第三章 告白は三日月の夜に
それから何日か、あたしは補習の帰りにヒカリのマンションに行き、太郎と遊んだり、餌の世話をした。一時間くらいマンションにいてもヒカリはいつも留守で、会うことはなかった。レコーディングが忙しいってことは聞いてるから、きっとそうなんだろうと思っていた。でも、心のどこかで、キスしちゃったことに後ろめたさを感じて避けられてるのかな、とも思った。だって、あの直後のヒカリは本当に恥ずかしそうで、申し訳なさそうだった。
——ごめん……。もう、しないから。
そんなこと言わなくていいのに。謝らなくていいのに。あたしはヒカリのことが大好きなんだから。そして、あたしの気持ちに気づいて欲しい……。
土曜日のお昼頃、彩姉からあたしの携帯に電話があった。
「祐奈、今家にいる?」
「うん、いるけど」
「行ってもいい?」
「いいよ」
「じゃ、すぐ行くから待っててね」
要件はそれだけで、電話はすぐ切れた。彩姉は、ちょっと怒ってるみたいな、困ってるみたいな声だった。いつものようにあたしになにか愚痴を言いたいんだろう。仕事や友達との間でなにかあると、すぐあたしに愚痴こぼしてストレス解消してるみたい。ホントならそういう話はゴメンだけど、彩姉は来るときいつもとびっきり美味しいケーキなんか持って来てくれるもんだから、あたしはそれを食べながら頷いてるだけ。彩姉もそれで満足して帰るから、お互い様ってとこかな。
その日も、彩姉はシャンドンのケーキを持って来てくれた。
「叔父さんと叔母さんは?」
彩姉がケーキの箱を差し出しながら訊く。
「どっちも出掛けてる。夕方まで帰らないかも。わー、シャンドンだっ! これ、食べたかったのよねっ! 彩姉、ありがとう!」
あたしはフンパツしてフォーションの葉っぱを出し、お湯を沸かして紅茶をいれた。
「はぁぁ……」
紅茶とケーキを目の前にしても、彩姉は浮かない顔をしてる。ケーキを持ってここに来るってことはなにかあったに違いないけど、一応形だけ訊いてみた。
「どしたの?」
彩姉はため息まじりに言った。
「祐奈、恋って辛いわよねぇ……」
ブッ! 紅茶を吹き出しそうになった。
「彩姉、熱でもあるんじゃない?」
彼女の額に手を当ててみる。彩姉はうつろな顔をして、死んだような目をしている。よっぽどひどいことがあったのかな。
「なにがあったの?」
彼女は紅茶を一口飲むと、あたしに目をやった。
「祐奈、以前ロゼの楽屋で会ったよね。あのとき、ヒカリと一緒だったじゃない? もしかして、あんたたち付き合ってるの?」
ブッ!! またもや紅茶を吹き出しそうになった。あたしは慌てて否定した。
「ヒカリとは仲良くしてもらってるけど、付き合ってるとかそんなんじゃないよ」
それは事実。すごく好きなのに、合鍵を持ってるのに、キスもしたのに、付き合ってるって言えないのがすごく悲しかった。
「ふーん、そうなんだ。祐奈、仲良くしてるだけでも、芸能人と付き合うときは気を付けなよ。どこにマスコミの目が光ってるかわかんないからね」
「なんなのよ、彩姉? 彩姉は誰かと付き合ってるの?」
彼女は片肘を付いて頬を乗せ、ポツンと呟いた。
「あたしさ、ダイチと付き合ってるんだ」
「はっ!?」
ダイチって言えば、ロゼのヴォーカリストよっ。サイと並んで、今すごい人気なのよっ。うそっ、あのダイチと彩姉が付き合ってるっての!?
確かに彩姉は美人で可愛くてセンスもいい。頭もいいし、性格だっていい。才色兼備そのものよ。でも、ロゼのダイチと付き合ってるなんて、すぐには信じられない。
と思ってから、あたしはふと、この前ヒカリと一緒にロゼの楽屋に行ったときのことを思い出した。あのとき、彩姉が楽屋にいたのだ。それも、ダイチの隣に。
そっか、彩姉はダイチと付き合ってるから、それでロゼの楽屋にいたんだ。つまり、あの日、あの楽屋は二人のデートの場所だったってこと。それに気づくと、彩姉がダイチと付き合ってることをなんだか納得してしまった。
「このことは、彼のバンドのメンバーと付き人、マネージャー、事務所の社長しか知らない。だから祐奈も絶対に人に言っちゃダメよ」
彩姉はきつく念を押してあたしに話してくれた。
彼女によれば、ダイチと知り合ったのは一年くらい前。雑誌の取材でだった。その後意気投合して二人で食事に行き、それから付き合い始めた。ただ、当時はロゼも人気が出始めてそれほど時間がたっていなかったため社長がゴシップを警戒し、二人の交際が絶対に表に出ないように釘をさされたという。それが彩姉のストレスになってるらしい。
マスコミの目が光ってるからダイチのマンションに行くこともできないし、外で会うのもすごく気を使う。そもそも、デートの約束をすることが難しい。携帯電話なんて、簡単に盗聴されちゃうんだって。そんな生活を二年も続けていると、さすがに疲れちゃうって彩姉は大きな溜息をついた。
「結婚しちゃえばいいのに」
あたしが言うと、彩姉は怒ったように返した。
「ダメダメ。社長が許してくれないわよ、あのタヌキ親父!」
今をときめくロゼも、事務所には抵抗することできないのかなぁ。
「ダイチはなんて?」
彼女は、んー、と少し考えてから、言葉を選ぶように答えた。
「彩香とは真剣に付き合ってるから、もう少し我慢してくれって。もう少しって、一体いつまでなのよ、あいつったら!」
後半は吐き捨てるように言う。そこまで聞くと、さすがに彩姉を気の毒に感じた。ロゼのコンサートで会ったのも、数少ないデートのひとときだったんだ。マスコミの目に触れないように、客席からじゃなくて舞台裏からコンサートを観てたってのも理解できる。
「ダイチがそう言うんだったら、信じて待つしかないじゃん」
彩姉はシャンドンのケーキをフォークでつつき、一かけ口に入れた。
「ダイチのことは信じてるけど、あたしだって普通にデートしたいのよ。二人で手をつないで遊びに出掛けたり、ショッピングしたり、カフェでお茶したり、飲みに行ったり……。祐奈だってその気持ちわかるでしょ?」
う、うん。それは痛いほどわかる。あたしだって、そんな普通のデートは憧れだもん。あたしは相手がいないからだけど、相手がいるのにそれができない彩姉にはすごく同情する。と思ったそのとき、あたしはふとヒカリのことを考えた。
彼もダイチと立場は変わらない。目立つヴォーカリストでこそないけど、人気バンドのギタリストで、常にマスコミの目にさらされている一人。あたし、そんな人と一緒に食事に行ったり、ディズニーランドに連れて行ってもらった。しかも今は合鍵もらって毎日マンションに出入りしてる……。そう思うと、冷や汗が出そうになった。
