第1話 見えない献身と、愚かな決断
深夜の宿屋の一室。窓の外では虫の音が静かに響き、街は深い眠りに包まれていた。だが、俺、アレンの夜はまだ終わらない。むしろ、ここからが本当の戦いだった。
「ぐっ……うぅ……!」
奥歯を噛み締め、喉から漏れ出そうになる悲鳴を必死に飲み込む。
目の前にあるのは、豪奢な装飾が施された一本の剣。Sランクパーティ『暁の獅子』のリーダーであり、勇者と呼ばれるレオンが振るう『聖剣エクスカリバー』だ。
昼間、レオンが魔物を一刀両断するたびに、民衆は歓声を上げ、仲間たちはその威光を称えた。黄金に輝く刀身は、正義と希望の象徴そのものに見えるだろう。
だが、今の姿は違う。
俺が『研磨』を始める前の聖剣は、まるで凝固した血のような、どす黒い瘴気を纏っていた。
この剣は、聖剣などではない。
使用者の生命力、筋力、そして未来の「運」すらも喰らい尽くして力に変える、最悪の『魔剣』だ。
「はぁ、はぁ……あと、少し……」
俺は震える手で『砥石』を握り、刀身に這わせる。
ただ研ぐのではない。俺の固有スキル【魔力研磨】と、生まれ持った特殊体質である【呪詛喰らい】を併用し、剣に蓄積された「使用の代償」を、俺自身の肉体へと移し替えているのだ。
じゅぅぅ、と肉が焦げるような音が、俺の指先から響く。
砥石が剣の上を滑るたびに、刀身の黒い瘴気が俺の腕へと這い上がってくる。血管がどす黒く浮き上がり、心臓が早鐘を打つ。まるで鉛を血管に流し込まれているような重さと、針で全身を刺されるような激痛。
レオンが今日一日で振るった剣撃の回数は、およそ五十回。
その一振りごとに発生するはずだった「骨の軋み」や「筋肉の断裂」、そして「寿命の摩耗」。それら全てを、今、俺が肩代わりしている。
視界が明滅する。口の中に鉄錆の味が広がり、ツーっと鼻から血が垂れた。それを袖で乱暴に拭う。
「……よし、戻った」
一時間にも及ぶ地獄のような作業を終え、俺は大きく息を吐き出した。
そこに横たわっているのは、穢れひとつない、神々しい輝きを取り戻した聖剣だ。黒い瘴気はすべて俺の体内に収まり、俺の魔力によって中和・霧散されていく。
その代償として、俺の身体は鉛のように重く、指先は氷のように冷たい。魔力は枯渇寸前で、立っていることすらやっとの状態だった。
「これなら……明日も、レオンは怪我ひとつなく戦える」
ふらつく足取りで剣を鞘に収め、俺は部屋の隅にある粗末なベッドへと倒れ込んだ。
身体中が軋む。毎日これの繰り返しだ。
それでも、俺はこのパーティが好きだった。幼馴染であるレオンが「世界を救う勇者」として称賛されるのが誇らしかったし、俺の陰ながらの支えが、人々の平和に繋がっていると信じていたからだ。
だが、その思いが一方的な幻想に過ぎなかったことを、俺は翌朝、残酷な形で知ることになる。
†
翌朝。宿屋の一階にある食堂は、朝食をとる冒険者たちの活気で満ちていた。
焼き立てのパンの香ばしい匂いと、スープの湯気が立ち込める中、俺たちのパーティ『暁の獅子』のテーブルだけは、どこか浮ついた、しかし俺に対してだけ冷ややかな空気が流れていた。
「おい、アレン。遅いぞ」
テーブルの上座で、足を組んで座っている金髪の男――勇者レオンが、不機嫌そうに言った。その傍らには、美しい装飾の鞘に収まった聖剣が立てかけられている。
俺が昨晩、命を削って浄化したその剣は、朝日を浴びて眩いばかりに輝いていた。
「ごめん、ちょっと寝坊して……」
「はっ、寝坊だと? 俺たちはこれから迷宮に潜るってのに、荷物持ちのお前が一番遅れてどうするんだよ」
レオンが鼻で笑うと、取り巻きの戦士や僧侶たちも一緒になってクスクスと笑った。
俺は何も言い返せず、空いている席に座ろうとした。
だが、その席には見知らぬ女性が座っていた。
燃えるような赤髪を長く伸ばし、胸元が大きく開いた派手なローブを纏った魔導師だ。その肢体は艶かしく、レオンの腕に媚びるように体を密着させている。
「……レオン、この人は?」
「ああ、紹介するよ。今日からパーティに入ってもらう、Aランク魔導師のエリラだ。火魔法のエキスパートでな、見た目も華があるだろ?」
エリラと呼ばれた女は、俺の方をチラリと見ると、興味なさそうにふんと鼻を鳴らした。
「よろしくぅ。あなたが噂の寄生虫くん?」
