子と食事に行くこともないって言ってたもん」

 あたしの言葉を余裕で流して、智ちゃんはコーラを飲み切った。カランと氷の音がする。あたしのほうを見て一息つくと、智ちゃんは力説した。

「いい、祐奈? 芸能人ってあたしたちと常識が違うって言うじゃん。女の子と食事に行くことないなんて、そんなのデマカセでいくらでも言えるんだよ? 祐奈はヒカリのことどれだけ知ってるの? まだ三回会っただけでしょ。悪いことは言わないからさぁ、深追いすんのやめて、フツーの彼氏見つけようよ。芸能人なんて、テレビや雑誌見て憧れてるだけでいいじゃん」

 智ちゃんには好きな人がいる。同じクラスの中嶋くん、通称ナカジーっていう陸上部の男の子だ。そんな智ちゃんから見ると、あたしの気持ちなんて現実離れしてるのかもしれない。智ちゃんの言うことも、わからなくはない。


 智ちゃんが帰ってから、あたしはヒカリにメールを打った。

《元気ですか? 今日、街で偶然サイに会ったよ。プリプロダクション、忙しいみたいだけど、頑張ってね。いいアルバムができるように祈ってます》

 送信してしばらく待ってみたけど、メールの着信はなかった。


 ヒカリから返信があったのは、その日の夜遅く、あたしがベッドの中でうとうとし始めたときだった。着信音で目が覚め、寝ぼけ眼で携帯のディスプレイを見る。

「ヒカリ」

 名前を確認すると、急いで本文を読んだ。

《メールありがとう。打合わせ中は携帯構わないんで、返信遅くなってごめん。今から夕食に出るとこ。アルバムの方向性がだいたい見えてきたよ。週末には時間が取れそう。遊びに行こうね》

 もう十二時を過ぎてる。こんな時間に夕食だなんて……。あたしはちょっと驚いた。

 でも言葉のひとつひとつからヒカリの温かさが伝わってきて、あたしは一気にヒカリの隣にいるような気持ちになった。嬉しい。一通のメールがこんなに嬉しいなんて……。思わず携帯を抱きしめた。この携帯の向こうにヒカリの携帯があって、その向こうにヒカリがいる……。そのとき、あたしは確かにそれを感じていた。


 * * *


 週末、ヒカリは約束どおりディズニーランドに連れていってくれた。

 智ちゃんの言葉を考えると、不用意にヒカリと出掛けないほうがいいのかもしれない。だけど自分の気持ちに正直になると彼に会わずにいられなかった。彼が誘ってくれたこの機会を断ったら、あたしは一生後悔しそうな気がした。

 ヒカリは、待ち合わせの公園まで迎えに来てくれた。いつもはカジュアルっぽいスーツを着ているヒカリだったけど、この日はサックスのTシャツにジーンズといったラフな格好で、あたしはまた彼を近くに感じたような気がした。


 ディズニーランドに着くと、シンデレラ城にミッキーやミニーの家、プーさんのハニーハントなどを回り、ビッグサンダーマウンテンやスプラッシュマウンテンに乗り、食事をして、アイスを食べて、あたしは子供に戻った気分ではしゃいだ。

