第十九章 朝の汁物が、夜まで温かい箱
デボラが来て、店の売上は一か月で四割上がった。
彼女がやったことは、地味なことばかりだった。棚の配置を変えた。全部の商品に値札をつけた。入口に完成品を並べ、工具は奥に移した。窓を拭いた。
それだけで、店に入ってくる人の数が変わった。
「なんで誰も気づかんかったんや」
ハロルドが唸った。
「あなたたち、作ることと売り込むことしか考えてないからよ」
デボラは、値札を書きながら答えた。
「店に立ってる人が誰もいなかったでしょう。客はね、誰もいない店には入らないの」
「うちは工房やで」
「工房でも、扉が開いてれば店よ」
彼女は、書いた値札を棚に差した。
「それと、この保温箱。名前が悪いわ」
「保温箱が保温箱で何が悪いん」
「何に使うかわからないもの」
デボラは、新しい札を書いた。
――『朝の汁物が、夜まで温かい箱』
「……長いやろ」
「読むわよ、みんな。特に女は」
その週、保温箱は十二個売れた。前の月は二個だった。
◇
セレナとデボラは、すぐには打ち解けなかった。
仕事の話はする。必要なことは伝え合う。だが、それ以上の会話はなかった。二人とも、避けているわけではない。ただ、何を話せばいいのかわからなかった。
最初にその壁が崩れたのは、雨の日の夕方だった。
客足が途絶えて、工房に二人だけになった。職人は帰り、ハロルドは仕入れに出ている。デボラが帳簿をつけ、セレナが図面を引いていた。
「ねえ」
デボラが、顔も上げずに言った。
「なんでしょう」
「あなた、私のこと嫌いでしょう」
セレナは、ペンを止めた。
「……嫌いでは、ありません」
「嘘つかなくていいわよ」
「嘘ではありません」
セレナは、少し考えてから続けた。
「好きでもありません。よくわからない、というのが正確です」
デボラが、顔を上げた。
「わからない?」
「はい。あなたのことを、ほとんど知らないので」
「二年、同じ屋敷にいたのよ」
「同じ屋敷にいましたが、話したのは一度きりです」
デボラは、ペンを置いた。
「……そうだったかしら」
「はい。わたくしが屋敷を出る少し前に、廊下で」
セレナは、正確に覚えていた。
「ですので、わたくしが知っているあなたは、廊下ですれ違うときに棘のある言い方をする人、というだけです」
「棘のある言い方」
「はい」
デボラは、しばらく黙っていた。それから、ふっと笑った。
「そうね。していたわ」
彼女は椅子の背にもたれた。
「あなたが憎かったのよ。正式な奥様で、何もしなくても地位があって。私はどれだけ尽くしても愛人のままだから」
「……」
「今考えると、馬鹿みたいだけど」
「馬鹿だとは思いません」
セレナは、図面に目を戻しながら言った。
「わたくしも、あなたが羨ましかったので」
「……は?」
「あの人と楽しそうに笑っていたので」
デボラが、まじまじとセレナを見た。それから、大きな声で笑い出した。
「やだ、なにそれ」
「おかしいですか」
「おかしいわよ。私、あの人といて楽しかったことなんてないもの」
彼女は、目尻を拭った。
「機嫌をとってただけよ。嫌われたら追い出されるから。ずっと必死だったわ」
セレナは、ペンを置いた。
「わたくしは、機嫌をとらなくてもよかったので、そこは楽でした」
「関心持たれてないってこと?」
「はい」
「それはそれで、地獄ね」
「はい。地獄でした」
二人は、しばらく黙っていた。それから、どちらからともなく笑い出した。
◇
それ以来、二人はよく話すようになった。
仲良し、という言葉は当てはまらない。デボラは相変わらず遠慮がないし、セレナも言うべきことは言う。言い合いも増えた。
「この新しい照明、もっと高く売れるわよ」
「金貨一枚が上限です」
「二枚出す人がいるって言ってるの」
「その人には売りません」
「なんで!」
「二枚出せる人は、他の店でも買えます。一枚しか出せない人は、うちでしか買えません」
「……理屈は正しいけど、腹が立つわね」
「はい。ハロルドさんにもよく言われます」
デボラは、あきれた顔をした。
「あなたたち、似た者夫婦ね」
「そうでしょうか」
「頑固なところがそっくりよ」
セレナは、少し嬉しそうな顔をした。デボラは、それを見て「あー、はいはい」と言った。
◇
デボラは変わらなかった。
金が好きで、綺麗なものが好きで、上昇志向が強い。初めての給金で、彼女は真っ先に絹の手袋を買った。
「一年ぶりよ、こういうもの買うの」
「よくお似合いです」
「でしょう」
彼女は満足そうに手袋を眺めた。
「ねえセレナさん。私、気づいたことがあるの」
「なんでしょう」
「自分で稼いだ金で買うほうが、貰った宝石より気分がいいわ」
セレナは、うなずいた。
「はい。わたくしも、そう思いました」
「あなたもそうなの」
「はい。最初に着火具が売れたときのごはんが、いちばん美味しかったです」
デボラは、しばらく手袋を見ていた。
「……私、ずっと勘違いしてたのよ」
「何をですか」
「金のある男を捕まえるのが、いちばん確実だと思ってた」
彼女は、手袋を畳んだ。
「でも、あれって全然確実じゃないのね。相手の機嫌ひとつで全部消えるんだもの」
「はい」
「自分で稼ぐほうが、面倒だけど確実だわ」
デボラは、帳簿を開いた。
「今月、もっと売るわよ。歩合が入るもの」
「ほどほどになさってください」
「無理よ。楽しいんだから」
◇
その年の暮れ、工房は名前を持った。
それまでは「鍛冶通りの魔道具屋」としか呼ばれていなかった。だが取引が増え、書類が増え、名前が必要になったのだ。
「なんにする」
ハロルドが聞いた。三人で作業台を囲んでいた。
「セレナ工房でいいんじゃない?」
デボラが言った。
「嫌です」
「なんで。あなたが作ってるんだから当然でしょう」
「わたくしひとりで作っているわけではありません」
セレナは、工房を見回した。作業台が六つ。職人が十六人。帳簿と、注文票と、値札。
「三人でやっています」
「じゃあ三人の名前を並べる? 長いわよ」
「それも嫌です」
ハロルドが、腕を組んだ。
「……『燈火商会』はどうや」
二人が、彼を見た。
「なんや。あかんか」
「なぜ、その名前を」
「街灯や」
ハロルドは、窓の外を指した。
「一年前、この通り、三本に一本しか点いてへんかった。今は全部点いとる」
夜の通りに、灯りが並んでいた。
「うちが全部やったとは言わん。せやけど、ちょっとは関係あるやろ」
セレナは、その灯りをしばらく見ていた。
「いいと思います」
「私も。悪くないわね」
デボラが、書類に名前を書き込んだ。
――燈火商会。
工房の看板が上がったのは、その三日後だった。