ヒカリは、そしてあたしは大丈夫なんだろうか。少なくとも、ヒカリがマスコミにゴシップ抜かれるなんてことないように行動しないと……。
ヒカリの言葉が耳に戻ってきた。
——ディズニーランドかぁ、ヤバそうだなぁ……。
あの「ヤバそう」って言葉は、こういう意味だったんだ。ヒカリもそういうことにはきっと気をつけてるに違いない。ディズニーランドに行きたいなんて、彼にとっては迷惑なリクエストじゃなかっただろうか。なんだかヒカリに申し訳ない気がしてきた。
「あーあ、あたし、もうダメかも。祐奈、あんただったらどうする?」
力なくテーブルにうつ伏せる彩姉。あたしだったら……どうするだろう。
「彩姉がダイチのことを信じれるかどうかだよ。信じれるのなら今のまま待てばいいし、それができないなら別れるしかないでしょ」
あたしは当たり前のことを言ったつもりだったけど、彩姉は恨みがましそうな目であたしを見上げた。
「簡単に言ってくれるね。どっちもできないからこうして悩んでんじゃん……」
力なく言う。しばらく黙っていた彩姉は、ポツンと言った。
「あたし……、別れようかなぁ……」
結局、答えは出なかった。それだけ複雑な問題だってことはあたしにも想像がつく。彩姉が最後に言った「別れようかなぁ」って言葉が耳に残った。彩姉の気持ちはそっちのほうに傾いているんだろうか。人気ミュージシャンと付き合うってことは、そんなに大変なことなんだって知らされた気がする。
智ちゃんの「深追いするのやめて、フツーの彼氏見つけようよ」ってアドバイスは、実はとっても現実的なものなのかもしれない。その夜、あたしは泣きたい気持ちになった。
とは言っても、太郎の世話はまた別の問題。ヒカリはレコーディングであまりマンションに帰れないみたいだから、あたしがご飯やトイレの世話をしてやらないと太郎は困るだろうし、小さくて遊び盛りだから一緒に遊んであげないと可哀想だもんね。
ヒカリのマンションがある駅で降りるとき、駅から道路に出るとき、マンションへの道、そしてマンションに入るときはメ一杯注意した。怪しい人がいないか、そしてできるだけ敏速に、できるだけさりげなく。
ヒカリと会うことは、やはりなかった。深入りしないようにと思う一方で、ヒカリのいない部屋に一時間も二時間もいるのは寂しくてたまらなかった。あたしは帰る前に、ヒカリに短い手紙を残すことにした。
《お仕事お疲れさま。
レコーディング、毎日たいへんだと思うけど、
身体壊さないようにして、頑張ってね。
太郎は今日も元気でいい子でした。
祐奈》
持って来た便箋に、できるだけ丁寧な字でそう綴り、小さなテーブルの上に置いておいた。
マンションに帰ったヒカリは、この手紙に気づいてくれるだろうか。どんな気持ちで読むだろう。少しでも温かい気持ちになってくれるだろうか。そうだといいな。
翌日、ヒカリのマンションに行ったあたしは、すぐテーブルのところに行った。ヒカリが昨日の手紙を読んでくれたかを確かめたかったの。
テーブルには昨日の便箋がそのまま置いてあった。読んでくれてないのか、気づかなかったのか、読んだけどそのままにしてあるのか、それとも昨日からマンションに帰ってないのか……。近付くと、便箋の真ん中あたりにあたしが書いたのと別の文字が書かれていることに気づいた。
《祐奈ちゃん、いつもありがとう。
太郎のことは都合のつくときだけでいいから、
祐奈ちゃんこそ無理しないように。
レコーディングはいい雰囲気。
いいものができそうな気がするよ》
あたしの心がパッと明るくなった。ヒカリは元気で頑張ってるんだ。この椅子に座ってあたしの手紙を読み、ここで返事を書いてくれたに違いない。地図を書いてくれたときと同じ筆跡。きれいに並んだ文字からは、ヒカリの優しさが滲んでくるような気がした。ヒカリへの想いが一気に溢れ出す。
ヒカリが好き……。大好き……!
あたしははっきりとそれを自覚した。便箋を胸に抱き締める。今ここにヒカリがいてくれたらいいのに。そうしたら、「ヒカリ、大好き!」って抱きついちゃう。
あたしはその便箋を折って鞄に入れると、新しい便箋を広げてメッセージを書いた。
《無理してないから、私のことは心配しないで下さい。
ヒカリこそ、ちゃんとご飯食べてる?
ちゃんと寝てる?
なにか手伝えることがあったら
いつでも連絡してね。
祐奈》
こうして、あたしたちは短いメッセージのやり取りをするようになった。返事がないことも何度かあったけど、それはヒカリが帰っていないときのようだった。レコーディングスタジオで徹夜してるのか、あるいは事務所とか、サイや他のメンバー、スタッフの家にでも泊まり込んでいたのかもしれない。
* * *
学校では学園祭が近付き、準備も大詰めに入った。九月、新学期に入ったら、最初の金曜、土曜が文化祭、日曜が体育祭だ。その日を一週間後に控え、学校中が本格的に学園祭モードに入る。補習が終わってお弁当を食べたあと、ざわめく教室でみんなが忙しそうに準備を進めていく。
「デコの材料が足りないや。誰か買い出しに行ける人、いない?」
デコ班の班長がそう言ったので、あたしは手を挙げた。
「あたし、行こうか?」
「森下、助かる。お願い! でもけっこう重くなりそうだよ。大丈夫かな」
すると、後ろから竜樹の声がした。
「俺も一緒に行くよ」
「じゃ、二人で行って来て」
班長は急いで買物をリストアップしたメモ書き、それと一緒にお金をあたしに手渡した。あたしは竜樹と一緒に街に出掛けた。
買物は主に文房具屋さんで、絵の具とか画用紙、紙テープ、折り紙、色つきの荷造り紐などを揃えた。
「あとは、ティッシュとゴミ袋か。どこで買えばいいの?」
両手に荷物を抱えた竜樹が訊く。荷物の大きさを見て、付いて来てもらってよかったと思った。
「スーパーかなぁ。ここらへんで一番近いスーパーって、どこ?」
「大通りに面したとこだよね。三ブロックぐらい先だったような」
あたしたちがいる通りは店が連なってはいるけど、個人の特殊な店が多いところだったので、大通りのスーパーに向かって歩き出した。
そのとき、向こうから見覚えのある人が見えた。それは間違いなくヒカリだった。彼もあたしに気づいてるようで、こっちを見て立っていた。あたしは思わず声を掛けようとしたけど、止めた。彩姉のことを思い出したのだ。
——どこにマスコミの目が光ってるかわかんないからね。
十メートルほど向こうにいるヒカリは一瞬目を細め、冷たい表情を作って顔を背けたかと思うと、横の店の扉を開けて入って行った。
無視された……!
