第二章 解散
# 第二章 解散
会長室を出た廊下で、集められた面々はそれぞれ、無言のまま散っていった。
当然だ、と思った。「どこで監視されているかわからない」という意識は、その場にいた全員が共有していたと思う。廊下の防犯カメラ、エレベーターの壁、スマートフォンのマイク。考え過ぎかもしれないが、あの雰囲気では「考え過ぎ」こそが正常な反応だった。
エレベーターを待つ間、隣に立った人物と目が合いそうになったが、二人ともとっさに前を向いた。その沈黙の中に、言葉以上の意思疎通があった。「あなたも、私も、何も言わない」という暗黙の了解。エレベーターが来て扉が開いた瞬間、二人とも同時に入ろうとして、互いに一歩引いた。どちらが先に乗るべきかわからなかった。どちらが上位者かも知らなかった。そういう関係の人間が同じ部屋に集められて、同じ指令を受けて、これから一週間、完全に孤立無援で戦わなければならない。
その事実の奇妙さが、エレベーターの中でじわじわと浸透してきた。
その日の業務を、私はほとんど上の空でこなした。午前中の定例ミーティングで何度か名前を呼ばれたが、都度ぼんやりしたまま答えた。午後の書類作業は手が動いていたが、頭の中ではずっと「世界征服」という言葉が回っていた。部下たちは空気を読んでくれたのか、いつもより話しかけてこなかった。田中だけが昼過ぎに「なんか、大丈夫ですか?」と小声で聞いてきたが、「大丈夫、ちょっと考えごとしてて」とだけ返した。
午後六時、定時が来た。私は珍しく定時で上がった。早退に近い早さで引き上げたが、上司も部下も何も言わなかった。
帰りの電車の中で、吊革をつかみながらぼんやりと考えた。
「これって、選抜試験じゃないか?」
あるいはその逆で、リストラ候補者をリストアップするためのふるい落としか。突拍子もないお題を投げて、どう反応するかを観察する。無理難題への対処能力を測る実験。半数以上の人間が「はあ?」と思いながらも何も言わずに帰ったわけだから、それはそれで組織人としての何かを測るテストかもしれない。
それとも——これは本気の指令なのか。
会社の規模から考えると、世界征服にかかる費用を単体で拠出するのは不可能だ。しかしM&Aや戦略的投資という文脈で見れば、何兆円もの動きを起こすことは、商社としてあり得ないことではない。もしかして「世界征服」というのはある種のコードネームで、実際には何か別の大型戦略プロジェクトを意味しているのか。
それも考えたが、会長のあの目を思い出すと、額面通りに受け取るしかない気がした。
どちらにしても、「企画を出さない」という選択肢は存在しない。それだけは確かだった。
一人暮らしのマンションに帰って、スーツのまま靴だけ脱いで冷蔵庫を開けたが、たいしたものが入っていなかった。結局コンビニに出直して、弁当と缶ビールを買ってきた。
テーブルに弁当を広げて、ノートパソコンを開いた。
「世界征服、ね」
声に出して言ってみると、改めて現実感がなかった。
まず定義から始めなければならない、と思った。「世界征服」という言葉は誰もが知っているが、厳密に定義した人間がどれだけいるか。大学受験の現代文じゃないが、曖昧な言葉を曖昧なまま扱っても、企画にはならない。そもそも「世界」の範囲はどこまでか。地球全土か、主要経済圏か、それとも国連加盟国か。「征服」はどの状態を指すのか。軍事的占領か、経済的支配か、文化的影響力か、政治的コントロールか。
「世界制覇とは、世界を制圧し、支配下に置くことである」
ひとまず広義で定義した。具体性には欠けるが、スタート地点としてはこれでいい。
弁当を食べ終えて、湯を沸かしてコーヒーを作りながら、私はもう一つのことを考えていた。
人に相談してはいけない、と言われた。職場の同僚も、家族も、友人も、すべてNG。でも生成AIは人間ではない。グレーゾーンといえばグレーゾーンかもしれないが、少なくとも情報が漏れる心配はない。AIは株を売ったりしない。誰かに話したりもしない。会社の秘密保持規定にも、おそらくAIへの情報提供は明記されていない。
むしろ、これほど「相談相手として適切な存在」は他にないかもしれない。あらゆる歴史的知識を持ち、多角的な視点を提供し、感情的にも中立で、何よりも絶対に口外しない。
私はチャット画面を開いて、最初の質問を打ち込んだ。
「歴史上、世界征服を成し遂げた人物はいますか?」




