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眩しい。
そう感じて目を開けると、木々の間から木漏れ日が射していた。身体を起こすと、目の前には緑が広がっていた。
ここは森だ。街と王国を囲む巨大な森。かつて魔術が存在した時代には妖精たちが住んでいたという、美しい森。
森の木の根っこにできたくぼみに身をゆだね、外套を上かけのように羽織って眠ったのは昨日のこと。生まれて初めてベッド以外の場所で眠ったが、生命が生きずく森の中は酷く落ち着いていて、ぐっすりと眠れた。
「おぉ、起きたか? お姫様」
声のした方向を向くと、盗賊の青年、ガイルが立っていた。
今までどこで何をしていたのかは分からないが、手にはほかほかのパンや果物が入った籠を持っている。街に買い出しに行っていたのだろう。
それを見て、メアリーのお腹はぎゅるる、と音を立てた。そう言えば、昨日の夜から何も食べていない。
「そういや、街は大騒ぎだったぞ。お姫様が行方不明になったってな。街のみんなが今度は魔王に攫われたんじゃないかって心配してる。本当にこのまま戻らなくてもいいのか?」
メアリーにパンを渡して、ガイルも地面に座り込む。城にいる父のことを思うと、すぐにでも無事な姿を見せた方がいいに決まっている。
しかし、それではメアリーが城を抜け出した意味がない。心苦しい気持ちでパンを口に含むと、ほんのり甘い柔らかな感触が少しだけ心を落ち着かせた。もうインクがなくなった羽ペンを地面に突き立て、土に直接文字を書く。
『早く魔王様を見つけて、元気な声を聞かせてあげれば大丈夫』
「そうか。なら、さっさと食べて情報収集に行かねぇとな」
メアリーにはどうやって情報収集すればいいのか分からなかったが、ガイルの自信満々な笑顔を見て、とても頼もしく思った。
太陽は、真上に上っている。視界がぼやけるのは、暑さのせいだろうか。もうすぐ冬は終わり、春が来る。城を出る時に着ていた冬仕様の外套は、もう暑くて着ていられなかった。足場が不安定な山道を長時間歩いたことなど、当然お姫様であるメアリーにはない。少し歩いただけで息はあがり、足の痛みは常に襲ってくる。肌を露出し、真夏のような恰好をしているガイルは、涼しい顔で前を歩いている。
「お姫様、もうすぐ村が見えてくるからな」
なんでもガイルの友人に魔界の民がいるらしく、今はその友人が住んでいる村まで歩いているところだ。
励ますガイルの声は、歩くことに必死なメアリーの耳には届いていなかった。ガイルはこれでもお姫様のために歩くスピードを遅くして、比較的楽な道を選んでいるつもりなのだが、箱入りのお姫様にはどれも苦しい道のりだった。
ようやく村とやらに着いた時には、メアリーは疲労困憊で立っていられなかった。小柄なメアリーの身体を抱えて、ガイルは小さな木の家が立ち並ぶ村に入る。村の端にあった大きな石に腰かけて、メアリーはガイルが持って来てくれた水を飲む。村には畑や家畜小屋がそこかしこにあり、どの家も一階建だった。
「お~い、ビルはいるか?」
ビル、というのが友人の名前なのだろう。
ガイルが村に向かって呼びかけると、一瞬村全体に緊張が走った。しかし、村からの応答はない。村自体がじっと息を潜めてこちらを伺っているようだ。
「皆人見知りなんだよな」
ぼそっと呟いたガイルは、ずかずかと一番手前の家に入り、しばらくして落胆した様子で戻って来た。
「お姫様はさ、人間界にいる魔界の民のことどう思う?」
『会ってみたいし、話してみたい。仲良くなれたらいい……』
ガイルはその言葉を見て、相好を崩した。まるで自分のことのように笑う彼は、装飾品なんかで飾り立てなくても十分に魅力的でかっこよかった。幾重にも重なった腕輪がシャランと音を奏でたかと思うと、ガイルも地面に文字を書いていた。
『ありがとう』
そう言ってメアリーに笑いかけるガイルを見て、何故か胸が高鳴った。頬は上気し、目は泳いでいる。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
メアリーを心配そうに見つめるガイルの顔をまともに見ることができない。
そうこうしていると、後ろから人影が近づいて来る。その影は、やけに小さい。
「お、ビル久しぶりだなぁ。一緒に騎士を脅かした時以来か?」
すぐにその小さな影の主、ビルに抱きつくガイル。といっても、ビルの身長がガイルの膝上ぐらいしかないため、抱き上げられている状態である。
「ちょ、下ろしてください! 高い所は苦手なんです」
にこにこと嬉しそうなガイルとは対称的に、ビルの顔は青ざめて今にも気絶してしまいそうだったので、メアリーは見かねてガイルの服を引っ張る。
