03
「おはよう、澄空さん」
「おはよう、南雲くん」
あの日の昼食以来、教室で挨拶をするようなった。何気ないことだが、三日も続くと人目を惹き始める。これまで接点のない二人に何かあったのではないかと勘繰る人もおり、蔵人の友人、高木羊太もその一人だった。
「なあ、お前、澄空さんと、いつの間に仲良くなったんだよ」
何気ない風を装って聞いてきたが、どこか落ち着かない感じも出していた。
「仲良くって……普通に話すようになっただけだよ」
「いやいや、何かあったんだろ? でないとおかしいって」
納得できるまで粘着してくる姿勢に蔵人は、うんざりしてきた。もしかして高木は、彼女のことを狙っているのだろうか。
「しかしなぁ……彼女は、ねえ……」
話していくうちに、高木の口調が重くなっていく。好奇というより怪訝な雰囲気で澄空のことを値踏みするような感じだった。
結局、チャイムが鳴って次の授業が始まり、話は中途で終わってしまったが、何か含みのある雰囲気が、蔵人の思考に少なからず靄を掛けた。
四時限目は体育で、これが終われば昼休みとなるが、男子群は憂鬱だった。
「男子は長距離走なの?」
「そうなんだよ。こんな暑い日に、ただ外周を走り回るだけ……女子は?」
「短距離走よ。足を使うだけという点では同じね」
「ただの手抜きとしか思えないよ。こういう時こそ、雨が降ってくれれば、少しは涼しくなるのに」
澄空と蔵人が授業前に軽口を叩く。昨日の夜に、集中して雨が降っていたが、現在は雲ひとつなく、風もない天気である。
「なるほどね……」
澄空が手に顎を置き、何かを考える素振りを見せたが、すぐに解除して、そのまま体操着の着替えに向かう。蔵人も早く集合場所に行かないとと思い、急いで準備を始めた。
やがて校庭に降り立った澄空は、皆と少し離れた昇降口付近で、ある行動を取った。両腕を挙げ、右手で左手首、左手で右手首を掴んで、頭上で輪を作る。そして眼を閉じ、瞬時に集中して呼びかけた。
『狐の嫁入り』
校舎の外を十周。スタンプカードを渡され、全部押された者から休んで終わって良い。あまりに単純なことだけに、皆は尚更不満を募らせていた。
体育はC組とD組、二つのクラスで合同に行われるが、サッカーやバレーボールなどの人数を必要とする授業ならともかく、ただ走るだけの行為など、渋滞にしかならないと蔵人は考えている。
走っている途中で、校庭を使用している女子組を柵から見ると、百メートル走をしている。一度、走り切ってしまえば終わりだが、やはり単純作業でしかない。本当に手抜きでしかないのではと思い、長距離走開始から十分程が経った頃、変化が起こった。
突然、雨が降ってきたのである。
だが空には雲ひとつなく、遠方でも雲なき雨が降っていたので、この周辺一帯が同じような状況になっているようだった。
原因はわからないが、程良い強さの雨のおかげで、暑さが和らぐ。女子組は突然の雨に、授業を一時中断していたが、この程度なら問題なしと判断して、すぐに再開している。
この雨は十分程で止んだが、その後の空気感は清涼に満たされ、蔵人もわずかだが爽快な気分で走り終えることができた。
昼休みになり、今日は学食に行く。二年生が職業体験の社会科見学に行っているため、いつも混雑している学食は空いていた。一年生も来週、社会科見学を行う予定である。
「あ、澄空さんも学食?」
「ええ、今日は利用できそうだったから」
券売機の前で出会った蔵人と澄空は、そのまま列に並んで食券を買う。蔵人はカツ丼、澄空は親子丼。そのままの流れで一緒のテーブルで食べ始める。
「そういえば、さっきの授業で急に雨が降ってきたんだよ。でも空には雨雲もなくて、青空から降ってきたんだ。不思議だよね」
「狐の嫁入りよ」
「えっ?」
「雲ひとつない青空から降ってくる雨のことよ。まるで狐に化かされているかのような現象だから、そう呼ぶの」
澄空が鶏肉を小さな口で食べながら、説明する。蔵人は初めて聞く事柄に、カツを頬張る手を止めて聞く。
「これには、いくつか原因があるの。ひとつは、雨が降るうちに雲がなくなる場合。雨って地上に落ちてくるまでに数十分かかるのよね。その間に雨雲が消えたり移動したりして消失すると、晴れているのに雨が降っているように感じるのよ」
説明を続けながら、澄空は水を口に含んで一息吐く。蔵人もそれに倣って、水を飲んだ。