心に釘を打たれたような気持ちだった。会えばいつも「ユウナちゃん!」って優しく微笑みながら声を掛けてくれてたヒカリ。それが当たり前のように思っていた。いつか街で会ったサイのように、今日のヒカリも笑って声を掛けてくれるものだと思ってた。なのに、彼の反応はそれとは正反対の冷たいものだった。
なんで? 気づいてたでしょ。挨拶くらいしてくれたっていいじゃん。サイだってこの前声掛けてくれたのに……。
彼もマスコミを気にしてるのだということはわかってる。でも何日も会えなかった寂しさのほうが勝って、あたしはヒカリを恨めしく思った。
「どうした、森下?」
立ち止まるあたしに竜樹が不思議そうに声を掛けた。あたしは平静を装って答えた。
「なんでもない。行こ」
竜樹と歩きながら、通りすがりにヒカリが入った店を横目で見た。楽器店だった。この向こうにヒカリがいる。こんなに近くにいるのに、彼の傍に行くことができない。悲しく、苦しかった。
その日はヒカリのマンションには行かなかった。太郎のことは気になったけど、もしヒカリに会ったらと思うと複雑な気持ちになって、なんとなく足が遠のいてしまったのだ。次の日も行かなかった。
さすがに三日目になると太郎のことが心配だった。学校の帰りにマンションに寄った。
ドアを開けると、太郎がホールにちょこんと座っていた。
「ニャア」
二日見ないと、海で拾ったときよりちょっと大きくなったのがわかる。太郎を抱き上げて、頬を寄せた。
「久しぶりだったね、太郎。しばらく来なくてごめんね。元気だった?」
太郎もあたしに頬をすり寄せてくる。
ヒカリの部屋に入った。ヒカリはいなかった。部屋はいつものようにきちんとしていて、彼が帰っているのかどうかわからない。ただ太郎のフードボウルにはキャットフードが少し残っていて、水もきれいだったから、昨夜か今朝はここに居たんだろうっていう想像はついた。
クローゼットを開けてねこじゃらしのオモチャを出し、太郎と遊んだ。太郎は嬉しそうにねこじゃらしにじゃれつく。ここにヒカリが帰って来たらどうしよう。どんな顔をして会えばいいんだろう。一昨日街で会ったことは、話題にしないほうがいいんだろうか。そうした不安が常に頭にあって、太郎と遊んでいる間中、玄関を気にしていた。
結局、あたしがいた間にヒカリは帰って来なかった。
一時間ほどしてフードボウルにキャットフードを少し足し、水を換えた。
「じゃね、太郎。また来るから、元気にしてるのよ」
太郎の頭を撫でて、玄関を出た。その日はメッセージは残さなかった。
その後も、太郎の世話のためにマンションへは行ったけど、メッセージを書くことはなかった。ヒカリとも会わなかった。
* * *
学園祭の日が来た。初日は公演を聴いたり、文化部の発表会があったり、ちょっと退屈。
二日目は、あたしたちの苦労して作ったクラス出し物、すなわちお化け屋敷の解禁。けっこう好評で嬉しかった。バンドのコンサートがあったり、生徒会によるパネルディスカッションなどもあり、あたしは智ちゃんとあちこち見て回った。
三日目は体育祭。デコレーションを立て掛け、応援歌を歌ったり、声援を飛ばす。あたしは体育はそれほど得意じゃないから、出場種目はそんなにない。だから専ら応援係。でもデコレーションでは一位をとり、総合で三位だった。
その夜、クラスで学園祭の打ち上げがあった。ファミレスに集まり、ジュースやウーロン茶で乾杯する。
「準備は大変だったよねぇ」
「でも、総合三位だから、まあまあじゃない?」
「どうせなら、一位がよかったけどなぁ」
そんな会話から、話が発展していく。
「この学園祭の間に、鈴木くんとあっちゃんがくっついたんだって」
「えーっ、まじっ?」
「あの二人、仲がいいなぁとは思ってたんだよね。やっぱそうなるかー」
その後、みんなでカラオケに行った。最後には告白タイムなるものが設けられ、カラオケルームのひとつはこの上ないってくらい賑わった。この夜、あたしたちのクラスには三組のカップルが誕生した。
打ち上げは十時半頃お開きになった。
「男子は女子を送って帰れよ。女子は一人では帰らないこと。いいな」
委員長がそう言うので、みんなはいくつかの集団になり、帰り道に向かった。
「森下、送ってやるよ」
振り向くと、竜樹だった。
「ありがと」
竜樹とは家が同じ方向なので、あたしは素直に送ってもらうことにした。
「じゃね」
「おやすみー」
みんなと挨拶をして、あたしと竜樹は家に向かった。夜の闇の中、あちこちで店のネオンが賑やかに光っている。
「あー、終わった、終わった。来週からはまたテスト漬けの日々かぁ」
「そうだね。そろそろ志望校も考えてかなきゃいけないし」
あたしが言うと、竜樹はあたしを見下ろして訊いた。
「志望校って言えばさ、森下はどこか決めてる?」
「んー、まだはっきりとは……」
「そっか」
あたしは、竜樹を見上げ、逆に訊き返した。
「竜樹は? 行きたいとこあるの?」
彼はゆっくりと歩きながら長い腕を頭の後ろで組み、真っ暗な空を見上げた。
「んー、希望は横国なんだけどな」
竜樹はもう志望校を搾っていた。
「横浜? なんで?」
「小学校か中学校の先生になりたいんだ。学校の先生になってさ、部活で子供たちと一緒に、思う存分バスケしたいんだ」
竜樹はちょっと照れたようにそう言った。彼にそんな希望があるとは意外だった。
「へー、すごいな」
竜樹が先生……。高校に入ってから同じだけの月日を送っている竜樹。あたしはなんとなく毎日を送ってるのに、彼はもうちゃんと自分の未来を見つめてるんだ。彼を見直すと同時に、自分を反省した。もっとしっかり自分のことを考えて、未来に向かって歩いて行かなきゃ、って。
このときの竜樹は、今までにないくらいカッコよく見えた。あたしがじっと見てたから恥ずかしくなったのか、竜樹は目を逸らして、ちょっと反抗するように言った。
「別に、すごくないよ。三学期になったらすぐ志望校提出させられるし、そろそろ考えとかなきゃ」
そうだった。学園祭は終わったけど、二学期はロードレースだの音楽会だのって行事も多いし、あっと言う間に終わってしまうだろう。そうすれば、三年が目前になる三学期だ。竜樹の言うように、そろそろ志望校を絞っていかなきゃいけない時期になる。
「よかったら、進路とか相談にのるぜ。俺の叔父さん、星南高校で進路指導の教師やってるんだ。けっこう情報入ってくるし」
「ありがと。じゃ、困ったこととかあったら、相談させてもらうね」
あたしがそう言うと、竜樹はなにか思い詰めたような目であたしを見下ろした。
「困ったことなくても、相談したりしようよ。俺さ……」
口籠るように言って下を向き、ゆっくり歩いていた足を止めた。あたしも続いて足を止めた。
「森下……」
竜樹が顔を上げ、じっとあたしを見た。
「俺、森下のこと好きなんだけど、俺と……付き合ってくれない?」
「えっ……?」
真っ黒な空も、あちこちで輝く店のネオンも、道行く人波も、そのとき全く見えなくなった。あたしが見ていたのは、ただ目の前にある竜樹の真剣な眼だけだった。
竜樹と付き合う……。そんなこと考えたことなかった。
彼は同学年の女子の間でかなり人気がある。スポーツマンだし、勉強もできるほうだ。あたしも、いつも格好いいなとは思ってた。優しいし。竜樹と付き合ったら、きっと楽しくて有意義な高校生活が送れるだろう。
——フツーの彼氏見つけようよ。
智ちゃんの声が耳に甦った。竜樹のような彼氏と付き合って、普通の恋をして、楽しい高校生活を送る、それはとっても幸せなことなのかもしれない。
そう思いながら、心のもう半分はそれを納得できなかった。納得できない——その理由は、ヒカリの存在だ。
「あたし……」
俯いて返事ができないでいると、竜樹が口を開いた。
「彼氏がいるの?」
「……ううん」
首を振ると、竜樹が小さく安堵の息をついたのがわかった。
「森下、最近学校からすぐ帰っちゃうし、誘っても行くとこあるって言うから、彼氏と会ってるのかと思ってた」
「ううん、そんなんじゃないよ」
ヒカリは彼氏じゃない。会ってるわけでもない。あたしが会ってるのは、彼の猫だけだ。
頭の中をいろんなことがぐるぐるして、あたしはすぐに返事ができなかった。
「ごめん。少し考えさせてくれる?」
「いいよ」
竜樹はあっさりとそう言って、前を向いて歩き出した。
あたしたちはそれから、学園祭の思い出話とか、クラスメイトのうわさ話など当たり障りのない話をしながら歩き、竜樹に家の前まで送ってもらった。
「ありがと」
「じゃ、おやすみ」
竜樹は学校で会うのと変わらない笑顔でそう言って、自分の家のほうに向かった。
思いがけない夜だった。どうしよう……。竜樹にどう答えたらいいんだろう……。あたしはその夜、遅くまで眠れなかった。