メアリーの視線で気が付いたのか、ガイルは仕方なくといった様子でビルを下した。
「それで、どんな用ですか?」
まだ顔面蒼白なビルが弱々しく言った。
「あ、そうそう。魔王のことについて聞きたいんだ」
はぁ? という呆れ顔を浮かべたビルはやれやれと座り込んだ。というより、先程の恐怖で腰が抜けたのかもしれない。
メアリーは膝丈の小さなビルを見つめる。金色の短髪、無精ひげ、普通の三十代半ばの男性をそのまま小さく縮小したような、そんな人間である。
「そんなに見ないでくださいますか? 小人がそんなに珍しいですかね」
ぶっきらぼうにビルが言った。確かに、人をじろじろ見るのは良くなかった。メアリーはごめんなさい、と頭を下げる。
「まぁ、可愛いから許します」
なんて優しいんだろう、とメアリーが感激していると、ガイルがむすっと口をとがらせた。
「そういえば、魔王様についてのお話でしたよね? 魔王様はお優しくて賢いお方なんですが、いかんせん人間界のお姫様が絡むと嫉妬深いわ執念深いわで、困ったものでした。あげくお姫様に振り向いて欲しいがために声を奪ってしまうなんて馬鹿なことを……とにかく、小さい男なんですよ」
小人のビルに小さいと言われてしまう魔王の意外な一面を知り、メアリーは楽しい気持ちで聞いていた。しかし、ガイルが突然大きな声を出し、ビルの話を中断した。
「そういうことじゃなくて! 魔王の居場所とか魔界への入り口とかは知らねぇのか?」
あぁ、と心得たようにビルは魔界への入り口を教えてくれた。
それは、山を越えて小人の村に来るよりもはるかに苛酷な道のりだった。
村を少し過ぎた所に、深い谷がある。その谷底にある小さな洞窟が魔界への入り口だ。
ビルにその話を聞いた時、メアリーはもう魔王自身が会いに来てくれればよかったのに、と思った。何故、自分がこんな過酷な道を行かなければならないのだろう、と。しかし、病に伏せる父のことを思い、必死に足を動かした。谷底へ降りる道は、足一つ分しかなく、ガイルの腰布を命綱にして降りた。風が吹くたびに落ちそうになり、目には終始涙が溜まっていた。
ようやく谷底に降り立った時には、へなへなと座り込み、溢れる涙を抑えることができなかった。頭上では太陽と月が入れ替わり、地上は日の光に変わって夜の闇が支配しようとしていた。
「よくお姫様がこんな所まで来たな」
見上げたガイルの顔は、暗くてよく見えない。でも、雰囲気が少し、いや、かなり違う。
「あんたも馬鹿だろ。こんな人気のない所までのこのこついて来てさぁ。俺が本当に何もしないと思ってた? どうせ魔王に会っても声は返ってこねぇよ」
上から降ってくる言葉は、どれも薄っぺらくて、ガイルの本心であるとは思えなかった。メアリーは、どうして彼が急にそんなことを言い出したのか考えてみる。
「暇つぶしにお姫様の騎士ごっこでもしてみようと思ったけど、やっぱりつまんねぇな。このままあんたを人質にして国王脅したっていいんだぜ?」
一体、何に脅えているのだろう。
魔界への入り口はあと少し、という場所に来て怖くなったのだろうか。でも、ガイルは魔界の民である小人とも仲が良くて、面倒だろうにメアリーのことも優しく気遣ってくれて。自分の意思ではどうにもならない胸の高鳴り、心臓がきゅっと押しつぶされるような感覚、たくましい腕の安心感。城に閉じ籠っていれば知ることのなかった異性へのときめき。
(あぁ、そうだったのね……)
メアリーは暖かな気持ちになりながら、地面に落ちていた小石で言葉を紡ぐ。夜の闇の中で、ガイルが見えるかどうか分からないが、メアリーが意思を伝える方法はこれしかないのだ。
『あなたが魔王様だったのですね』
辺りが静寂に包まれる。ガイルは、この文字を読んだはずだ。暗くて顔は見えないが、息をのむのが聞こえたから。
「な、んで……そう思うんだ?」
ぴんと張りつめた空気の中、かすれた声が響いた。
ガイルこそが、魔王。そう思った理由は簡単だった。
『私が魔王様に恋をしたからですわ』
ガイルは、いや、魔王は信じられないと呟く。
思えば、初めて出会った六年前から、メアリーは彼に恋をしていたのかもしれない。
突然寝室にやってきて、歌声を聴かせてほしいと優しい眼差しで乞われた時から。その眼差しは、十二歳だったメアリーには刺激的で、その美貌はあまりに魅力的だった。この人のために声をあげたい、と思うほどに心を奪われていた。国中が悲しみ、父が病気になり、魔王が悪者だと決めつけられていくうちに忘れてしまったあの時の情熱。それを、ガイルに出会ってから思い出したのだ。
どうかこの気持ちが伝わって欲しい、と魔王を見つめれば、彼は観念したようにその姿を黒づくめの出で立ちへと変化させた。