 夏休みだから、人がとても多い。待ち時間も三十分とか普通にかかる。

「ヒカリ、あれに乗ろ!」

「ユウナちゃんは元気だね。俺、もう待ってるだけでヘトヘト……」

「運動不足なんじゃないの?」

「そうかぁ。じゃ、今度キャッチボールでも付き合ってよ」

「いいよ! なら今度バッティングセンター行こ! あたし、あれ一度行ってみたかったんだ」

「任せて! 俺、上手いよ!」

「ホント?」

「うん。高校んとき野球部だったし」

「えーっ、マジ? ウソっ!」

「アハハ。わかった?」

「ヒカリ、ウソつくの下手。全然野球部っぽくないし」

 彼はそんな下らない話をしながらあたしに付き合ってくれた。

 ハニーポップコーンを食べ、ショップを見て回り、あっと言う間に薄暗くなってきた。またヒカリとの別れの時間が近付く。切ない……。


 車に乗っていると、車や街灯、お店やビルなどあちこちでライトやネオンが灯り始めるのに気づく。こうして夜になっていくんだ……。

「さすがに夏休みだからか、進まないね」

 少し進んでは止まる車を運転しながら、ヒカリが言った。

「そうだね。でも、そのほうがヒカリと長くいられるから、嬉しい」

 あたしが言うと、彼はふっとこっちを向いて、少し恥ずかしそうに笑った。

「嬉しいこと言ってくれるね」

 それからあたしたちの間には長い沈黙があった。あたしの言葉をヒカリはどう捉えてるだろう。好きって気持ちをわかってくれただろうか。でも重く受け止められたらちょっと困っちゃう。嬉しいって言ってくれたってことは、ヒカリもあたしのこと少しは好きでいてくれるのかな……。カーステレオからクラプトンの「愛しのレイラ」が流れる中、あたしはドキドキが止まらなかった。

 やがて彼が言った。

「車進まないから、回り道するね。多分そのほうが早いと思うから」

「うん」

 カーブを曲がり、少し進むと、やがて車は順調に走り出した。どの道を進んでるんだか、あたしにはよくわからないけど。

 しばらくして唐突にヒカリが訊いた。

「ユウナちゃん、時間ある?」

「うん、まだ大丈夫だけど」

「ちょっと海寄ってかない?」

 彼がそう言うので、あたしたちは海岸で車を停めた。日も暮れてるし、海水浴スポットじゃないらしく、あたりにそれほど人はいない。波の音が静かに聞こえる。

 ヒカリは外に出るなり、ウーンと伸びをした。

「俺、ああいう渋滞ダメなんだよ。なんか息が詰まっちゃってさ」

 言って車のドアポケットから煙草を出し、火をつける。

「アハハ。じゃあ、遠出はできないね」

「そうだね。遠出するときは電車使うよ」

「そっか」

 言って笑い、あたしたちは並んで砂浜を歩き出した。

「アルバムの制作はいつ頃まで続くの?」

「予定ではスタジオを一か月借りてるから、三週間くらいでレコーディングして、残りの一週間でミキシングしたり、音を詰めたりってとこかな。九月の後半に発売を予定してるから、それまでには仕上げないとね」

「そっか。発売したら、あたし、一番に買うね!」

「わざわざ買わなくても、あげるよ。サイン付けてさ」

「ホント!?」

 ヒカリを見上げると、彼はにっこりと笑って頷いた。

「うん」

「嬉しいな!」

 そう言うと、ヒカリは煙草の煙を吐き、独り言のように言った。

「ユウナちゃんは素直だね」

 えっ。そ、それって、喜んでいいのかな? 単にアホだと言われてるのかな。あたしはちょっと悩んだ。

「そっかな……。普通だと思うけど」

 ヒカリは一息おいて、ポツンと言った。

「普通が、一番いいのかもしれないな……」

 下を向いて一点を見つめるヒカリは、なにかを考えているみたいだった。海風が肩まで伸びた彼の髪をさらさらと揺らす。長い睫の下の黒い瞳に、寂しそうな、切なそうな影が浮かぶ。それは、あたしの知らないヒカリだった。あたしは、彼のすぐ隣にいるっていうのに彼との僅かな距離を感じ、そして寂しさを感じた。

 あたしが知ってるヒカリなんて、ほんの一部に違いない。ヒカリにはあたしの知らない二十三年間があって、今だってあたしの知らない音楽の世界があって、芸能界の世界がある。もう少し、ほんの少しでいい、ヒカリのことを知りたい。あたしは強くそう思った。

