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心の闇があらわれる  作者: 和泉 きよ


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01.隣の席が悪かった

 僕が悪いことをしたわけではない。


 これは、僕が中学生になってから、何度も何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。


 朝、目を覚ましたとき。


 制服のシャツに袖を通すとき。


 玄関で靴を履くとき。


 学校へ向かう途中、同じ制服を着た生徒たちの背中を見つけたとき。


 教室の扉を開けるとき。


 そして、自分の席に座るとき。


 僕は心の中で、毎日同じ言葉を繰り返した。


 僕が悪いことをしたわけではない。


 中学生になって最初の席替えで、僕の隣になった男子が、学校で有名な不良だった。


 ただ、それだけだった。


 それだけのことだった。


 僕の隣には彼がいた。


 たったそれだけ。


 なのに、それから僕の学校生活は少しずつおかしくなった。


「朝倉って、あいつと仲いいの?」


 最初にそう聞かれたとき、僕は笑った。


「いや、席が隣なだけだよ」


 それで終わると思っていた。


 けれど、人間というのは、どうしてなのか、理由のないところに理由を作りたがる。


 僕が彼の隣に座っている。


 そんな事実だけで、僕と彼の間には、存在しない関係が作られていった。


「あいつ、朝倉のこと気に入ってるらしいよ」


「朝倉もああいうタイプなんじゃない?」


「前からちょっと調子乗ってたし」


 僕は、小学校では調子に乗っていた。


 それは認める。


 運営委員会の委員長をやった。


 朝の挨拶運動にも出た。


 全校集会ではマイクを持った。


 行事があれば誰より先に手を挙げた。


 先生に頼まれる前に、椅子を運んだ。


 誰かが困っていたら声をかけた。


 誰かが黙っていたら、こちらから話しかけた。


 僕は、人と関わることが好きだった。


 人の輪の真ん中にいることが、好きだった。


 あの頃の僕は、自分のことを明るい人間だと思っていた。


 そして、たぶん、本当に明るかった。


 少なくとも、今の僕よりは。


 だから中学校に入学したときも、同じような生活が始まると思っていた。


 新しい友達を作って。


 くだらないことで笑って。


 先生に怒られて。


 部活動をして。


 帰り道にコンビニへ寄って。


 そんな、ごく普通の中学生になるつもりだった。


 けれど、僕の最初の席の隣には、運の悪いことに不良がいた。


 それだけで、僕は「朝倉直人」という人間ではなくなった。


 「あいつの隣にいる奴」になった。


 人間は、名前より先に他人との関係を見る。


 少なくとも僕は、そういうことを中学生になってから知った。


「朝倉」


 昼休み。


 背後から声がした。


 振り返ると、僕の隣の席だった男子が立っていた。


 今は別の席になっている。


 それでも、僕にとっては彼の姿を見るだけで胃の奥が少し硬くなる。


「なに?」


「パン買ってこいよ」


「嫌だ」


 僕がそう言うと、彼は笑った。


「お前、最近生意気じゃね?」


「最初から生意気だよ」


「は?」


「僕、小学生の頃からこういう性格だから」


 自分でも、余計なことを言ったと思った。


 彼の顔から笑みが消えた。


 僕は目を逸らさなかった。


 怖くない。


 そう思った。


 いや、本当は怖かった。


 けれど、「怖い」と認めた瞬間に、何か大切なものを失う気がした。


 だから僕は、怖くない顔をした。


 それが最近の僕の得意技だった。


 心の中で怯えながら、顔だけは平気なふりをする。


 人間は、自分の心より先に顔を他人へ見せなければならない。


 だから僕は、顔だけを守ることにした。


「……死ねよ」


 彼が小さく言った。


 僕は笑った。


「それは無理かな」


 彼が去っていく。


 僕は机に座ったまま、窓の外を見た。


 空は青かった。


 腹が立つほど、青かった。


 こんなに天気がいいのだから、僕も怒ったり悲しんだりするのをやめればいいのにと思った。


 けれど、人間の心というものは、天気予報ほど素直ではない。


 僕は自分の胸の中にあるものを考えた。


 怒り。


 悔しさ。


 寂しさ。


 そして、ほんの少しの――憎しみ。


 その言葉を思い浮かべた瞬間、僕は慌てて打ち消した。


 憎しみなんて、持ってはいけない。


 そう思った。


 いや。


 違う。


 持っていてもいい。


 僕は悪くないのだから。


 悪いことをされた人間が、悪いことをした人間を嫌う。


 それの何が悪い。


 むしろ当然じゃないか。


 僕はそう考えた。


 罪には、相対的に罰がある。


 誰かが僕を傷つけたのなら、その誰かを嫌う権利くらい、僕にはある。


 そうでなければ、傷つけられた側は、どこへ怒りを持っていけばいいのだろう。


 僕は窓の外を見ながら、そんなことを考えていた。


 そのときだった。


 教室の前の扉から、女子が顔を出した。


「朝倉くん」


 僕は振り返った。


 知らない女子だった。


 いや。


 知っている。