翌日は、体育祭の振替休日だった。前日遅くまで眠れなかったので、その日はゆっくり寝てたけど、智ちゃんからの電話で眼が覚めた。
「おはよー、祐奈、起きてる?」
元気のいい智ちゃんの声。いいことあったのかな。
「起きてない。なに?」
「元気ない声だなー。遊びに行かない?」
気分が冴えないときは、ウインドウショッピングもいいかもしれない。そう思いながら少しカーテンをめくり、外を見てみる。雨がザーザー降っていた。
「雨降ってんじゃん。面倒臭いよー」
「もー、祐奈ったら。じゃ、祐奈ん家に遊びに行くよ。いい?」
結局、智ちゃんが遊びに来ることになった。もう少し眠っていたかったのに、仕方なく起き出して、顔を洗った。
しばらくして、智ちゃんが来た。
「元気ないね、祐奈。なにかあったの?」
そういう智ちゃんは、とても元気そうだった。鞄から持ってきたクッキーを出して袋を開け、テーブルに置いてくれた。
「元気そうだね、智ちゃん。なにかあったの?」
ふざけて訊くと、智ちゃんはニヤッと笑って答えた。
「聞いてよ、祐奈。あたしさ、昨日、由佳と美里とイチと哲とナカジーと一緒に帰ったのよ。そしたらさ、途中でナカジーと二人になって、話が盛り上がっちゃって、付き合おうかってことになったの。ゴメンね、祐奈」
ナカジーは、智ちゃんが好きだった男の子だ。
「やったじゃん、智ちゃん! すごいーっ! 羨ましいっ!」
「ありがと、祐奈。あたし、もっとナカジーと仲良くなれるように頑張る!」
智ちゃんは満面の笑みを浮かべ、すごく嬉しそうだった。テーブルのクッキーを食べながら、あたしたちはナカジーのことについていろいろ話した。彼はどんなタイプの女の子が好きだろう、とか、趣味はなんだろう、とか。智ちゃんは喋るだけ喋って、ふっとあたしのほうを見た。
「で、祐奈はどうだったの? 夕べ、竜樹と一緒だったんでしょ?」
う、あたしのことには触れないで欲しい。でも、智ちゃんにはちゃんと言っておかないとな……。
「うん……」
あたしはあまり喋る気になれなくて、どう話そうかと考えていると、智ちゃんが突っ込んできた。
「なにかあったんだね? なに? なにか言われた?」
「うん……。俺と付き合ってくれない、って……」
智ちゃんの顔がパッと明るくなった。
「やったじゃん、祐奈! もちろん、付き合うよね!? あんたたち、前から仲良かったもんね」
「うーん……」
智ちゃんは顔を曇らせて、あたしをじっと見た。
「どしたの? なんて返事したのよ?」
「考えさせて、って」
「はぁ!? なんで? 竜樹は人気だよ。狙ってる子も多いんだから。なんですぐ『うん』って返事しないのよ? まさか祐奈、ヒカリのほうが好きだから、とか言うんじゃないでしょうね?」
「……」
あたしは俯いたきり、返事ができなかった。
「最近、ヒカリに会ってるの?」
智ちゃんには、猫の世話をしてることや、合鍵を預ってることは話してある。でも、最近ヒカリには会ってないことや、この間竜樹と買い出しに出掛けたときに偶然ヒカリと出会ったことは話してなかったので、ポツリポツリとそうしたことを伝えた。
智ちゃんは、イライラしたようにあたしの優柔不断さをなじった。
「祐奈、ヒカリのことは忘れて、竜樹と付き合ったほうがいいよ。竜樹、いい男じゃん。羨ましいくらいだよ」
智ちゃんがそういうのはよーくわかるのよ。でも、あたしが好きなのはヒカリなの。
「それができないんだったら、ヒカリに祐奈の気持ちをきちんと伝えて、彼の気持ちを確かめることだね。いつまでも今のままでいても仕方ないでしょ」
「そっ、そんな勇気ないよ。だって、振られるの目に見えてるもん。ヒカリがあたしなんか本気で相手にしてくれるはずないよ」
「じゃあ、どうするつもりなの? 竜樹のこと振るつもり?」
「……。だから、ちょっと考えさせて、って言ったんじゃん」
智ちゃんは、はぁぁ……と大きな溜息をついた。
「あたしは、竜樹と付き合ったほうが絶対いいと思うけどなぁ。現実を見て、よーく考えなよ、祐奈」
その日、あたしはもういちど考えてみた。竜樹と付き合うんならともかく、断るなら早いほうがいい。
竜樹のことは嫌いじゃない。むしろ、なんとなく気も合うし、優しいし、カッコイイし、信頼できる人だと思う。竜樹みたいな彼氏は理想的だろう。
でも、どうしても彼との付き合いにブレーキをかける自分がいる。
智ちゃんが言うように、ヒカリに告ったほうがいいんだろうか。それで気持ちを吹っ切って竜樹と付き合うのがいいんだろうか。でもヒカリに振られたから竜樹と付き合うなんて、竜樹に失礼だ。
たくさん、たくさん考えて、あたしは竜樹の申し出を断ることにした。だって、あたしが好きなのはヒカリだから。
次の日の放課後、あたしは竜樹と一緒に帰った。竜樹が一生懸命いつも通りの元気よさを演じているのがわかった。それは彼の優しさなんだろうなと思って、これから断ることを申し訳なく思った。でも、自分の気持ちに嘘をついて彼と付き合うわけにはいかない。
学校から二十分くらい歩いたら、周りに同じ制服を着ている生徒はいなくなった。あたしは思い切って切り出した。
「竜樹……。あのね、一昨日のことだけど」
竜樹はちらっとあたしに目線を下ろして穏やかに言った。
「うん」
彼の返事で、あたしの答えがどうであれ、彼の中では覚悟ができていることがわかった。それならなおのこと、正直に返事しないといけない。
「ごめん。竜樹の気持ちはすごく嬉しい。でも、あたし、付き合えない」
竜樹はしばらくなにも言わなかった。あたしはもう一度謝った。
「ごめんね」
竜樹はあたしを見ず、前を向いたまま言った。
「わかった」
気まずい空気が流れ、あたしはその後、どう言っていいかわからなかった。竜樹があたしのほうを向いた。
「森下、誰か好きなやつがいるの?」
竜樹と目が合い、あたしはドキッとした。
「……うん」
「うちのクラスのやつ? それとも他のクラスのやつ?」
突っ込んで訊かれると困ったな。でも、竜樹に嘘はつけなかった。
「どっちでもない。ごめん、これ以上は言えない」
「そっか。そうだな、俺が訊くことじゃないよな。ごめん」
「ううん」
竜樹は再び歩き始める。
「彼氏と彼女の関係じゃなくてもさ、今まで通り仲良くやっていこうよ。構わない?」
竜樹がそう言ってくれたので、あたしはほっとした。
「もちろん!」
「よかった。じゃ、これからもよろしくな」
「うん」
あたしたちは目を見合わせて微笑んだ。竜樹はやっぱりカッコよかった。こんな素敵な人を振っちゃうなんて、なんだか罪な気がした。あたし、ヒカリに振られるかもしれない。でも、それならそれで仕方がない。
* * *
その週末、ヒカリからメールが来た。
《明日の夕方、時間が取れそうなんだけど、会えない? 話したいことがあるから》
ヒカリから話したいことがあるなんて、初めてだった。なにか大切な話だろうか。
《レコーディングは終わったの? 明日は特に予定ないから、大丈夫だよ》
そう返すと、ヒカリからはすぐに返事が来た。
《レコーディングは終わって、今はビデオクリップ作ってる。それとツアーのリハの詰め。六時に迎えに行くから、都合悪かったら知らせて》
考えてみれば、ヒカリとは一か月近く会っていなかった。最後に会ったのは、あの楽器店の前だ。言葉も交わさず、横を向いて無視された。あのときの彼の冷たい表情、あたしの心の辛さを覚えている。
話したいことってなんだろう。いいことなのか悪いことなのか、全く想像がつかないあたしは、あの日のヒカリの姿を思い出して不安が募っていった。
翌日、約束の時間にいつもの公園に行った。彼はもう来ていて、運転席のドアに身体を預けて煙草を吸っていた。
「久しぶりだね、ユウナちゃん」
いつものようににっこり笑ってそう言い、ぐるっと回って助手席のドアを開けてくれた。ヒカリ、髪伸びたな。それにちょっと痩せたみたい。仕事が忙しいんだろうな。
「ありがと」
あたしは助手席に乗り込んだ。ヒカリは運転席に回り、煙草を消すと、車のエンジンをかけた。
「さて、どこに行こうか」
「どこでもいいよ。ずっと缶詰めだったから外に出たいんじゃない?」
あたしが言うと、ヒカリは優しい目をあたしに向けて笑った。
「そうでもない。今はビデオクリップの撮影が続いてるから、屋外での作業も多いんだ。まだ暗いうちから集まって打ち合わせやリハしたり、たいへんだよ」
「そうなんだ」
本当に忙しいんだな。彼が家に帰れないわけがわかったような気がした。
「とりあえず、メシ食いたいな。いい?」
「うん」
彼はあたしを可愛いフレンチレストランに連れていってくれた。
「こういうとこ、よく来るの?」