 そのとき、小さく鳴く動物の声が聞こえた。

「ニャー、ニャー」

 あたしたちは顔を見合わせた。

「聞こえた?」

「うん、聞こえた」

「どこだろ」

 暗くなった辺りを目を凝らして見ると、小さなボートがひっくり返っていて、その片隅で子猫がこっちを見ていた。

「あそこ」

 あたしたちはゆっくり近付いた。

「ニャー、ニャー」

 子猫はなにかを訴えるように、か細い声で鳴く。

 一メートルくらい離れたところでしゃがみ込み、あたしは子猫に話し掛けた。

「どうしたの、こんなところで? お腹空いたの?」

 よく見ると、その猫はガリガリだった。キジトラの毛も汚れてボサボサだ。

「捨て猫みたい」

 あたしはそう言ってヒカリを見上げた。

「そうみたいだな」

「なにか食べるものないかな」

 あたしは車に置いてきたバッグの中身を思い出してみたけど、食べ物はなにもなかった。

「痩せてて可愛そう」

 子猫に近付いてみたけど、猫は逃げなかった。むしろ、助けてと訴えているように見える。あたしは猫を抱きかかえた。猫はゴロゴロ言ってあたしの腕の中に納まった。

「飼い猫だったのかな。逃げないね」

「そうだね」

 言ってヒカリも手を伸ばし、猫の頭を撫でた。

「飼ってあげたいけど、うち、お母さんが許してくれないんだ。ごめんね」

 可哀想だな。このまま置いていくと、飢え死にしちゃうか、犬かなにかに殺されちゃいそう。なんとかしてあげられないかな。あたしは智ちゃんに電話して、猫を飼えないか聞いてみようかと思った。

 そのとき、ヒカリが言った。

「おまえ、俺ん来る?」

「え?」

 あたしはヒカリを見上げた。彼はまっすぐに猫を見つめ、頭を撫でている。猫はヒカリを見て「ニャア」と鳴いた。

「行くって」

 あたしが言うと、ヒカリは悪戯っぽく笑った。

「ヤダって言ったかもしんないぜ。どれ、確かめてみよう」

 彼は手を伸ばし、あたしの腕から猫を抱き上げた。猫はヒカリの腕の中でも気持ち良さそうにゴロゴロ言った。自分の顔を一生懸命ヒカリの手にすりつけて甘えている。

「やっぱ『行く』って言ったのかな?」

「きっとそうだよ」

 ヒカリはふっと大きな息をつき、言った。

「仕方ないな。連れてってやるか」

 言葉の割に、その声は嬉しそうだった。


 あたしたちはペットショップに寄った。キャリーやキャットフード、フードボウルや猫用のトイレなどを買ったり、首輪を選んだりした。

「この色似合いそう」

「こいつ、男の子だぜ。赤じゃ女の子みたいだよ」

「え? そうなの? じゃ、これどう?」

 二人で、あれがいい、これにしようと品定めして買物するのは楽しかった。


 ヒカリのマンションは、あたしの家から電車で二十分くらい離れたところにあった。駅から歩いて五分ほどのところにあるそこは、学生や独身のサラリーマンが住むようなワンルームの部屋が並んでいる二階だった。彼はセキュリティのしっかりした大きなマンションに住んでいるものと想像していたので、ちょっと驚いた。

「学生のときからずっとここなんだ。サイなんかは引っ越せって言うんだけど、面倒でね」

 鍵を開けながら、ヒカリはそう言って笑った。

「どうぞ。なにもない部屋だから驚くと思うけど」

 初めて男の人の部屋に入る。あたしはものすごい緊張で壊れそうになりながら、ヒカリの後に付いてドアの中に入った。

 玄関には小さなシューズボックス、ホールのドアを開けると、キッチン、作り付けのクローゼット、ベッド、CDのコンポ、それに小さなテーブルと椅子が一脚があるくらい。ベッドの脇にはロフトがあって、箱やギターがいくつか置いてある。きちんと片付いていて、無駄な物がなにもない。ヒカリがこんなシンプルな部屋に住んでいるとは意外だった。

「どうぞ、座って」

 ヒカリはエアコンをつけながら、目でテーブル脇の椅子に座るように促す。あたしは言われるままにそこに座った。

 買って来た大きな荷物をガサガサ言わせながら、彼は手際よく猫の食事とトイレを用意した。キャットフードを差し出された猫はちらっとヒカリのほうを見てから、ガツガツと食べ出した。