「もうひとつは、小さな雲が空に浮かんでいて、そこから雨が降ってきた場合。一見晴れているように見えて、空には目に見えないほど小さな雲があるの。そこから雨が降ってきて、結果、何もないところから降ってくるように見えるのよ。あとは、遠くの雨雲から降ってきた雨が、強風で流されてきたっていうパターンね。こんなところかしら」
理路整然と説明される内容に、蔵人だけでなく周囲の生徒も、いつのまにか聞き耳を立てて注目していた。
「な、なるほど……でもその、狐のおかげで、体育はスッキリとできたし、ありがたかったよな」
「……そう」
蔵人の感想を受けて、澄空は一瞬、なぜか嬉しそうな表情をする。その姿に、蔵人は一瞬、身体が熱くなるのを感じた。
もう少し、いろいろと話してみたかったが、喋りすぎて時間がなくなってきたので、二人とも急いでカツ丼と親子丼を平らげることに専念したのだった。
来週の社会科見学の行き先は選択制である。裁判所、テレビ局、食品工場などがあり、ホームルームで各所の詳細を説明された後、希望をプリントで提出。蔵人はテレビ局を選んだ。面白そうなことと、澄空が天気予報の舞台を見たいという話を聞いたのが要因だった。
放課後になり、そろそろ帰ろうと思って昇降口に差しかかると、
「南雲くん、ちょっといい?」
と、クラス委員長の穂積蘭に呼び止められる。女子にしては長身で、切れ長の目が知的な印象を与える。
「あなた最近、澄空さんと仲が良いわよね」
その声音は、ただの好奇ではない、どこか責める響きがあり、蔵人は身構える。場所を移した方が良いと判断し、昇降口を出た先のグラウンド側のフェンスに誘導した。
「確かに澄空さんとは話しているよ。クラスメイトだし仲良くしているけど、それがどうかしたの?」
牽制の意味で、蔵人は問いを向ける。穂積とは委員長ということもあって、少なからず会話のやり取りもする。だが個人的な親密度など皆無である。それこそ四日前の澄空同様に。そんな彼女から、冗談では済まされない話を聞かされる。
「あの子、週末にいつもビジネス街へ出向いていて、そこでアルバイトをしているらしいの。それも……かなり、いかがわしいものだっていう噂よ」
青天の霹靂。驚愕な内容に目を見開き、一瞬信じそうになってしまったが、踏みとどまった。そもそも、なぜ穂積がそんなことを知っているのかという疑問を持つに至り、慎重に聞いてみることにする。
「そのアルバイトっていうのは、具体的にどういうものなの?」
「……言わなくても、わかるでしょ? それ、セクハラよ」
蔵人の内心に小さな怒りが灯った。自分では明確に表現せず、絶対に責任を負わない立場から相手に責任を負わせようとする姿勢。まともに対応する相手ではないと認識する。
「何か根拠があって、そう言っているの? 何も証明するものがないのに、そう言いふらしているのだとしたら――」
「先週の土曜日に、別の高校に通っている友達が、澄空さんを鎧塚で見たの。しかも、年配のおじさんと親密にしているところを見たって聞いたわ」
蔵人の疑問に、穂積は即返答する。単なる風聞ではないと言わんばかりに。
鎧塚は都心部のビジネス街の地名で、この上座高校からも地下鉄一本で行ける。
「普通、学生がいるような街じゃないからね。そんな場所に、うちの制服の子がいたものだから、友達も顔を覚えていたの。そして澄空さんの写真を見せたら、この人に似ているって言ったから間違いないわ」
個人情報を暴露したり、似ているというだけなのに断定口調だったり、ましてその友達もなぜ鎧塚にいたのかと指摘したいことは山ほどあるが、このままでは真相が混迷しそうだったので、蔵人は要点のみを求めた。
「一つだけ聞かせて。穂積さんは、それを俺に聞かせて、何をさせたいの?」
「……別に。ただ、友達付き合いは選んだ方が良いってことよ。あなただって厄介事は御免でしょ?」
忠告はしたからね、と最後に言い残して穂積は去っていった。
もしかしてクラスの中では周知の事実であり、高木がよそよそしかったのも、それが原因なのだとしたら合点がいく。
その結果、澄空が独りになっているのかと思うと、蔵人は胸糞悪くなってくる。まさに誹謗中傷ではないか。
とはいえ、蔵人には特段、打つ手はない。澄空に直接聞くわけにもいかない、中傷を信じる側に立ってしまうからだ。すぐにできることがあるとしたら、ひとつしかない。
明日は土曜日である。