「個人的に来ることはない。打合わせで来たり、仕事で——契約やインタビューとかさ、そういうときくらいだね。いつもは奢ってもらう立場だから気楽なんだけど、さすがに誘うほうになると、ちょっと緊張するな」
「えー、全然緊張してる風に見えないよ」
「そうかな。俺、今メ一杯緊張してんだけど」
あたしたちはいつものように一緒に笑った。ヒカリと一緒だと、すごく自然でいられる。波長が合う。あたしの言うことをちゃんと聞いてくれて、それに応えてくれるヒカリ。やっぱりヒカリがいい。いつも一緒にいたいと思った。
食事をした後、再び車に乗り込む。
「どこか行きたいとこある?」
彼が訊いてきたけど、あたしはなにも考えていなくて、彼と一緒にいられれば構わなかった。
「ううん」
彼は少し考えてから、言った。
「太郎を拾った海に行ってみようか」
「うん」
ディズニーランドの帰り、太郎と出会ったときのことを思い出した。長く続く砂浜。ひっくり返ったボートの片隅で、太郎は鳴いていた。小さくて、痩せて、毛も汚れて、でも一生懸命鳴いていた。あの頃と比べて、太郎は随分大きくなった。もうそれだけ月日が経ってるんだ。
ハンドルを握るヒカリは、あまり喋らなかった。彼は夕べ、話したいことがあるってメールしてきた。食事とか海を見に行くなんて、多分ついでのことでしかないだろう。彼が話したいことってなんだろう。あたしは心の片隅でそのことを気にしていた。
薄暗闇の中、目の前に海が開けてきた。黒い海面の波がところどころ街の灯りを反射して輝いている。
「太郎を拾ったとこ、ここ?」
「そうだよ」
やがて彼は車を停めた。ドアを開けて外に出るのかと思ったら、彼は運転席から動かなかった。しばらくして、彼が言った。
「煙草、吸ってもいい?」
「うん」
ヒカリはドアポケットから黒い煙草の箱を出し、しばらく手に持っていたけど、中身を引き抜かずにそれを戻した。
「やっぱ、やめた」
あたしは笑った。
「どうしたの? 遠慮しなくていいよ」
「うん」
彼の返事は力なかった。
一息置いて、彼はポツリと話し始めた。
「昨日さ、話があるってメールしたよね。覚えてる?」
「うん」
あたしは、いつもと少し違う彼をじっと見た。彼はあたしのほうに顔を向け、真剣な顔をして、ゆっくりと言葉を選ぶように言った。
「今から大事な話をするから、ちゃんと聞いてくれる?」
大事な話……。一瞬、胸がドキンとした。
「うん」
彼はわずかな間をおいて話し始めた。
「いつだったかな……、二週間くらい前かな。駅前の商店街で偶然俺と会ったの、覚えてる?」
あの、学園祭の買い出しに出たときだ。声をかけようとして止めた。そうしたら彼はあたしを無視して横を向いて、店に入っていった。もしかしたら私に気づかなかったのかもと思ってたけど、やっぱりわかってたんだ。
「うん、覚えてる」
「あのとき一緒にいたのは、同じクラスの子?」
「うん。あの日はもうすぐ学園祭ってときで、クラスでいろいろと必要な物があったから、買い出しに出たの」
「仲良さそうだったね」
「学園祭の担当で同じ音響の作業してたし、中学も一緒だったし、家も割と近いから」
「それだけ?」
「ん……と……」
学園祭の後、告られたのよね。そのことを話すべきか迷った。竜樹に正直に言ったように、ヒカリにも正直に話しておきたかった。
「学園祭が終わった打ち上げの後、付き合ってほしいって言われたけど、断った」
ヒカリは驚いたようだった。
「なんで断ったの?」
「彼はいい友だちだけど、付き合うとかそんな風に考えられなかったから……」
ホントは、ヒカリが好きだから……。でも、それを口にする勇気はなかった。
「そっか」
彼はフッと小さく息を吐き、シートに座り直してから言葉を続けた。
「俺、あのとき、ユウナちゃんと一緒にいた子にすごい嫉妬感じてさ……。自分でもびっくりしたよ」
嫉妬……? 彼がなにを言いたいのか、あたしは測りかねた。
「前に俺の部屋で、俺、ユウナちゃんにキスしただろ。あのときも後で、俺なんであんなことしちゃったんだろうってずっと思ってて……」
ヒカリはシートを後ろにずらし、両膝を立ててそこに腕を乗せた。
「で、この前街で偶然に会った後、その謎が解けたよ。俺、ユウナちゃんのことが好きなんだって」
その言葉を耳にしたとき、一瞬、息ができなかった。ずっとほしかった言葉……。嘘じゃないかって、あたしは夢を見てるんじゃないかって思った。あたしは彼の言葉を確かめるため、彼のほうを向いてその表情を伺った。彼はゆっくりとあたしのほうに向き直って、穏やかに続けた。
「ユウナちゃんと知り合ってから、どのくらい経つかな」
あたしの頭の中に、クレセント・ムーンの楽屋で初めてヒカリやバンドのメンバーと会った、あの夏休み前のことが思い浮かんだ。
「七月の中頃だったから、二か月くらい?」
彼は静かに頷いた。
「そうだね。それから数えるほどしか会ってないかもしれないけど、俺はその間、ユウナちゃんをたくさん見てきた。緊張した顔や、笑った顔や、困った顔、ふてくされた顔……。実際に会ってるときだけじゃなくて、電話やメールや手紙からもユウナちゃんを感じてきた。そんな中で、ユウナちゃんの存在にどれだけ元気づけられ、助けられたかわからない。俺なりにユウナちゃんがどんな子かわかったつもりだし、これからも付き合っていきたいと思ってる」
ヒカリは、あたしが思ってた以上にあたしのことを見ていて、あたしのことを考えてくれていたのかもしれない。
彼は一息ついて目を伏せたかと思うと、すぐに視線を上げてあたしを捉えた。
「で、今日話したいことはここからなんだけど……」
彼の言葉と心があたしに迫ってくる。あたしはドキドキして壊れそうな心臓を抱えて、彼の言葉を一生懸命受け止めようとしていた。
「ユウナちゃん、以前、彼氏はいないって言ってたよね。あれ、本当?」
「うん……」
「今でもいない?」
「うん」
「じゃあ……」
一瞬息を潜めて、彼は続けた。
「俺と、結婚を前提に付き合ってくれない?」
えっ? 結婚を前提に、って、なに?
あたしはキョトンとしたまま、なにも答えられなかった。結婚を前提にって、普通に「付き合ってください」っていうのとどう違うんだろう?
ヒカリはしばらく黙ってあたしの返事を待っていたようだけど、あたしがいつまでも返事をしないので、しびれを切らしたようだった。
「ユウナちゃん……。俺、一生懸命告って、返事を待ってるんだけど、なにか応えてくれないかな……」
「あ……。ごめんなさい」
彼はあたしを気遣うように言った。
「びっくりした?」
あたしは正直に頷いた。
「うん、すごくびっくりした」
「ごめんね。俺も自分の気持ちに気づいたとき、すごくびっくりしたんだ。で、ユウナちゃんとはきちんと付き合いたいと思ったから」
「あたし……」
「うん?」
ヒカリがあたしの目を覗き込むようにじっと見つめる。
「ヒカリのことがずっと好きだった。だからすごく嬉しい。ありがと」
ヒカリは安心したように、ホッと大きな息をついて穏やかな表情に戻った。
「でも……なんであたしなの? あたしなんてまだ高校生で、なにもできなくて、美人でもないし……」
ヒカリは目を細めて小さく笑った。
「なんでだろう? それは俺にもわからない。ただ、ユウナちゃんはいいものをたくさん持ってる。優しいし、素直だし、可愛いよ。俺はそう思う。自分の目と心でそれを確かめたつもりだ。いつもいつも、気がつくとユウナちゃんのことを考えてる。ユウナちゃんとずっと一緒にいたいって思ってる。それが俺の気持ちの全てだよ」
嘘や飾りのない言葉から、ヒカリの誠実な気持ちが痛いほど伝わってきて、あたしの胸を熱くした。あたしもヒカリと一緒にいたい。いつも隣にいたい。でも……。
「あたし、結婚なんて考えたことなくて……」
「だろうね」
ヒカリは頷いた。
「今すぐ結婚してくれって言ってるんじゃない。知り合ってまだ二か月も経ってないしね。何年先かわからないけど、将来的には結婚ってことを視野に入れて付き合って欲しいってことだよ。大学に行きたかったら行けばいいと思うし、その先だって、就職したかったらそれでもいいと思う。いつかユウナちゃんも俺も結婚したいと思ったときにすればいい。俺が言ってるのは、そのつもりで付き合って欲しいってことだ。わかる?」
「うん……」
ヒカリはフロントガラスに目を移した。夜の闇が降りてきて、空も海もすっかり暗くなってきている。静かに揺れる波のあちこちに街の灯りが反射してキラキラ光っている。
「返事は急がなくていいよ。大事なことだから、よく考えて」
「うん」
「ただし」
ヒカリの声のトーンが、硬くなった。
「もしユウナちゃんにそのつもりがないんだったら、もう会わないことにしよう」
えっ? それって、もうヒカリに会えないってこと??