「やっぱお腹空いてたみたいだね。美味しそうに食べてる」

「そうだね」

 言ってヒカリはベッドに腰掛けた。あたしたちは黙って猫がご飯を食べるのを見ていた。

 しばらくしてあたしは言った。

「名前を付けてあげなきゃね。なにがいいかな」

 するとヒカリは笑って応えた。

「男の子の名前は決まってる。太郎たろうだよ」

「えっ、この子にそんな日本的な名前? もうちょっとオシャレな名前にしようよ」

「太郎、いいじゃん。シブくてカッコイイぜ」

「えーっ、マジでー?」

「ダメ?」

「ダメ」

 ヒカリは小さくチェッと呟くと、ちょっとフテクサレた顔をして膝を抱えた。

「仕方ない。ユウナちゃんに命名権をあげよう」

「やった!」

 あたしは得意になって猫の名前を考えようとした。ところが、お母さんが動物嫌いで猫を飼うなんて考えたこともなかったので、名前がさっぱり浮かばなかった。

「えーっと、……ジョンとかぁ」

「ジョンは犬の名前だろ、普通」

「マイケルとか」

「ホワッツ・マイケル? あれは茶トラだな。こいつはキジトラ」

「うーん……」

 漫画の主人公とかドラマの登場人物とか思い浮かべてみたけど、適当な名前が出て来なかった。猫を見てみると、ホントに太郎って名前が合ってるような気もしてきて、挙げ句、あたしはぼそっと言った。

「……太郎でいいです」

 ヒカリはそれを聞いてプッと吹き出した。

「ユウナちゃんて、ホント素直だね」

 さっき、海でもヒカリはそう言った。特別素直ってわけじゃないのに、あたしのこと、そんな風に思ってるのかな。子供に思われてるのかな……。あたしはちょっと悲しくなって、反抗したくなった。

「そんなことないよ……」 

 ヒカリは「おやっ?」っていうような顔であたしを見て、ゆっくりと立ち上がった。

「どうしたの? 素直だって言ったのが気に障った? いい意味で言ったつもりなんだけど」

 ヒカリの言葉は優しく、彼に悪気はないことは十分わかってた。でもあたしはなんとなく心がモヤモヤしてしまってどうしていいかわからず、彼から目を逸らした。

「なんでもない」

 彼はあたしの隣に立ち、リモコンでエアコンを切った。

「いろいろ連れ回したから疲れたかな。送ってくよ」

 太郎はご飯を食べて満足したのか、器用に前足を動かして顔を洗っている。バスタオルを敷いたキャリーに入れられると、ニャーと鳴いた。

 ヒカリの車に乗り込む。このまま家に着くと、またヒカリとの別れのときが来ることになる。レコーディングで忙しくなる彼とは、しばらく会えなくなるだろう。そう思うと寂しくて心が張り裂けそうだった。


 帰りの車の中で、ヒカリは喋らなかった。あたしが機嫌悪いのを察してだろうなと思った。あたしの膝に乗せたキャリーの中で太郎が不安そうにニャー、ニャーと鳴いていたけど、やがて慣れたのか、静かになった。

 家が近付いた頃、ヒカリが遠慮がちに口を開いた。

「ユウナちゃん、お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」

「なに?」

 ヒカリのほうを見る。ハンドルを握る横顔は、いつもの彼だった。

「俺、これからレコーディングであまりうちに帰れないと思うから、太郎のことが心配でさ」

 そうだろうな。あたしは頷いた。

「うん」

「できる限り帰って世話はするよ。でも、どうしてもスタジオに泊まり込まなきゃいけない日が出てくると思う。それで、もしユウナちゃんが構わなければ、の話だけど……、時々うちに来て、太郎の世話をしてやってくれないかな。ご飯やったり、水を換えてやったり、遊んでやって欲しいんだ」

 それって、ヒカリの部屋に自由に行ってもいいってこと?

