1.退職代行サービス哀歌
たった独りの夜勤のシフトは静かすぎていけない。
11月上旬ともなれば深夜は肌寒く、人恋しさで正気を保つのすら難しい。経費削減のため、エアコンは使ってはならない決まりのため、足元の電気ストーブで暖を取るしかない。
午前1時をすぎると、いくら昼間たっぷり睡眠をとったつもりでいても、猛烈な眠気に襲われる。
外では木枯らしが吹いているらしく、窓ガラスがガタピシ言っている。
私は退職代行サービス『bye』の社員、花房 隆志。39歳、独身である。
3年前、わずか8帖の居抜き物件を改装した事務所で、LINEの通知を見張るだけの仕事。
高橋代表に夜勤専属を言い渡され、かれこれ半年経つ。どうせ退職希望の連絡が来たとしても、先方の勤務時間にならないと代行しようがないのだが……。
『bye』にかぎらず同業他社は、新年度に入って早々、新入社員からの依頼が殺到したようだ。
入社初日を終え代行を希望されるならましな方で、わずか1時間足らずでトイレ休憩の間に脱走れた事例もある。さすがに退職届を出すのも気が引け、このサービスを利用するというわけだ。
入社式がすんで土日を挟み、月曜の早朝に30人もの怒涛の依頼があったことも忘れられない。あのときはてんやわんやの騒ぎだった。
主な退職理由は、「業務内容や労働時間が規約と異なり、不信感を抱いたから」は、昔ながらのよくあるケースで、「入社式で社長が新入社員を怒鳴りつけ、廊下にズラリと立たせ説教大会」や、「新人研修で社訓を唱和させられ、労働時間外の清掃、強制飲み会など、現代に合わない社風。とてもついていけない」といった理由も多い。昭和時代ではありがちな光景だったと、私の親世代から聞かされたものだ。
新年度に入って直後以外にも、ゴールデンウイークやお盆、年末年始など長期休暇明けに退職希望者は激増する。我々の業務にとっては繁忙期とも言えるだろう。
職場の悪しき慣習やローカルルールは、社会に出れば大なり小なり誰もが経験する通過儀礼だ。割り切るしかあるまい。それが大人になるということだ。
別に令和の時代だけが特別なのではない。
いつの世も若者は社会に揉まれていないのだから、ストレス耐性も鍛えられていない。ましてや親から過保護に育てられたなら、なおさら社会の理不尽さ、理想と現実のギャップに幻滅するのだろう。逃げ出したくなるのもわかる。
利用者は20代が7割を占める。
それ以外の年代は、主にブラック企業から辞めるに辞められず、精神を病んでしまっている人たちが藁にもすがる思いで頼るわけだ。
人手不足から生じる長時間労働、残業代未払い、セクハラパワハラの横行……。働き方改革は一部の大手で適用されているにすぎず、中小は旧態依然のままアップデートしていないところも多い。
今の日本社会は不健全なのかもしれない。
労働環境はますます悪化し、心身ともに疲れ果てる人、辞意を伝えても引き留めにあう人、さらなる悪質なハラスメントにあう人など、退職を許さない職場は数知れない。
働く人だけではあるまい。その人に連動して、家族まで健康を損なう場合だってあるのだ。
そんなとき、最後の手段が退職代行サービスである。
このビジネスが表立って社会進出した2018年こそ、世間からは奇異な眼で見られたものだ。しかしニーズは増える一方で、最近では代行を利用するのは少しもめずらしくなくなった。ようやく時代が追いつき、我々の存在は認知されつつあるのだと思う。
2026年現在、東京だけで、およそ100社以上の同業他社が群雄割拠するとされている。
もっとも、明確な登録制度がないため、正確な数は把握しきれていない。退職代行は法的資格が不要なため、個人事業主や小規模スタートアップが参入しやすく、毎年数十社が新規参入する一方、力なきものは撤退しているのが実情である。
今夜も例によって、誰からのLINEもないまま、夜は次第に更けていった。じっさいのところ、こんな深夜に利用者の通知が来ることは滅多にないことなのだ。
正直なところ、連絡なんかないに越したことはない。
どうか平穏無事に朝を迎えられますように――。
◆◆◆◆◆
――ピンポン。
いかん。
LINEの通知音で眼を醒ます。
PCモニターの光が瞼の裏に焼きついたままだ。
いつの間にか私は、椅子に背中をあずけ、のけ反る姿勢で眠ってしまったらしい。関節がはずれてしまったんじゃないかと思うほど頚椎が痛み、私は思わず顔をしかめた。
モニターを見る。
眼の焦点がなかなか合わない。40も間近に迫ると、これだ。昼夜逆転の仕事はきつくなってきた。今後も続けられるのかどうか……。
見慣れた名前が表示されている。
七種 弥勒。
またおまえか。
親からありがたい弥勒菩薩の名にいただきながら、名前負けしているのが悲しい。キラキラネームの社会人はめずらしくもなんともないが、これは完全敗北の例と言えるだろう。成人してから改名を希望する人の気持ちもわからないでもない。
七種は『bye』の常連の利用者だ。6人いるスタッフ誰もが知る25歳の、いささか気の弱い青年。もっとも、顔すら見たことがないのだが。




