誘惑のエッセンス (ナイール)
黒猫ももか様に捧ぐ……。
リクエストのナイール×早夜です。
それはイーシェから聞かされた事だった。
彼女はナイールからの要請で彼の執務室に来ているのだが、何故かいつもより機嫌が良さそうに見えた為、理由を聞いたのだ。
するともうすぐバレンタインという行事があるのだと教えられた。
「ナイール王子も、三倍返ししてくれるんだったら、イーシェの菓子を与えてやらなくもないミョ」
「いや、遠慮しておくよ」
「何ミョ、しけてるミョ」
ナイールは苦笑する。
このイーシェという異界人は己の立場というものを分かっているのかいないのか、一国の王子である彼に対して度々この様な失礼極まりない言い方をする。
ナイールでなければ即その場で切り捨てられても可笑しくない言動である。
一度強く注意すべきだろうが、彼女の強かでずる賢い所を知っているので、恐らくそういうのは要領よくやっているのだろうと、彼は判断し何も言わない。
それにしても面白い事を聞いた。
ナイールはとある少女の事を思い浮かべながら一人笑みを浮かべる。
「何笑ってるミョ? 思い出し笑いかミョ? それ止めた方がいいミョ。むっつりスケベだと思われるミョ」
やはり一度注意すべきかもしれないとナイールは思った。
その時早夜は、ナイールの目を盗んでせっせとお菓子作りに勤しんでいた。
蒼から話を聞かされ、自分も作りたいと思った為だ。
蒼が日本から持ってきたお菓子の中にチョコはあったのだが、かなりの量があった筈のそれはイーシェやカムイによって殆ど食されてしまった。皆で仲良く食べていたのは最初だけである。
そして今回、チョコのお菓子を作ろうにも原材料のカカオ豆がない。いや、探せばあるかも知れないが、あったとしてもそれをチョコレートに加工する知識も技術も早夜達は持ち合わせていないのだ。
ならばこの世界にある物を使って作れる物を作るしかないだろう。
という訳で、材料はカンナに頼んで用意してもらった。
早夜はドキドキと胸を踊らせる。
幼い頃から夢で見、憧れてもいたリュウキ。生き別れの兄だと知り、会えた時は本当に嬉しかった。
そのリュウキに今年はバレンタインの行事を行える。
昔から、周りで家族にチョコをあげたという話が羨ましくて仕方がなかった早夜は、その事が嬉しくてたまらなかったのだ。
「早夜様、ナイール王子がこちらに向かっているようです」
「え!? 大変! お菓子途中だ」
「状態維持の呪を掛けて置きましょう。さぁ、早く」
カンナに促され、早夜はその場を離れた。
そして……。
「サヤ、私に菓子を作ってくれないかな」
「え……」
ナイールの部屋に戻った早夜に待っていた事。そんな彼のお願いだった。
ポカンとした顔の早夜を苦笑混じりで眺めながら、ナイールは理由を述べる。
「サヤはイーシェを覚えているよね」
「え? はい」
実は結構な頻度で会っているなんて言えない。適当に相槌を打っておいた。
「そのイーシェが言っていたんだけどね、何でもバレンタインという行事があるらしくてね」
「っ!」
思わず声を発してしまいそうになったが何とか持ち堪えた。
今まさに自分の心を占める事柄だった為に本当に驚いた。それに、ナイールの口から自分の居た世界の言葉が飛び出したので二重の驚きだ。
「何でも女性が異性に菓子を与える行事だそうなんだ。面白そうだし、サヤ、私に菓子をくれないか?」
「え……」
「もしかして作れないのかい? だったら誰かつけようか。材料はこちらで用意するよ」
「いやっ、あの、そのっ」
色々急展開でついていけない早夜。そもそもナイールは肝心な事を言ってはいない。
本当は“女性が好意を寄せる異性”の筈。肝心の“好意”の部分が抜けている。
イーシェが教え忘れたのか、それとも敢えてその部分を伏せて言っているのか。今の彼を見る限り、真相は分からない。
早夜は取り敢えず、頷いて置いた。変に渋ったら怪しまれるだろう。彼にしたら、早夜は暇を持て余している筈と思っているのだから。
だから菓子を作る事自体は構わない。ただ、今作っている途中の菓子がちゃんと完成するか心配になった。
そしてバレンタインの当日。
早夜は無事に菓子を作り上げた。リュウキ達に作った物はカンナにも手伝って貰った。その際、彼女の分も作ったので渡したら、涙を流してひざまずかれてしまった。
「この命有る限り、貴女様のお傍でこの身を捧げる事を誓います」
等と言われたが、カップケーキ一つで身を捧げられても重たいだけである。
早夜は曖昧に笑って「ありがとう」と言って置いた。
その後、蒼の元に赴き、彼女へ友チョコならぬ友菓子を渡して、残りの物も渡してくれるよう託したのだった。