「もちろん、時間のあるときだけで構わない。こんなこと、他に頼めるヤツいなくて……。できるだけ早くスペアキー作って渡すよ」

 思いもかけない提案で、あたしは驚いた。

「あたしに、スペアキーくれるの?」

「うん」

 ヒカリは大きく頷いた。

「いいの?」

「これは俺にとって賭だけど、ユウナちゃんなら大丈夫だと思うから」

 彼の言葉は力強かった。鍵を預けてもらえるなんて、ただの知り合いとかそんな関係じゃないよね。あたしを信頼してくれてる、それが嬉しかった。

「うん、わかった。太郎のことはあたしが面倒見るから心配しないで」

 ヒカリはホッと息を吐き、全身で安堵を表わした。

「ありがと。よかった」

 車はあたしの家の前で停まった。

「スペアできたら連絡する。頼むね」

「うん、任せて。太郎、今度ゆっくり遊ぼうね」

 キャリーを助手席に置いて、ヒカリのほうを見た。彼はまっすぐにあたしを見ている。あたしを信頼してくれているのが痛いほど伝わってくる。

「じゃ……」

 あたしが言うと、ヒカリはいつものように微笑んで言った。

「じゃ、またね」

「うん、またね」

 お互いに、短い言葉の後になにかを引きずっているのを感じた。ヒカリとあたしとの間に、新しい絆が生まれたような気がした。またヒカリと会える。これからも会える。それだけであたしは嬉しかった。

 走っていくヒカリの車に、あたしはいつまでも手を振っていた。


 * * *


 翌日から、後期補習が始まった。同時に学園祭の準備も本格化する。

 補習を終え、クラス出し物の効果音担当者のグループで簡単な予定を確認した。予定の話し合いを始めて間もなく、あたしの携帯が鳴った。ヒカリからのメールだった。

《スペアできた。いつどこで渡せばいいかな?》

 ホントに作ってくれたんだ。あたしは胸がいっぱいになった。急いで返事を打つ。

《今学校なの。もうすぐ帰れるから、そっちの駅に行く。駅まで出れる?》

 すぐに返事が来た。

《OK。駅で待ってる。電車に乗ったらメール入れて》

 学校が終わればヒカリに会える。あたしはワクワクした。

 学園祭準備の予定はすぐに決まり、みんな昇降口に向かう。

「森下、一緒に帰んね?」

 竜樹から声をかけられた。二週間前、竜樹と帰りにアイスを食べて楽しかったことを思い出した。随分前のことのような気がする。普段なら一緒に帰っても全然構わないけど、今日は寄り道するのよね。

「ごめん、今日は行くとこあるから」

「あ、そうなんだ。じゃ、また明日な」

 竜樹は片手を上げて走って行った。うーん、彼は走る姿も絵になるな。

 あたしも早く駅に行かなきゃ。ヒカリを待たせちゃ悪いもんね。あたしは急いで駅に向かい、三十分ほどでヒカリのマンションのある駅についた。


 改札を出ると、ヒカリは壁にすがって煙草を吸っていた。

「ヒカリ!」

 あたしが呼び掛けると、ヒカリは驚いたようにあたしを見つめた。知らない物を見るような、なにかを確認するような目。

「どうしたの?」

「ん……ううん。制服着てるとこ初めて見たから、ホントに高校生なんだなって思って」

 そっか。制服で会うの初めてだもんね。あたしは少し恥ずかしくなって言った。

「へん?」

 ヒカリは僅かに目を細めて応えた。

「いや、可愛いよ」

 それから彼は、思い出したように言った。

「そうだ、これ」

 差し出された手には白い封筒があった。受け取って中を確認すると、鍵とレポート用紙が入っていた。

「駅からウチまでの地図描いといた。ユウナちゃんが迷子になるといけないと思って」

 彼は悪戯っぽく笑った。レポート用紙を開くと、そこにはペンで丁寧な地図が描かれていた。初めて見るヒカリの文字。思ったより綺麗。丁寧で、字の大きさも揃ってる。意外だった。