「なんで?」
「俺のわがままだよ。結婚まで考えた子にその気がないって言われたら、辛いからね」
この間竜樹の申し込みを断ったとき、彼はこれからも仲良くしようって言ってくれた。断ったらそれっきり二度と会わないなんて、断ることでそんな風になるなんて、完全に関係を断ち切ってしまうなんて、考えたこともなかった。好きだったら、少しでもその人と繋がっていたいものじゃないのかな。もしかしたら、ヒカリはあたしが考えてるよりずっと大人なのかもしれない。
「太郎は? どうするの? これからもマンションに帰れないことあるんでしょ?」
「なんとかするさ。サイの彼女にでも頼んでみる。もし彼女がダメだって言ったら、広島の実家に送って姉貴に頼むよ。以前猫飼ってたことがあるし、わかってくれるだろう」
ヒカリの真剣さを見たような気がした。彼は、あたしとのことを本当に考えてくれてるんだ。でも、いきなり結婚なんて言葉を出されて、今はそこまで考えられない……。
「あたし……ヒカリのこと好きだよ。すごく好き。でも結婚なんて今まで考えたことなかった。少し……考えてもいい?」
「うん。一か月でも、半年でも、一年でも考えてくれていいよ。ただ、俺が真剣に思ってることを忘れないで」
「うん、ありがとう」
彼は両手を伸ばしてあたしの頬に触れた。
「キスしていい?」
遠慮がちな彼の言葉が耳に届き、あたしは小さく震えながら頷いた。彼はゆっくりとあたしに顔を寄せ、唇に触れた。彼の柔らかな唇を感じながら、嬉しくて、胸がいっぱいで、息が詰まりそうだった。
彼は唇を離すと、あたしを強く抱きしめた。
「好きだよ、ユウナちゃん……」
彼の想いが勢いよくあたしに流れ込んでくるような気がした。それを全部を受け止めたいと思った。
「ヒカリ……、あたしも、大好き……」
フロントガラスの向こうの真っ黒い闇の中で、黄色く輝く三日月が浮かんでいるのが見えた。
* * *
翌日の日曜日、あたしは智ちゃんに電話した。智ちゃんは、ナカジーとデートだから帰りに行くって言ってくれた。
夕方、約束どおり智ちゃんが来た。まずナカジーとのデートの報告を聞いて、それから昨日の出来事をありのまま話した。智ちゃんはこれ以上ないほどの驚きを示した。
「はぁぁ!? あんたとヒカリが結婚!? えーっ、マジィ!? うそっ、あり得ない! 絶対うそっ!!」
「あたしだって、半分信じられない気持ちだよ。でも、彼は嘘やいい加減なこと言う人じゃないから」
「いや、あり得ないでしょー」
絶対に信じようとしない智ちゃんに、あたしは言った。
「じゃ、今度智ちゃんに紹介するよ。だけど、他の人には絶対誰にも喋らないでね。おばさんにも、お姉ちゃんにも。約束だよ」
彩姉の一件から、このことがどこかで漏れてマスコミにでも知れたら大変だということを知っていたので、あたしは警戒していた。
「うん、わかってる。とにかく、もしヒカリが本気でそう言ってくれてるんなら、結婚しちゃいなよ。辛い大学受験ともおさらばだし、芸能人の嫁なんてメチャカッコイイじゃん! セレブだよ! そしてあたしはそのオトモダチ!」
智ちゃんはテンションが高くなっていて、芸能人と結婚することがどんなに素敵かを力説する。この間は「芸能人なんて……」とか言ってたくせに。
「あたしは、ヒカリが芸能人だから好きなわけじゃないもん」
なにより、ヒカリの生活はセレブとは程遠い。学生のときと同じ八畳のワンルームマンションだし、部屋にはいらない物がなに一つないシンプルさ。いらない物って言ったら、猫とそれに関する必需品くらいだ。
「あたしだったら、即OKするなぁ。だって、とにかく好きなんでしょ。だったらなにも問題ないじゃん」
智ちゃんは、彼の申し出を受けるように言うだけだった。あたしも断わる理由はなにもないと思ってる。でも「大事なことだからよく考えて」って彼が言ってくれたこともあって、少しゆっくり考えてみようと思った。
* * *
次の土曜日、お昼頃にヒカリのマンションに行った。太郎と遊んでいると、玄関からカチャリとドアを開ける音に続いて人が入って来る音がした。
ヒカリ?
玄関に行くと、彼がギターを抱えて帰って来たところだった。
「ヒカリ、お帰りなさい!」
彼は一瞬驚き、それからすぐ笑顔になった。
「ユウナちゃん、来てたんだ。ここで偶然会うなんて、初めてだね」
「うん。徹夜だったの?」
「まあね。でも、プロモの撮影が済んだ。これから打ち上げだよ」
「徹夜明けで打ち上げ? 大丈夫?」
彼はロフトに上がり、ギターを片づけて降りてきた。
「平気。サイの家だからメンバーくらいしか来ないし。全体での打ち上げは、また改めてやるからね。そうだ、ユウナちゃんも来る?」
サイの家でクレセント・ムーンのメンバーたちと過ごす。それはなんだかとても魅力的な冒険に思えた。
「行っていいの?」
「うん、全然構わないよ。みんなハイになってるか、疲れて寝ちゃうかだと思うけど」
言うと彼はもう一度出て行き、アンプを抱えて戻って来た。キーをテーブルに置くと、慌ただしくクローゼットを開けてタオルと着替えを出す。
「俺、フロ。ごめん、ちょっと待ってて」
言って、足早にバスルームに入っていった。
あたしは太郎を抱き上げ、話しかけた。
「太郎、帰って来たばかりなのに、ヒカリは忙しそうだね。打ち上げだって。あたしも行っていいのかなぁ? 大丈夫かなぁ?」
太郎は宙ぶらりんな格好で、あたしにされるがままになっていた。太郎を床に下ろし、いつものようにねこじゃらしで遊ぶ。太郎はのぼせてねこじゃらしを追い掛ける。
やがて洗面所からドライヤーの音が聞こえ、少ししてヒカリが部屋に入ってきた。テーブルからキーを取り、あたしに振り向く。
「お待たせ。行こっか」
「うん」
あたしは頷いてから、太郎の前にしゃがみ込んで彼の頭を撫でた。
「じゃね、太郎。また来るから、お利口してるのよ」
ヒカリの後に続いて、玄関から外に出た。外は相変わらず暑かったけど、秋が近いことを感じさせる爽やかな風が吹いている。
マンション前の駐車場から、車はゆっくりと発進して道路に出た。
「サイの家って、近いの?」
「すぐだよ。五分くらいかな」
ヒカリが言う通り、サイのマンションへはあっと言う間に着いた。大きく新しい建物に入ると広いホールがあった。きれいなシャンデリアや背の高い観葉植物、静物画などで飾られていて、ホテルのようだった。
ヒカリがインターホンでサイの部屋番号を押す。
「はーい」
女の人の声だった。
「俺」
ヒカリが言うと、彼女は心得たように返事をした。
「今開けるね。どうぞ」
奥に続くドアのロックはすぐに外れ、ヒカリは慣れた仕草で中に入って行く。あたしも続いて入った。エレベーターに乗り、十二階のボタンを押す。扉が閉まり、あたしは狭い空間でヒカリと二人きりになった。十二階までの距離が長く感じる。ヒカリは下を向いたまま、なにも喋らなかった。あたしはそんなヒカリの横顔を見ていた。
癖のない長い黒髪。多分、染めたりしていない地の色なんだろう。長い睫、白くてきめの細かい肌、形のいい唇。サイは華やかな魅力があるけど、ヒカリはごく自然に傍にいられるような、穏やかな優しい雰囲気があって、あたしにはそれがとても心地よく、愛しく感じられる。あたし、この人と結婚するのかなぁ……。ぼんやりとそんなことを考えていた。
