第一話 教習所で習った通りに
教習所で習った通りにやった。
顎を持ち上げて気道を確保し、鼻をつまみ、口を覆って一秒かけて息を吹き込む。
本当なら先に胸を三十回押さなければいけない。けれど相手の胸は鎖骨の下までガラスに変わっていて、押せばそのまま割れてしまいそうだった。だからその手順は飛ばした。
練習用の人形とはほかにも違うところがある。左腕の肘から先がなくなっているのに、断面から血が一滴も出ていない。かわりに透明な結晶がぱきぱきと鳴りながら、肩のほうへ広がっていく。
後ろでは氷の割れる音に混じって、赤ん坊のような泣き声が響いている。交差点の真ん中にいる、ビルの三階に頭が届く何かの声だ。
振り返ったところで、できることはひとつも増えない。ミナトは目の前の青白い顔だけを見て、二度目の息を吹き込んだ。
重ねた唇の隙間から、白い光が漏れた。
相手の喉を下り、ガラスになった胸の内側を通って左の肩へ流れていく道筋が、外からでも透けて見えた。結晶は喉、鎖骨、肩の順に引いていき、引いたところから肌の色が戻ってくる。
やがて肘の断面に光が集まった。はじめに骨の形ができ、そのまわりに筋が巻きつき、最後に皮膚が覆っていく。五本の指がそろうまで、十秒もかからなかった。
ミナトは口を離した。何が起きたのか、自分でもさっぱり分からない。ただ、死にかけていた少女がいま目を開けたことだけは確かだった。
ミナトの顔を見上げてから、少女はゆっくりと自分の左手へ目を落とした。
「……腕が、ある」
ひどくかすれた声だった。
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その日の朝、ミナトは目の前で倒れた人を助けなかった。
通学に使っている駅のホームでのことだ。電車を待つ列の前の方で、スーツ姿の男が膝から崩れるように倒れた。鞄が転がり、手から離れたスマホが点字ブロックの上を滑っていく。
あっという間に人だかりができた。それでも輪の内側へ踏み込む者は誰もいない。ミナトもその輪を作っている一人だった。
やり方なら知っていた。この春に運転免許を取ったとき、教習所で応急救護の講習を受けている。肩を叩いて呼びかけ、呼吸を確かめ、周りの人を指さしてAEDと一一九番を頼む。胸を三十回押して、息を二回。人形が相手なら、手順通りに最後までできた。
知っているのに、ミナトはその場から一歩も動けなかった。間違えたらどうする。自分より詳しい人がきっといる。そんなことを考えて迷っているうちに、人垣をかき分けてパンツスーツの女性が飛び出してきた。
「看護師です。そこの方、AEDを! あなたは駅員さんを呼んで!」
女性はミナトの隣にいた大学生と、その後ろの会社員を順に指さした。二人はすぐに人垣を抜けて走っていく。
ミナトは指されなかった。買ったばかりのおにぎりの袋を提げたまま、最後まで輪の一部のまま突っ立っていた。
倒れた男は駅員の担架で運ばれていき、電車は四分遅れでホームに入ってきた。ミナトはそれに乗り、いつもと同じように二限の講義に出た。
自分がやらなくても、誰かがやる。実際その通りになった。自分がいてもいなくても、結果は同じだったということだ。そのことがいつまでも頭の隅に引っかかっていた。
夕方には、バイト先の店長からメッセージが届いた。
『今日シフト入れすぎてた! ミナトくん休みで大丈夫。代わりはいるから!』
悪気がないのは分かっている。それでも最後の一文だけ、三回も読み返してしまった。
その下には、昼に母から届いたメッセージが未読のまま残っていた。
『今日は何時ごろ帰る?』
十八歳、大学一年、特技なし。いなくても誰も困らない。そこまで卑屈になる気はないけれど、自分を言い表すにはその三つで十分だ。
九月も下旬だというのに、蒸し暑い夜だった。ミナトは耳が隠れるほど伸びた黒髪をかき上げた。量が多いせいで、すぐに頭が蒸れてくる。散髪は先月から後回しにしたままだ。
コンビニで夕飯を買い、その袋を提げて、いつものように線路の下をくぐる地下道へ降りた。長さは五十メートルほどで、向こうの出口が小さく四角く見えている。
半分まで来たところで、蛍光灯がいっせいに消えた。
停電かと思い、スマホのライトをつけて足元を照らした。画面の隅に「圏外」と出ている。毎日通っている地下道だが、電波が途切れたことなどこれまで一度もない。
向こうの出口の明かりだけは消えずに残っていた。ミナトはそちらへ歩きつづけた。引き返す理由も思いつかないし、どちらへ進んでも距離は同じだ。
出口に近づくにつれて、空気がどんどん冷えていく。階段を上りきるころには、吐く息が白くなっていた。
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地上に出ると、まず斜めにへし折れた信号機が目に入った。