「これ見ながら、今、太郎に会いに行ってもいい?」

 あたしが訊くと、ヒカリは頷いた。

「もちろん」

 マンションへの道すがら、ヒカリはいろいろ教えてくれた。

「この道をまっすぐ行くと公園があるんだ。俺はよく人間ウォッチングに行くんだけど、天気がよくて時間のある日は、太郎と散歩に行くといいかもね」

とか、

「コンビニならここのセブンイレブンが品揃えがいいよ」

とか。あたしの知らなかったヒカリをたくさん知って、なんだかこれからヒカリと半同棲するみたいな気持ちになってワクワクした。


 ヒカリの部屋のドアに鍵を挿し、回してみる。カチャンと小さな音がした。ノブを回すと、ドアが開いた。

「わっ、ホントに開いた」

 あたしが言うと、ヒカリがヤレヤレというように笑った。

「スペアキーなんだから、開かないと困るだろ」

 中に入ると、昨日と全く変わらなかった。ヒカリは毎日ここで生活してるんだ。ここでご飯を食べて、ここで眠って、ここでギターを弾いて、詩を考えて……。雑誌やテレビで知ってる彼がこんな風に生活してることを知るのは、とても不思議だった。

「ニャー」

 太郎があたしの足元にやってきた。

「太郎! 昨日のこと覚えててくれてるの?」

 あたしは太郎を抱き上げた。太郎はゴロゴロ言って顔をすり寄せる。昨日とは違って毛がきれいになってる。かすかにシャンプーの匂いがした。

「いい匂い。お風呂に入れてもらったの?」

「お陰で傷だらけ」

 言ってヒカリは手を広げた。ホントに引っかき傷がたくさんあった。

「うわ、痛そ。ギター弾けるの?」

「このくらい大丈夫。ユウナちゃんも、風呂とか自由に使って構わないからね。ドライヤーは洗面の壁に掛けてあるし、タオルはクローゼット開けると入ってるから、適当に使っていいよ。ただし、俺がいつ帰ってくるかわかんないから、下着をそこらへんに脱ぎっぱにしないようにね」

「もう、ヒカリのエッチ!」

 思わずヒカリの背中をバシッと叩いた。ヒカリはアハハと笑いながらクローゼットを開けてねこじゃらしのオモチャを出し、渡してくれた。太郎はねこじゃらしにすぐ反応し、飛びつく。あたしは太郎と遊び始めた。

 やがてヒカリがロフトに上っていった。箱を開けてなにかを取り出し、ギターを抱えて降りてくる。

「仕事? 出掛けるの?」

「うん、もう一時間くらいしたらサイが迎えに来るから、そしたらスタジオに行く」

「そうなんだ。これから忙しくなるんだもんね……」

 ヒカリはベッドに腰掛けると、ギターの弦を外し、袋から新しい弦を取り出して張り替え始めた。その手際のいい作業を見ながら、あたしはレコーディング風景を想像し、サイとスタジオに行くって言った今の言葉を思い返した。この間サイと会ったときの記憶が甦る。

「サイと街で会ったとき、ダルいからサボって出て来たって言ってた。でもレコーディングになったらちゃんと仕事するんだね」

 ヒカリは自分のことを言われたみたいに苦笑いしながら、器用に弦を張り巻いていく。

「サイは机の前に座って話し合いっての苦手なんだよ。だから、ある程度の方向性が出たら、遊びに行っちゃう。サイにとってはそのほうがいいんだ。話し合いを繰り返してるより、街に出ていろんなものを見たほうが想像力が湧くし、刺激を受けて表現力に磨きがかかる。ちゃんと結果を出してるから、俺はサイの行動を止めない」

「へぇ……そんなもんなの」

 ヒカリは弦を巻く手を止めてあたしを見下ろした。

「サイは、すごいよ。あいつは、スコアを見たり俺がちょっと歌ってみせるだけで、すぐに曲を理解できる。俺がどんな曲を書いても歌いこなしてくれる。アップテンポのエイトビートも、ファンキーな曲も、バラードでも、感情たっぷりに歌うんだよ。情感が豊かで、繊細で、頭のいいやつなんだ。いろんな声と表現のテクニックを持ってて、音域も広い。あんなスゲェやつとバンド組めて、俺はラッキーだったよ」