 正確には、僕が一方的に知っている。


 白石澪。


 別のクラスの女子。


 休み時間になると、いつも本を読んでいる。


 学校中の誰もが一度くらいは彼女を見たことがある。


 目立とうとしているわけではないのに、目立ってしまう。


 そういう人間が、この世にはいる。


 彼女は、そういう人間だった。


「先生が呼んでたよ」


「あ、ありがとう」


 それだけ言って、彼女は去っていった。


 僕はしばらく、その後ろ姿を見ていた。


 そして、なぜだか少しだけ腹が立った。


 別に白石さんが悪いわけではない。


 ただ、彼女のような人間を見ると、僕はときどき、

 自分が昔どんな人間だったのかを思い出してしまう。


 明るくて。


 積極的で。


 人の輪の中にいて。


 誰かに声をかけることを怖いと思わなかった。


 僕は、あの頃の自分が嫌いだった。


 ……いや。


 たぶん。


 今でも好きだった。


 だから余計に嫌だった。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。


 僕は教科書を開いた。


 そして、何事もなかったように授業を受けた。


 その日の夜。


 僕は家に忘れ物をしたことに気づいた。


 明日の授業で使うノートだった。


 母親に言えば、


「明日の朝取りに行けばいいでしょう」


と言われる。


 でも僕は、それが嫌だった。


 だから、夜の学校へ戻ることにした。


 校門は閉まっていた。


 当然だ。


 僕は少し考えてから、裏手へ回った。


 小学校の頃なら、こんなことをしたら先生に見つかって怒られていた。


 今は、怒ってくれる先生すらいない。


 僕はフェンスの隙間から学校へ入った。


 校舎は暗かった。


 昼間なら何百人もの人間がいる場所なのに、夜になると、そこには誰もいなかった。


 静かだった。


 静かすぎた。


 廊下を歩く自分の足音が、やけに大きく聞こえた。


 そのとき。


 廊下の先から、何かが聞こえた。


 金属の擦れる音だった。


 僕は足を止めた。


 誰かいる。


 先生だろうか。


 それとも警備員か。


 僕は壁に隠れて、そっと廊下を覗いた。


 そして――。


 一人の少女が立っているのを見た。


 白石澪だった。


 昼間と同じ制服。


 長い髪。


 静かな横顔。


 ただし。


 昼間と違うものが一つだけあった。


 彼女は、両手で大きな銃を持っていた。


「…………」


 僕は、しばらく何も言えなかった。


 白石さんも僕に気づいた。


 視線が合った。


 彼女は少し首を傾げた。


「朝倉くん?」


「白石さん」


「どうしてここに?」


「それはこっちの台詞なんだけど」


「私は用事」


「その用事って?」


 白石さんは、自分の手元に目を落とした。


 それから、僕を見た。


「これ?」


「そう」


「秘密」


「その物騒なものを持ってる時点で、秘密にする意味がないと思うけど」


 白石さんは、少しだけ笑った。


「朝倉くんって、意外と面白いね」


「今それ言う?」


 僕がそう言った瞬間。


 校舎の奥で、大きな音がした。


 ドン、と。


 何かが壁にぶつかったような音だった。


 白石さんの表情が変わった。


 僕も振り返った。


 暗い廊下の向こう。


 何かがいた。


 人間ではない。


 それだけは分かった。


 黒い。


 大きい。


 そして、形がない。


 人間の腕のようなものが何本も伸びていて、その先端が床を這っている。


 僕は一歩後ずさった。


 白石さんは銃を構えた。


「白石さん」


「動かないで」


「何あれ?」


 白石さんは答えなかった。


 銃声が響いた。


 僕は思わず目を閉じた。


 次に目を開けたとき。


 そこには、さっきまでいたはずの怪物がいなかった。


 代わりに、床には黒い水のようなものが広がっていた。


 白石さんは銃を下ろした。


 そして、何でもないことのように言った。


「闇よ」


「……闇?」


「うん」


「学校に?」


「毎日出るよ」


 僕は彼女の顔を見た。


 冗談を言っているようには見えなかった。


「じゃあ、毎日これを倒してるの?」


「そう」


「一人で?」


「今まではね」


 彼女はそこで僕を見た。


 そして、ほんの少しだけ笑った。


「でも今日からは、二人かもしれない」


「……どういう意味?」


 僕は、自分の右手を見た。


 さっきまで何も持っていなかったはずの手に。


 見たこともない武器が握られていた。


 僕は声を失った。


 白石さんは、静かに言った。


「朝倉くん」


「……なに」


「あなたも、闇を倒せると思う」


 僕は、自分の手の中にある武器を見つめた。


 その重さだけが、やけに現実的だった。


 そしてその瞬間、僕は初めて知った。


 学校という場所には、僕が知らないもう一つの顔がある。


 人間の心にも、僕が知らないもう一つの顔がある。


 そしてたぶん。


 僕自身にも。


 まだ知らない顔がある。


 それが何なのか。


 そのときの僕には、まだ分からなかった。


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