「……本当にすまない。姫の声は、すぐに返そうと思っていた。しかし、暗い魔界の中であまりに眩しく優しい歌声に魅せられて、いつしか返したくなくなっていた」
そもそも、彼が魔王と呼ばれるようになったのは、大昔のこと。まだ、魔界と人間界という区別がなく、どんな種族の人間も共存していた時代である。魔術や妖精といった不思議な力に溢れ、皆が楽しく暮らしていた。
しかし、ある時人間は自分達とは違う容姿をした者達を蔑むようになった。
彼らを魔術で作った別の空間に閉じ込めてしまおうとしていた。魔術師であったガイルは当然反対した。すると、ガイルまでもがもう一つの世界魔界へと閉じ込められてしまったのだ。魔界に追いやられた人ならざる者たちを救うために、ガイルは様々な手を尽くしたが、二つの世界を繋ぐことはできなかったという。
いつしか魔界の民はガイルを魔王と呼ぶようになり、暗く何もない殺風景な魔界で生きることを決めた。
そして、何百年も経ったある日、天使のような歌声が魔界に響き渡った。
その歌声は魔力を持ち、魔界と人間界を区切っていた結界に綻びを作った。その綻びを使って人間界に再び出た魔王は、美しい歌声を持つメアリーを見て、一目で恋に落ちた。何百年も恋を休んでいた魔王は、久しぶりに灯った恋の炎に身を焦がし、高ぶったその思いから姫の声を奪ってしまった。
「姫のことを諦めたくなかった。だから、姫が俺に会うために城を出て、俺に気付いてくれたら声を返そうと決めていた……」
これまでの経緯を事細かに、正直に話した魔王は、死刑宣告をされる罪人のように緊張した面持ちでメアリーの反応を伺っている。盗賊の青年になっていた時とは全く違う魔王の態度に、メアリーは少し頬を緩めた。
メアリーが言いたいことはただ一つ。
『声を返してくださいな』
大昔の人間で、魔王で、強がりで、自分勝手で、どうしようもない男でもかまわない。メアリーに恋を教えてくれたのは、魔王なのだから。
自分の声できちんと伝えたい。魔王が好きなのだと。
メアリーは大胆にも彼の服を引っ張り、跪かせてキスをした。一瞬身体を強張らせた魔王だが、すぐにメアリーの口内に熱い塊を押し込んだ。激しい熱におかされたみたいに、頭では何も考えられない。そのうちに、徐々にその熱はのど元に届き、不思議な、でも懐かしい感覚をメアリーに覚えさせた。
「……っあ」
喉を震わせ発した声は、紛れもないメアリーの声。
声の返還方法がキスだったとは、魔王のメアリーへの情熱に驚くばかりである。
「本当にすまなかった。こんなに小さな男だと知ったら恋も冷めただろう?」
あんなに濃厚な口づけをしておきながら、魔王は不安そうに問う。
「いいえ。私はそんな魔王様が好きですわ」
頬を林檎のように赤らめて言う姫が可愛すぎて、魔王は理性を押さえるのに必死だったのだが、メアリーが気付くはずもない。
「そう言えば、俺はかなり年上なんだが……」
「大丈夫ですわ。でも、とてもお若く見えるのはどうしてかしら?」
見た目だけで言えば、魔王は二十歳そこそこだ。
「魔界は、人間界とは時間の流れが違うのだよ」
少し悪戯っぽい笑顔を向け、魔王はメアリーの頬に口づけを落とした。
「一曲、歌ってくれないか?」
「喜んで」
メアリーは六年ぶりに出す声だとは思えないほどの声量で、愛の歌を美しく歌いあげた。
***
ある王国に、天使のような歌声を持つとても優しいお姫様がおりました。
不思議な魔力を持つお姫様の歌声は魔界の民をも虜にし、魔界の王の心まで鷲掴みにしてしまいました。お姫様は魔王に声を奪われますが、恋する乙女の力で魔王を骨抜きにし、声を取り戻します。
そして、恋を知ったお姫様の歌声は、それまで人間界と魔界を隔てていた結界の存在さえも忘れさせ、人間と魔界の民が歌と音楽で繋がり、幸せに暮らせる国へと変えていきました。
魔王はと言いますと、キスをするたびにお姫様の声を奪ってしまうということが発覚し、ほとんど蛇の生殺し状態でお姫様の唇に触れることができなかったとか。お姫様の歌声ですっかり元気を取り戻した国王に毎日いびられているとか。
そんな残念な魔王でも愛しているお姫様は、毎日彼のために歌を歌います。
こうして、心優しいお姫様は残念でも愛情深い魔王と幸せに暮らしました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
絵本みたいなお話が書きたくて書いたお話です。
お姫様と魔王って王道でしたね……でも王道がけっこう好きなんですよね、私。
そして、この作品はコバルト文庫短編新人賞に公募した作品です。
残念ながら何の足跡も残せませんでしたが、これから頑張っていきたいと思っております。
ありがとうございました!