 まっすぐにあたしを見つめ、目をキラキラさせながら話す。音楽は彼にとって特別なんだっていうのがよくわかる。高校のときからバンドを組んでいたというヒカリとサイ。ヒカリの表情は長年培った信頼と友情が滲み出るようで、素敵だなと思った。あたしもそんな風にヒカリの信頼を得たい。ヒカリとの確かな繋がりを持ちたい。

「ねぇ、ヒカリ」

「ん?」

「あたしにも、ギター教えてくれないかな」

 ヒカリは驚いたようにあたしを見た。

「ユウナちゃんは、なにか楽器弾けるの?」

 プロから「楽器弾けるの?」って訊かれて「はい」って答えられるほど上手じゃないけど……。

「一応、ピアノは習ってる」

「そうなんだ。じゃ、すぐに上手くなるかな。こっちおいでよ」

 彼は身体を少しずらして、ベッドをあたしが座るぶんだけ空けてくれた。手早くチューニングして、ギターをあたしに渡す。

「はい」

 太郎のねこじゃらしと交換で受け取ったギターは、思ったより重くて驚いた。

「うわ、重たい」

「そうだね。コンサートやるとずっとぶら下げてるから、けっこう肩凝るよ」

 あたしはギターを膝の上に乗せると、弦を指で弾いてみた。ボロンと力のない音が出た。

「弦は上からE、A、D、G……」

「ちょっと待って。ドレミで言ってよ」

「あぁ、ごめん。ミ、ラ、レ、ソ、シ、ミ。これがフレット。左手でここを押さえてひとつずれるごとに半音ずつ上がって行く」

 説明して、ヒカリは別のギターを手に取り、音階を滑らかに弾いてくれた。わっ、やっぱり上手。

「最初はこれからだね。ドレミが上手く弾けるように練習してごらん」

「えっと、ミ、ラ、レ……次、なんだっけ?」

「ソ、シ、ミ」

「ん」

 あたしは言われるままに音階の練習を始めた。少しいじると、徐々にギターに慣れてきた。知っている簡単なメロディを奏でてみる。ヒカリが手を止めてあたしのほうを見た。

「筋がいいね、ユウナちゃん」

 あたしはギターをベッドの端に置き、ちょっと得意になって笑った。

「ねぇ、ヒカリ、あれ弾いてみて。ほら、『Snow Flake』のサビのギター」

 するとヒカリはあぁと頷いて、いとも簡単に早弾きのメロディを綺麗に弾いてみせてくれた。

「うわー、カッコイイ!!」

 いつもテレビやCDで聴いているのと同じメロディを目の前で聴いて、それは感激だった。

「じゃあ、あれは? 『銀色の月』のイントロ」

「チョロイ、チョロイ」

 ヒカリは弦に目を落とし、なんでもないみたいに軽くつま弾いた。細く器用そうな左手の指がせわしなさそうに動き、右手は愛しげに弦をはじく。その指から紡がれる流れるようなメロディは、甘く、優しくて、アンプを通した音ではなかったけどCDと変わらない。同じ音が同じリズムで、同じ強弱で、同じ表情であたしの心に語りかける。

「すごーい!!」

 それは目が覚める思いだった。目の前にいるヒカリはホントにあのクレセント・ムーンのギタリストなんだ。わかっていたけど、今までその二つのことがこれほどはっきり結びついたことはなかった。このとき初めて、目の前にいるヒカリは本当に人気バンド、クレセント・ムーンのギタリスト、ヒカリなんだということを理解できた。