やがて十二階に着き、扉が開いて、ヒカリに続いてフロアに出た。左に曲がり、しばらく歩いて、ひとつのドアの前でヒカリが止まった。呼び鈴を押す。
「はーい」
中からさっきの女の人の声がして、すぐにドアが開いた。
「いらっしゃい。みんなもう出来上がってるわよ」
出迎えてくれたのは、長いストレートの茶髪をした、華奢で綺麗な人だった。白いTシャツにジーンズといったありきたりでラフな格好だけど、それが彼女の魅力を存分に引き出している。ひと目でサイの彼女だとわかった。雰囲気がよく似ていて、お似合いだ。
「あら? 彼女?」
その人はあたしに目を止めて言った。
「うん。いいかな?」
ヒカリがあたしのことを「彼女」と肯定したことに、あたしはちょっと戸惑った。そっか、あたし、ヒカリの彼女なんだ……。なんだか不思議な気がする……。
彼女はにっこりとあたしに笑いかけ奥へと促した。
「もちろん。どうぞ」
ヒカリが一歩中に入り、あたしに彼女を紹介してくれた。
「ユウナちゃん、サイの彼女の聖月」
「よろしくね、ユウナちゃん」
すぐ近くで彼女を見ると、本当になんて綺麗な人なんだろうと思った。艶やかな髪に真っ白い肌。上品なメイク。きらきらと光が輝き立つみたい。あたしはペコリと頭を下げた。
「ユウナです。よろしく」
「遠慮しないでね。ここでは無礼講だから」
ヒカリの後についてリビングに入った。ふかふかのカーペットが敷き詰められたその部屋は広く、うちのリビングの四倍くらいありそうだった。中央にガラスの大きなテーブルがあり、その周りはソファで囲まれている。サイを始めメンバーたちが膝を抱えて座ったり寝そべったりしていた。テーブルの上にはローストビーフやカナッペなど美味しそうな料理やフルーツ、缶ビールなどが賑やかに並べられている。
入って来たヒカリに気づき、サイが声を掛けた。
「おう! 遅かったな」
「あっ、ユウナちゃん! 久しぶり! 相変わらず可愛いね」
「こっちおいでよ。ビール飲む?」
タイジやイツキが手招きし、あたしが座るスペースを作った。言われるままに座る。聖月さんがトレイに乗せたオレンジジュースの瓶をテーブルに置いて、彼らをたしなめた。
「ユウナちゃんは未成年なんだから、飲ましちゃダメよ。ユウナちゃん、オレンジジュースでいい?」
「はい」
あたしは頷いた。聖月さん、あたしが高校生だって知ってるんだ。そんな話、いつしたのかな。ちょっと恥ずかしくなった。
グラスにジュースを注ぎ、聖月さんはそれをあたしに渡してくれた。
「ありがとう」
ジュースを受け取り、ヒカリを探す。彼はテーブルを挟んだ向かいでサイの隣に腰を下ろし、言った。
「聖月、俺にもジュース」
「あら、ビールたくさんあるわよ」
「いや、ジュースでいい」
聖月さんはフフンと頷いた。
「なるほど、そういうことね」
立ち上がり、キッチンからグラスを持ってくると、ジュースを入れて彼に渡した。
タイジがあたしに話しかけた。
「ユウナちゃん、ニューアルバムの音源聴いた?」
「ううん」
イツキが驚いて顔を上げた。
「まだ聴いてないの? ヒカリはなにもったいぶってんだか」
「あまり会ってないから……」
「そうなんだ? スタジオにも遊びに来ればよかったのに。次のときは俺が誘ってあげるよ」
そんな話をしてると、タイジがどこからかトランプを持ってきた。
「ユウナちゃん、トランプしよ。セブンブリッヂ知ってる?」
誘われるまま、あたしたちはトランプを始めた。時々ヒカリのほうを見ると、彼はずっとサイとなにか喋っていた。タイジとイツキがあたしにいろいろ話しかけてくるので、ヒカリとサイがなにを話しているのかはよくわからなかった。ヒカリは煙草を吸いながら、サイの言葉に頷いたり、笑ったり、時々首を振って目を伏せたりしていた。そんな二人を見ると、本当に仲がいいんだなっていうのがわかった。
やがて、ヒカリが立ち上がった。
「俺、もうダメ。限界。サイ、ベッド借りるよ」
サイはジントニックを飲む手を止め、目を上げてヒカリを見た。
「おう」
ヒカリは煙草のボックスを手に取ると、そのままリビングを出て奥の部屋に向かった。彼が出ていくのを目で追い掛けていると、サイがあたしに言った。
「奴がいちばん忙しかったからね。神経使って疲れてるんだろう。少し寝かせてやって」
あたしは頷き、トランプを続けた。いくつかゲームを繰り返したり話をしているうち、タイジは疲れたのか、ソファで眠ってしまった。イツキがトイレに立ち上がると、サイがあたしの隣に座った。
「ユウナちゃん」
彼はジントニックのグラスを自分の前に置いて、あたしを見た。
「楽しんでる?」
「うん」
あたしが頷くと、彼はにこっと笑った。近くで見ると、サイは本当に綺麗だ。肌がきめ細かくて白い。髪も、金色に染めてるのにツヤツヤで痛んでない。瞳の色は茶色っぽくて、日本人じゃないみたいに明るい。こういう人を、生まれついてスター性を持った人っていうのかなとあたしは思った。
サイは煙草のボックスを手で構いながら言った。
「ヒカリとのことで、なにか悩んでることがあるの?」
いきなりそう言われて、あたしはどう返事したらいいのか困った。
「俺、ユウナちゃんとヒカリとはいい組み合わせだと思うんだけどな」
……そんなこと、勝手に決めないで欲しい。
「ヒカリのこと、好き、嫌い、どっち?」
遠慮なく核心を突いてくるサイ。彼に訊かれると、嫌でもそのペースに乗せられてしまう。
「好き……だけど……」
「だけど、なに?」
「んーと……」
あたしは、どう言ったらいいかわからなかった。自分で自分の気持ちすらはっきりとはわかってないんだもの。
あたしがなかなか返事できないでいると、サイが話を続けた。
「好き、ってのは素朴でいい言葉なんだけど、半面、すごく幅広くてね。嫌いじゃない、好意を持ってる、付き合いたい、結婚したい、どれ?」
「結婚って、あたし、よくわからなくて……」
「なるほどね」
彼はマルボロの煙草を一本引き抜き、火をつけて、フーッと煙を吐いた。
「聖月さんって、モデルさん?」
あたしが訊くと、サイは椅子の背に身体を預けて長い足を組んだ。
「いや、普通のOLだよ」
「そうなんだ。綺麗な人だから、モデルさんかと思った。サイは聖月さんと結婚するの?」
再び煙草を口にして、静かに煙を吐く。
「どうかな。タイミング次第だろうね」
OLと人気ミュージシャンのカップル。あたしは彩姉のことを思い出し、サイに訊いてみた。
「あたしの従姉妹の彩香、知ってるでしょ? 音楽雑誌の編集者の」
「よく知ってるよ。ユウナちゃんと初めて会ったときに一緒にいてインタビュー受けたね」
「うん。その彩姉が、芸能人と付き合うのはたいへんだって言ってた。そうなのかな」
サイは小さく笑った。
「どうだろ。直接訊いてみよう」
言って、食事の片付けに入ってきた聖月さんに声をかけた。
「聖月、芸能人と付き合うのはたいへん?」
聖月さんは、テーブルの向こう側で、残った料理を一つのお皿にまとめながら、こっちに目を上げた。
「突然、なぁに?」
「ユウナちゃんが知りたいんだって」
手際よく手を動かしながら、聖月さんはなんでもないみたいに言う。
