エピローグ
しばらく、言葉は続かなかった。
窓の外で風が鳴る。
時折、硝子を叩く音だけが、静まり返った室内に微かに響いていた。
そして——……
沈黙を破ったのは、アイゼルの方だった。
「………フッ」
「……?」
小さく漏れた声に、ノクスが顔を上げる。
すると、アイゼルは口元を抑え、肩を小さく震わせていた。
——笑っているのだ。
ノクスが呆然とその姿を見つめていると、アイゼルは小さく口を開いた。
「殴って止める……だと?本気で……言って、いるのか……?」
今にも吹き出しそうなのを耐えるような、僅かに震えた声だった。
「何がおかしいんだよ!?俺は本気で——……」
「残念だったな。貴様の貧弱な腕では、俺様にかすり傷すら負わせられない」
笑いを堪えすぎたのか、目元にはうっすら涙まで滲んでいる。
そんな顔を見たのは初めてで、ノクスは思わず目を丸くした。
だが、すぐに眉を寄せて言い返す。
「ちょっと待て、貧弱はねぇだろ!」
「事実を言ったまでだ。それに腕だけではなく、全体的に細すぎる。俺様なら片腕で担げるレベルだ」
「そこまで軽くねぇよ!つーかあんたの体格が良すぎるだけだからな!?」
反論を繰り返すノクスを見て、アイゼルは不敵に、しかしどこか柔らかく笑った。
その顔に、不覚にも一瞬見惚れる。
——直後。
ぽす、と頭に大きな手が置かれた。
「お、おい、こら!何やってんだ!?」
「何となくだ」
「何となくでするんじゃねぇ!」
抗議の声を上げるが、アイゼルが止める気配はない。
それどころか、わざと乱すように少し強めに撫で回された。
「おい、マジでやめろ!」
「うるさい、黙って撫でられていろ」
言い終わると同時に、アイゼルは手を引いた。
ノクスはぐしゃぐしゃになった髪を押さえながら、不機嫌そうにアイゼルを睨み上げる。
次の瞬間、不意にアイゼルの声が低く落ちた。
「……だったら、俺様をちゃんと監視しておけ」
急に変わった空気に、ノクスの動きが止まる。
先ほどまで笑っていたはずの青い瞳が、今は真っ直ぐこちらを見下ろしていた。
「少しでも違和感を感じたら、早めに止めろ。貴様だけは、何をしても不敬とは見做さない」
「……っ」
ノクスの呼吸が一瞬詰まる。
それがどれほど異例の言葉なのか、理解できないほど馬鹿ではなかった。
皇帝に対する無礼など、本来なら許されるはずがない。
まして相手は、あのアイゼルだ。
……それなのに。
“貴様だけは”と、そう言った。
ノクスが何か返そうと口を開きかけた、その時。
「………まあ、拳はかすりもしない可能性が高いな」
「一言多いんだよ!」
反射的に怒鳴り返すと、アイゼルはまた肩を揺らして笑った。
先ほどまで部屋を覆っていた重苦しい空気は、いつの間にか薄れている。
ノクスは憮然とした顔のまま乱れた髪を直し、こっそりと息を吐いた。
……少なくとも今は、あの無茶苦茶な覚悟だけを抱えて、一人で壊れていきそうな顔には見えない。
そのことに、胸の奥が僅かに安堵する。
一方でアイゼルは、まだ不機嫌そうにしているノクスを見下ろしながら、小さく口元を緩めた。
だが、ノクスがそれに気づくことはなかった。
窓の外では、いつの間にか雪が止んでいた。
張り詰めていた夜の静けさはそのままに。
先ほどまでとは、どこか違う空気が流れている。
雲の隙間から、珍しく星を覗かせた空が、帝国の夜明けを待っていた。
これにて、アイゼル編の本筋は一区切りとなります。
本編では圧倒的な皇帝として描かれていたアイゼルですが、その裏で何を考え、何を恐れ、なぜノクスを側に置いているのか——ずっと書きたかった部分でした。
二人の関係性が少しでも伝わっていたら嬉しいです。
そして実は今回、アイゼルが“普通に笑った”描写を初めて書きました。
作者としても少し感慨深かったです。
この先は、物語の補足となる番外編を、いくつか書いていく予定です。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