「あたし、この曲すごく好きなんだ」

 ヒカリはギターを弾き続けながら優しい目であたしを見て、瞳を閉じ歌い始めた。


  遠回りしたね

  やっとここに辿り着いた

  泣いて 怒って 笑って

  二人でいくつもの時間を重ねた

  今は 穏やかな心で 君と手を取り合うことができる


  夜空には 輝く銀色の月

  澄んだ光が 長い影を作る

  銀色の月の光に包まれた二人は永遠に結ばれるって

  そんなお伽話も 今は信じられる気がするよ


 華やかな魅力のサイの声とは違って、穏やかな歌声。それは優しくあたしの心に沁みてゆき、あたしはうっとりと聴き惚れていた。

 ふと目を上げると、一瞬ヒカリと視線が絡まった。ヒカリの顔がゆっくりとあたしに近付き、彼の唇があたしの唇に触れた。

 えっ!? これって……キ、キス……?

 初めてのキス。今、ヒカリに奪われている……! 確かにヒカリの唇の感触を感じる。あたしはパニックになったけど、どうすることもできずに、そのまま固まっていた。

 次の瞬間、ヒカリが唇を離して恥ずかしそうに横を向いた。

「ごめん……。もう、しないから」

 肩まで掛かる髪に隠されて表情はわからなかったけど、ヒカリ自身、自分のしたことに驚いていたみたいだった。そんなヒカリを見るのは初めてで、あたしもどう応えていいかわからなかった。

 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。ヒカリがギターをベッドの脇に立て掛けて立ち上がった。

「サイだ」

 彼は玄関に向かった。

「おう」

「早かった?」

「いや、大丈夫」

 部屋に現われたのはやはりサイだった。

「あ、ユウナちゃん。来てたんだ。久しぶりだね」

「うん」

「お邪魔だったかな」

「いや、お前が来ることは言ってあったから」

 ヒカリはギターをケースにしまいながらそう言い、どこか遠慮がちにあたしを振り返った。

「俺たちそろそろ出るけど、ユウナちゃんはどうする?」

「あたしも帰る」

「そっか。じゃ、駅まで送るよ」

「ありがと」

 あたしは太郎を抱き上げ、頭を撫でた。

「じゃあね、太郎。また来るから、元気でお利口してるのよ」

 太郎はあたしをじっと見ていた。名残惜しかったけど、彼を床に下ろし、鞄を肩に掛けた。

 サイとヒカリがギターを車に運び込み、あたしたちは一緒にマンションを出た。駅まで送ってもらって、そこで別れた。

「じゃね、ユウナちゃん。今度レコーディングにも遊びにおいでよ」

 サイが人懐っこそうに言う。

「ありがと。じゃ、またね」

 あたしはそのまま電車に乗って家に帰った。


 真夏の夜は遅い。

 窓から見える月は、黄色い半月だった。ヒカリが歌ってくれた「銀色の月」が耳から離れない。彼の唇の感触が甦り、思わず自分の唇を触ってみる。なぜ彼は突然あたしにキスしたんだろう。嫌われてるってことないよね。じゃあ、ヒカリはあたしのこと、好きなのかな? でも、そんなことひと言も言われたことない。からかわれてるのかな。

 彼の気持ちを確かめるのは怖い。智ちゃんの言うように、彼との関係は深入りしないほうがいいんだろうか。そう思っても、そのとき既に、関係を断ち切ることができないほど、あたしの心はヒカリに傾いていた。


  銀色の月の光に包まれた二人は永遠に結ばれるって

  そんなお伽話も 今は信じられる気がするよ


 今夜の月が、銀色の月ならいいのに。そして、ヒカリと二人でその月を眺めていられたらいいのに。あたしは彼からもらったスペアキーに赤いリボンを結ぶと、複雑な思いで窓の外を眺めた。

週末の夜に続きを投稿のつもりでしたが、諸事情により不定期になりそうです。

今後も読んでやって下さい。

よろしくお願いします♪

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] ミュージジャンを相手に、ふたりっきりになれば、ファンならやっぱり落ちちゃいますよね。自然な流れからの二人の関係は、この先、どのようになっていくのか、楽しみです。 [一言] E・A・Gとギタ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