一方ナイールに渡す菓子の方はというと、流石一国の王子と言った所か、用意された材料は素晴らしく値の張りそうな物だった。量も種類も申し分無い。
カンナからそれ等を拝借したらどうかと提案されたのだが、早夜はそれらを蒼達に渡す菓子に使おうとはしなかった。近くに人が居たという事もあったが、出来るだけ蒼達と同じ条件で作りたいという思いがあった為である。
用意されていた調味料の中に気になる物を見つけた。
小さな小瓶に入った液体で、蓋を開けて匂いを嗅いでみた所、チョコに似た香りがしたのだ。
そばに着いてくれていた者に聞いてみると、それは香り付けに使われる物だと言っていた。バニラエッセンスのように使うらしい。
折角だから使おうと数滴垂らしたのだが、何だか着いてくれていた者がにっこり笑って「大変よろしゅう御座います」と言っていたのが、早夜にはちょっぴり気になった。
菓子は何種類か作った。早夜の知っている物。そしてナイールが好きだという物を教わりながら。
初めて作った物だったが、味見をしたらとても美味しかったので、後で蒼達に作ってあげたいなと早夜は思った。
ナイールは目の前には、早夜の作った菓子が並んでいる。
その一つを取って香りを嗅いで、ナイールはにんまりと笑った。それを口に運ぶ。
口の中に広がるほんのりとした甘さ。彼は甘すぎる物はあまり好まないが、これは調度良い甘さだった。
ナイールは、今この間にも自分の隣で不安気に此方を見ている早夜に、安心させんが為に微笑み掛けた。
「君の作ったこれ、とても美味しいよ」
「本当ですか? 良かった……」
ホッと胸を撫で下ろす早夜。
ナイールは不意にその手を取った。
困惑する早夜を余所に、彼は身を屈め指先に顔を寄せる。
彼の伏せられた睫が、その頬に影をおとした。そして、彼の癖のある焦げ茶色の髪が、早夜の真白い手の甲に触れる。
一種精密な芸術品にも見える彼の美しさに、早夜は一瞬見惚れる。
そのまま顔を近づかせてくる彼に、口付けをされると思った早夜はハッとして手を引っ込めようかと思ったが、実際には彼の形の良い鼻先しか触れはしなかった。
「甘い匂いがする……」
「あ、それはお菓子の匂いが移ったんだと……」
匂いを嗅いだのだと気づいた早夜の肌がほんのりと色づく。
その行為と己のした勘違いとが恥ずかしいのだろう。
「それもあるけれど、君はアレを使ったのだろう?」
「アレ?」
「小瓶に入ったエッセンスオイル……」
「ああ!」
小瓶と言われて合点がいった早夜。素直に頷くと、何故かナイールの笑みが深まった。
あれが何だというのだろうと、不思議そうにする早夜に、彼は驚くべき事を告げた。
「あのエッセンスオイルは、女性が男性を誘惑する為にもちいるものだよ」
「えっ!?」
まさに寝耳に水。もちろん早夜にはそんなつもりはなかった。
いつも菓子を作る際にバニラエッセンスを使用している事と、香りがカカオに似ていたからと言う理由だ。
しかし、無意識にそれを手に取ったのは早夜だし、使おうと決めたのも早夜だ。誰に言われた訳でもない。
当然の事ながら、それを指摘してくるナイール。
「無意識に使ったのなら、君は私を誘惑したいという願望があるという事だ」
「なっ!? そんなのないです!」
必死に否定するも、真っ赤な顔ではあまり説得力がない。
そもそも、今早夜が真っ赤になっている原因は、先ほどのとは別に、ナイール自身の色気にある。
早夜よりも年下であるが、見た目も仕草もとてもそうは見えない彼。普段はその澄んだ泉のような涼やかな瞳が、その色気を押さえているのかもしれない。
だが今はその色気を全面に出して早夜に迫っているのだ。
流石に身の危険を感じ、慌てて残りの菓子に手をのばし、それをナイールの口に押し当てた。
「ちゃ、ちゃんと全部食べて下さい」
「………」
ナイールは不機嫌そうにその菓子を租借する。その際、彼は自分の手を使わなかった。
つまり、食べさせて貰っている訳で……。
暫し無言が続く。
その間、早夜とナイールは見つめ合っていた。
一見すれば恋人同士の甘い沈黙ととられるが、その実体は無言の攻防である。
ナイールが一つ食べ終われば、もう片方の手にスタンバっていた別の菓子を押しつける。そして開いた手は次の菓子に。
そうする度に、ナイールは苛立たし気に目を眇めた。それに負けじと、早夜も睨み返す。
ナイールは内心舌打ちした。量は別に大した事はない。可愛らしいカップケーキ程の大きさの物が五個。
しかし、いくら甘さ控えめといっても、三個目を食べ終えた時点で少々気分が悪くなってきた。
そして早夜も、内心焦りを覚えていた。
何故もっといっぱい作らなかったのだろうと。
もう後二個である。
そして……。
「うっ、ぜ、全部食べたよ」
「くっ……」