道の形は知っている町とまったく同じだ。角のコンビニも、向かいの歯医者も、同じ場所に建っている。ただしコンビニは一階が潰れていて、歯医者の壁には見たことのない金属の標識が打ちつけてあった。
『境界特区 第七区画 指定避難経路』
冷えきった空気の中で、サイレンがけたたましく鳴っている。その合間に、防災無線の落ち着いた女性の声が同じ文面を繰り返していた。
『未生獣警報、レベル四。第七区画に残っている市民は直ちに最寄りのシェルターへ避難してください。繰り返します——』
ミナトは後ろを振り返った。
出てきたばかりの地下道の入口が、分厚いコンクリートで塞がれていた。昨日今日の工事には見えない。灰色の表面には雨だれの跡が黒く染みつき、隅には苔まで生えている。
スマホは圏外のままだった。夢だと思おうにも、寒さが肌に痛すぎる。Tシャツ一枚の腕には、びっしりと鳥肌が立っていた。
とにかく誰かを探そうと歩きだしたとき、泣き声が耳に届いた。
赤ん坊の声だ。それもすぐ近く、二つ先の交差点のあたりから聞こえてくる。
避難指示の出ている町に、赤ん坊が取り残されている。そう思った瞬間、今朝のホームと、おにぎりの袋を提げて人垣の中に突っ立っていた自分の姿が頭に浮かんだ。
今朝のことがなかったら、サイレンと反対の方向へ逃げていただろう。
気づいたときには、ミナトは泣き声のするほうへ走りだしていた。
交差点は白く凍りついていた。
アスファルトにも、横倒しになったバスにも、折れた街路樹にも、分厚い霜が張りついている。その真ん中に泣き声の主がいた。
人間の赤ん坊ではなかった。
見上げるほど大きな体の、青白く透けた皮膚の下で、黒い血管が脈を打っている。頭ばかりが不気味にふくらみ、手足は途中で千切れたようなかたちに見える。目も鼻もない顔の真ん中に口だけがぽっかりと開いていて、そこから赤ん坊そっくりの泣き声をあげ続けている。
怪物の下半身は、巨大な氷の塊に閉じ込められていた。見ているあいだにも、表面にはピキピキと新しいひびが走っていく。
氷のすぐ手前に、ひっくり返った乗用車があった。車体にもたれるようにして、人が倒れている。
ミナトと同い年くらいの少女だった。白と紺を基調にした、軍服のような長いコートを着ている。裾は膝の下まであり、足もとは黒いタイツに編み上げのブーツだった。長い銀髪には白い霜がついていた。コートの襟元の名札に『氷堂』と刻まれている。
左腕は、肘から先がなくなっていた。
「ちょっと、大丈夫ですか!」
ミナトはコンビニの袋を放り出して駆け寄った。氷堂がうっすらと目を開ける。
「……民間人? 避難は完了したはず……」
言いかけて、氷堂は目を見張った。
「……若い、男? 嘘でしょう。どうして特区の中に。護衛は」
「護衛? いや、それより腕! 救急車を——」
ポケットのスマホを出しかけて、圏外だったことを思い出す。
「いいから逃げて。あの氷はあと三分も持たない」
「あんたはどうするんだよ」
「見れば分かるでしょう。もう動けない」
氷堂は残った右手で、自分の左肩を指した。
コートの左半分は、黒ずんだ血でぐっしょりと濡れている。それなのに、肘の断面からはもう血が流れていない。透明な結晶が切り口を塞ぎ、小さな音を立てながら二の腕を這いのぼっていく。よく見れば、頬や首筋にもガラスになりかけたところがあった。
「結晶化よ。魔力を使いすぎた魔法少女はこうなる。……知らないはずないでしょう」
知らない。魔法少女という言葉を真顔で口にする人間に会うのも、これが初めてだ。
「十八まで持ったの。長い方よ」
自分の命の話をしているとは思えないほど、平らな声だった。十八なら、ミナトと同じ歳だ。こっちはまだ何ひとつ始まっていないつもりでいた。
氷堂の背後で氷がきしみ、赤ん坊の泣き声が一段と甲高くなった。
言われた通りに逃げるのが正しいことは分かっている。それでもミナトは、咄嗟に氷堂の右手を握りしめていた。
「立てるか。担いででも連れていく」
「無理よ。離し——」
そこで、二人とも言葉を失った。
握った右手の指先にも、ガラスになったところがあった。それがすうっと退いていく。ミナトの手が触れた指から順に、爪の先まで温かい肌の色が戻っていった。
「……何をしたの」
「何も。手を握っただけだ」
「そんなはず——」
言い終える前に、氷堂は激しく咳き込んだ。
結晶が喉元まで届いていた。襟元の肌が透けて、その向こうの景色が歪んで見える。
氷堂のまぶたがゆっくりと落ち、体がぐったりと重くなった。口元に手をかざしても、息がまったく当たってこない。
怪物を縛っている氷が、今にも砕けそうな音を立てた。
見回すまでもなく、看護師も駅員も、隣にいた大学生もここにはいない。凍った交差点に残っているのは、泣き続ける怪物と、息の止まった少女と、ミナト自身だけだ。