「あたしは、たいへんだって思ったことはないけど」
サイは悪戯っぽくあたしにウィンクした。
「だそうだよ」
「そうなんだ……」
イツキが戻って来て、眠そうに向かいのソファに横になった。聖月さんは立ち上がって、クローゼットからブランケットを出す。
「無理に隠そうとすれば辛くなっちゃうかもね。あたしたちは普通に付き合ってるから」
そう言ってタイジとイツキにブランケットを掛けた。タイジの肩のブランケットを掛け直す聖月さんを見ると、よく気がつく素敵な人だなぁって、あたしは改めて思った。
サイがあたしに言った。
「ユウナちゃん、携帯持ってる?」
「うん」
あたしは鞄から携帯を取り出して、サイに渡した。サイはそれを受け取ると、器用にボタンを押し始めた。
「俺の携帯の番号とメアド入れとく。なんかあったら、いつでも電話して」
「えっ、いいの?」
サイがそこまで気遣ってくれるとは思わなかったので、あたしはびっくりした。
「構わないよ。人に見られると困るから、本名で入れとくね。ヒカリから聞いてるだろ」
「うん。ありがと」
サイはにこっと笑った。本当に綺麗な笑顔だった。
「ユウナちゃん」
携帯をあたしに差し出しながら、サイが続ける。
「ヒカリって、どんな奴だと思う?」
あたしはヒカリとのいろいろなことを思い出した。一緒に食事や遊びに出掛けたり、太郎を拾ったり、地図まで描いてスペアキーを渡してくれたり、会えないときの手紙でのやり取り、そして初めてキスされたときのこと……。
「優しい……と思う」
サイは当然と言った顔でニヤッと笑った。
「だろ? あいつはいいぜぇ! 俺、超愛してるもん!」
サイがヒカリのことを大切に思ってるのは、彼らの様子からよくわかる。友だちからこんな風に言ってもらえるんだから、ヒカリは本当に信頼に値する人なんだろう。横から聖月さんが言った。
「あら、カズ、あたしは?」
「お前は別格」
サイが聖月さんに顔を上げて苦笑いした。聖月さんはフフッと笑って、お皿やグラスを乗せたトレイをキッチンに持って行った。あたしは空いたビールの缶を両手に抱えて、聖月さんについて行った。
キッチンはきれいに整えられていて、きっと普段から聖月さんが手入れしてるんだろうなと思った。
「ユウナちゃん、ありがとう。気にしなくていいから、ゆっくりしてて」
「はい」
シンクの水を流し洗い物をする聖月さんの横に立って、あたしはお皿やグラスをすすいだ。手を動かしながら、彼女は静かに口を開いた。
「ユウナちゃん、ヒカリとのことでなにか悩んでるの?」
あたしは言葉を選びながら答えた。
「悩んでるってわけじゃないけど、あたし、男の人とそんなに付き合ったことないし、しかも芸能界にいる人だから……」
聖月さんはクスッと笑った。
「ヒカリって、ミュージシャンとしてはすごい才能持ってるくせに、全然芸能人ぽくないでしょ?」
言われてみると、そうだ。マンションだって学生のときのそのままだし、チャラチャラしてないし、うっかりキスしたらすぐ謝っちゃうし。
「うん」
「だから芸能人なんて思わずに、普通に付き合えばいいのよ。外に出たときは、ちょっと人目を気にしないといけないけどね」
そっか。そうなんだ。
「彼なら、絶対大切にしてくれるわよ。あたしが保証する」
聖月さんは洗い物を終えた手を洗い流し、あたしにウィンクした。あたしはちょっと気持ちが晴れたような気がして頷いた。
「さあ、そろそろ外が暗くなってくる時間よ。眠り王子にキスでもしてきたら? そこの廊下の突き当たりの部屋だから」
言われるまま、あたしは突き当たりの部屋に行った。
ドアを開けると中は薄暗く、冷房が効いてひんやりしていた。厚いカーテンが閉められた窓際にダブルベッドがあり、ヒカリはそこで眠っていた。
中に入って、ベッドの傍に行ってみる。彼は長い髪を無造作に枕に散らし、子供のように眠り込んでいる。寝顔を眺めてみた。バンドの中で、容姿については派手なサイだけが取り上げられることが多い。だけどヒカリも負けないくらい綺麗だ。白い肌、真直ぐ通った鼻筋、薄い唇、長い睫。本当に綺麗だなとあたしは思った。誰よりも彼が素敵に見える。輝いて見える。愛しく思える。
あたしはベッドの脇に跪き、自分の唇に手を当てて、その手を彼の唇にそっと触れた。すると彼の睫が小さく動き、彼はゆっくりと目を開けた。黒く輝く瞳があたしを捉える。
「ユウナちゃん……」
彼は瞳を動かして部屋の中を確認する。昼までのことを思い出したらしく、慌てて起き上がった。
「ヤベ、俺……」
腕時計で時間を確認すると、髪を掻き上げながら、申し訳なさそうに言った。
「もうこんな時間……。ごめん」
あたしはベッドの脇に跪いたまま、彼を見上げた。
「ううん、大丈夫だよ」
彼はあたしの頬に手をやり、じっとあたしを見つめた。
「ごめんね、ユウナちゃん、一人にして。サイがいるから大丈夫だと思ったから」
彼の優しさを感じたと共に、彼とサイの信頼関係がまた見えた気がした。
「メンバーのみんなや聖月さんがいろいろ気遣ってくれて、楽しかった。ヒカリこそ、ゆっくり眠れた?」
「うん、もう大丈夫。バッチリ。送っていかなきゃね」
言って彼は掛け布団をめくり起き上がろうとした。あたしは彼の動作を制止するように、彼に抱きついた。
「ヒカリ……」
彼は驚いて動きを止めた。
「どうしたの、ユウナちゃん?」
「あたし、ヒカリとちゃんと付き合いたい。結婚のことはまだわからないけど、いつかそういう気持ちになればいいなと思ってる。それでもいい?」
一瞬の間をおいて、彼はあたしの頭を腕の中に抱き、言った。
「うん、待ってる。……そのときが来るのを、俺は待ってる」
そしてその腕を解き、あたしを見てにこっと笑った。薄暗闇の中で、彼の黒い瞳がキラキラと優しく輝く。
「ありがと、ユウナちゃん。嬉しいよ」
ベッドから起き上がり、サイドチェストから黒い煙草の箱とライターを手に取ると、彼は言った。
「さ、帰ろ」
「ちょ、ちょっと待って」
うろたえながら言うと、彼は振り返った。
「こういうときって、キスとかしてくれるもんじゃないの?」
彼はフッと笑い、ドキッとするほど色っぽい眼をあたしに向けた。
「こういうとこでそんなことすると、キスだけで終わんなくなるぜ。いいの?」
うっ。それってどういうことかな。あたしが悩んでると、彼の声が飛んだ。
「ユウナちゃん、帰るよ。早くおいで」
結局あたしは彼の後に付いて部屋を出た。
「またいつでもおいで」
「今度ゆっくり話そうね、ユウナちゃん」
サイと聖月さんに見送られて、あたしたちはマンションを出て車に乗った。
車の中であたしは訊いた。
「ヒカリ、今度はいつ会える?」
「そうだなあ。もう少ししたらツアーのリハが始まるけど、明日は一日家にいると思うから、いつでも遊びにおいでよ」
「ホント? いいの?」
「うん」
「じゃあ、行く!」
レコーディングでずっと会えなかったから、少しでもヒカリと一緒にいたかった。今までヒカリの部屋に行っても、ヒカリはいつもいなかったんだもの。明日はヒカリとできるだけたくさんの時間を過ごそう。たくさん話をしよう。たくさんヒカリを見ていよう。あたしはそう思った。
長い文章をお読みくださり、ありがとうございます。
感想などいただけると嬉しいです。