少し顔色は悪いながらも、勝ち誇った顔のナイール。
そんな彼を悔しそうに見返す早夜。
どうやら勝負はナイールの勝ちのようである。
そして勝利に酔いしれるままに、ナイールは一気に距離を縮めた。
トサリと早夜を押し倒すと、漆黒の絹糸がシーツに散らばり、美しい流れを見せている。
不安気に揺れる瞳も、闇に煌めく星を眺めているようだ。
「全部食べた私に、何かご褒美はないのかな?」
「そ、そもそもお菓子を作るように言ったのはナイール王子じゃないですか!」
だからご褒美も何もないとは早夜の言。
「でも、私を誘惑したのは君だよ」
あのエッセンスオイルを選んで使ったのは早夜自身だとはナイールの言。
彼は早夜の手をとって、今度こそその細く白い指先に口付けた。
先程まで菓子を持っていた為にそれが強く香る。誘われるままに舌を這わせば、菓子の味がした。
「っ、」
「まるで君自身が菓子で出来ているみたいだ。食べてもいいかい?」
ナイールの醸し出す色気が増した。
恋愛経験値の殆ど無い早夜では、彼のその色気には抵抗など出来ない。
ナイールが妖艶な笑みを浮かべ白く柔い指を甘がみすれば、少女の華奢で小さい躰は僅かに震え力を無くした。
それを肯定ととった彼は、笑みを深くして彼女の首筋に顔を埋める。
胸を満たすこの香りはエッセンスでも菓子の香りでもない。
それは更に甘い“ ”の香りか……。
「ナイール王子、大丈夫ですか?」
「ッ!?」
目の前には眉を下げた早夜の顔。
「目を覚ましたかミョ」
「あ……イーシェ?」
声のした方を見れば、手を組んで仁王立ちしたイーシェの姿があった。
一体どうしてと再び早夜を見上げて、頭の下が温かく柔らかい事に気付く。どうやら膝枕をされているようだ。
「………」
「あ、起きあがって大丈夫ですか?」
「いきなりナイール王子が気絶したとサヤに泣きつかれたんだミョ。三倍返し計画の途中だったのに迷惑極まり無いミョ」
「は? 気絶?」
漸く自分の状況を理解したナイール。
では、あれは全て夢だったのかと、頭を押さえる。
気絶した己の不甲斐無さと、あんな夢を見てしまったという恥ずかしさと情けなさに苛まれる。
「それにしても、気絶までしてしまうほど酷い物を食べた記憶がないのだけれど……」
「えっ!」
「え?」
早夜が信じられないという顔をしている。
ナイールの記憶では、最初からあった五個を完食した所までは確かに意識ははっきりしていた筈である。
すると、早夜が「実は……」と話始めた。
その話によると、ナイールは彼の記憶通りちゃんと全部完食したらしい。
勝ち誇った笑みでにじり寄られ、どうしようかと思った矢先に手に何かを握らされたそうだ。
それをとっさに彼の口へと押しつけた。
反射的に口に入れてしまった彼はそのまま気を失う事になった。
と言う事らしい。
一体全体己は何を食べたというのか。
確かなのは、それは記憶を失う程の食べ物だと言う事。
全く覚えていないナイールは唸った。
そして早夜は唸る彼にその残骸を見せる。
潰れぼろぼろになったそれは、全体的に灰色がかった茶色の物体。
焦げなのか何なのか、所々に黒いプツプツした物が混じっている。
一体これは何だ!?
ナイールは衝撃で一瞬体がよろけた。
その時である。
ふと視界の端に映ったイーシェのよう様子が可笑しかった。
「……イーシェ?」
「ギクッ、なななな何だミョ!?」
「何をそんなに慌てているんだい? この物体について何か心当たりでも?」
「こっ、ここここ心当たりなんか無いミョッ!? ち、ちょっと練習に作ったミ、ミンダモンダ抜きの、イーシェの菓子が何で此処に!? とか思ってないミョ!?」
「そうか……これはイーシェが……」
「ハッ! しまったミョ!!」
「でも、私にこれを握らせたのは一体……」
この食べ物を冒涜するような菓子と呼べない物体の出所は分かったが、それをこの場に持ち出したものの正体が分からず首を傾げる早夜。
彼女がふと視線を感じ、後ろを振り返ってその謎が解けた。
カンナが空間の裂け目から顔を出し、此方を窺っていた。そして早夜と目が合うと、素晴らしい笑顔でサムズアップをして見せた。
早夜は何も見なかったことにした。
サムズアップなんて何処で覚えたのだろうと思いながら、ナイールに説教されているイーシェに、内心ご免なさいと謝るのだった。
黒猫ももか様改め百太郎様、お待たせしました。
これで一応バレンタイン小話は終わりです。最後は夢落ち。
何だか久しぶりにナイールのキャラを書いたので、誰これってなってたらご免なさい。
一応甘くしようと頑張ったんです。でも何故かイーシェとカンナが邪魔したんです。
でも実際、カンナはずっと張り付いてるから、早夜が本命と決めない限り彼女は邪魔すると思われます。