誰かがやる、の『誰か』が、今は自分しかいなかった。
ミナトは氷堂を仰向けに寝かせ、喉をそらせて気道を確保した。
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再生した左手を、氷堂は二度握り直した。
「……動く」
その直後、氷の塊が重い音を立てて砕け散った。
泣き声が腹の底に響く咆哮に変わった。自由になった怪物が、出来かけの太い腕を頭の上から振り下ろしてくる。ミナトは思わず氷堂の前に出ようとしたが、逆に襟首を掴まれ、後ろへ突き飛ばされた。
「下がって」
氷堂はもう立ち上がっていた。ついさっきまで息の止まっていた人間とは、とても思えない身のこなしだ。
生えたばかりの左手を、氷堂はまっすぐ怪物へ突き出した。
「——【絶対零度】」
あたりの音が、ふっと消えた。
振り下ろされた怪物の腕が、宙で止まっている。青白い皮膚が指先から真っ白に変わり、腕から肩、ふくらんだ頭へとあっという間に凍りついていく。大きく口を開けた形のまま、咆哮もぴたりと途切れた。
氷堂が左手を握り込む。
怪物は形を保てなくなり、細かな氷の粉になってその場に崩れ落ちた。
九月の夜空から、きらきらと光る粒がさらさらと降ってくる。ミナトは尻もちをついたまま、ぽかんとそれを見上げていた。
「……おかしい」
氷堂は自分の左手を見つめていた。頬や首にあったガラスも、きれいに消えている。
「魔力が戻ってる。……いいえ、前より多いわ。あの大きさの未生獣を一撃でなんて、万全のときでもできなかった」
氷堂は大股でミナトの前まで来ると、膝をついて目の高さを合わせた。
「あなた、私に何をしたの」
「人工呼吸」
「じんこう……」
「息が止まってたからさ。教習所で習った手順で、息を吹き込んだ」
氷堂は指先で自分の唇にそっと触れ、弾かれたようにその手を引っ込めた。顔つきは崩すまいとしているが、耳の先まで真っ赤になっている。
「……そう。救命行為なら仕方ないわ」
やけに早口で、自分に言い聞かせているように聞こえた。
重いローターの音が、上から近づいてきた。交差点の先の広い道路に輸送ヘリが降り、武装した隊員たちが駆け寄ってくる。
まず氷堂の無事を確かめてほっと息をつき、再生した左腕に目を留めて言葉を失い、最後にミナトを見つけてその場で固まった。
全員が女性だった。そういえば、町に響いていた防災無線の声も女性だった。
氷堂の襟元で、無線機が受信音を鳴らした。
『氷堂、状況を報告しなさい』
理知的で落ち着いた、大人の女性の声だった。
「未生獣一体、撃滅しました。それから男性を一名保護。身元不明、護衛なし。年齢は私と同じくらいに見えます」
『……見間違いではないのね』
「目の前にいます。それと、長官」
氷堂は小さく息を呑み、ひと呼吸おいた。
「私の左腕が再生しました」
『……もう一度言いなさい』
「肘から先を失っていた左腕が、元通りになりました。全身の結晶化も消えています。この男性と接触した直後のことです」
無線の向こうで、長い沈黙が続いた。長官と呼ばれた相手が何者なのか、ミナトには見当もつかない。周りの隊員たちも、身じろぎひとつせずに次の声を待っていた。
『その男性をこちらへ連れてきなさい。傷ひとつつけずに。あなた以外の誰にも触れさせてはなりません』
「了解」
通信を切ると、氷堂は立ち上がって背筋を伸ばした。
「対異界特務省防衛軍所属、S級魔法少女、氷堂ヒサメ。あなたを保護します。名前は」
「……ミナト」
「ミナト。あなた、どこから紛れ込んだの」
「線路の下の地下道から。……いや、その前にひとつ聞いていいか。男って、この世界じゃそんなに珍しいのか」
ヒサメは怪訝そうに眉をひそめた。分かりきったことを聞かれて、どう答えればいいのか迷っているようにも見えた。
「いるわよ。でも全員が四十より上。あなたくらいの年齢の男性なんて、私は生まれて初めて見た」
冗談を言っている様子はかけらもない。ミナトは隊員たちがそろって固まった理由をようやく呑み込んだ。
ヒサメはそれから短く言った。
「行くわよ」
ミナトは立ち上がろうとして、そのまま膝をついた。脚に力が入らない。徹夜明けのだるさとも高い熱とも違い、体の芯がそっくり抜け落ちて中がからっぽになった感じがする。
「……悪い、脚が動かない」
ヒサメは何も言わずにミナトの腕を自分の肩に回し、引っぱり上げるようにして立たせた。そのまま半ば抱えるようにして、ヘリのほうへ歩いていく。
ミナトは一度だけ、塞がれた地下道のほうを振り返った。誰かがやるだろうで済んでいた元の場所には、もう戻れそうになかった。
ヘリの座席に腰を下ろすと、ヒサメは新しく生えた左手でミナトのTシャツの袖をぎゅっと掴んだ。本人はそれに気づいていないようだった。