「寄生虫……?」
「だってそうでしょう? 戦いもしないで、後ろで荷物持ってるだけでSランクパーティの報酬を貰ってるんだから」
彼女の言葉に、俺はカッとなってレオンを見た。だが、レオンは否定するどころか、ニヤニヤしながら同意するように頷いたのだ。
「ま、そういうことだ。単刀直入に言うぞ、アレン」
レオンはパンの欠片を口に放り込み、咀嚼しながら、まるで天気を話題にするような軽さで言った。
「お前、クビな」
時が止まったような感覚だった。
食堂の喧騒が遠のき、耳鳴りだけが響く。
「……え?」
「だから、クビだと言ってるんだ。耳まで悪いのか? 荷物持ち兼雑用係のお前は、もういらないんだよ」
「いらないって……どういうことだよ。俺はずっと、このパーティの武器のメンテナンスをしてきただろ! 聖剣だって、俺がいなきゃ――」
「あー、はいはい。またその話か」
レオンは鬱陶しそうに手を振って、俺の言葉を遮った。
「お前さ、自分が何か特別なことをしてると思ってるみたいだけど、勘違いも甚だしいぜ? 『研ぎ師』なんて、街の鍛冶屋に行けば銅貨数枚でやってくれる仕事だろ。それを、幼馴染のよしみで特別にパーティに入れてやって、破格の報酬まで渡してたんだ。感謝こそされ、文句を言われる筋合いはねぇよ」
俺の頭の中が真っ白になる。
銅貨数枚の仕事?
俺が毎晩、吐血しながら、寿命を削って呪いを中和していたあの作業が?
「レオン、待ってくれ。お前は分かってない。その聖剣は、ただの剣じゃないんだ。使うたびに使用者の体を蝕む呪いがある。俺が毎日、魔力を使ってその反動を相殺してるから、お前は無傷でいられるんだぞ!」
俺は必死に訴えた。自分の待遇のためじゃない。このまま俺がいなくなれば、レオンの身に危険が及ぶからだ。
だが、俺の必死の形相を見たレオンは、あろうことか大声で笑い出した。
「ぶっ、あはははは! おい聞いたかみんな! こいつ、俺の聖剣が呪われてるなんて言い出したぞ!」
パーティメンバーたちも、腹を抱えて笑っている。
「アレン、お前、自分が役立たずだからって、そんな嘘をついてまで居座りたいのか?」
「哀れねぇ。才能がない男の嫉妬って見苦しいわ」
エリラが冷ややかな視線で俺を見下す。
「嘘じゃない! 思い出してくれ、レオン。初めてその剣を拾った時、お前は一度振るっただけで三日間寝込んだだろ! それを俺が調整して……」
「黙れッ!!」
ドンッ! とテーブルが叩かれ、食器が跳ねた。
レオンの表情から笑みが消え、代わりに侮蔑と怒りの色が浮かんでいた。
「いい加減にしろよ、無能。あの時はまだ俺のレベルが低かっただけだ。今の俺は『勇者』だぞ? この聖なる剣に選ばれた唯一の存在なんだ。それを呪いだの反動だの……俺の才能を否定するようなことばかり言いやがって」
レオンは立ち上がり、俺の胸ぐらを掴み上げた。
至近距離で睨みつけられる。かつては親友だと思っていた男の瞳には、もう俺に対する友情など欠片も残っていなかった。あるのは、邪魔な虫を見るような目だけだ。
「俺たちがSランクになれたのは、俺の聖剣と、みんなの力があったからだ。お前はただ、その後ろを金魚のフンみたいについてきてただけだろ。報酬を山分けにするのが惜しくなってきたんだよ。これからは、その分をエリラに回す。華もない、戦闘力もない、ただのおっさんが居座る場所なんてねぇんだよ」
ドサッ、と床に突き飛ばされる。
尻餅をついた俺の前に、小袋が投げ捨てられた。中から数枚の金貨がこぼれ落ちる。
「手切れ金だ。それで田舎にでも帰って、畑でも耕してろ。二度と俺の前に顔を見せるな」
レオンはそう言い捨てると、聖剣を腰に差し、エリラの腰に手を回した。
「行こうぜ、エリラ。今日は新しい仲間のお披露目だ。派手に行こう」
「ええ、レオン様。あんな湿気臭い男がいなくなって清々したわ」
彼らは俺を振り返ることもなく、食堂を出て行った。
残されたのは、床に散らばった金貨と、惨めな俺だけ。
周囲の冒険者たちが、ひそひそと俺を噂し、嘲笑う声が聞こえる。
「あーあ、捨てられちまったな」
「ま、当然だろ。勇者のパーティにあんな地味な研ぎ師なんて釣り合わねぇよ」
俺は震える手で金貨を拾い集めた。
怒り? 悲しみ? いや、それよりも先に湧き上がってきたのは、虚無感だった。
五年間。
俺はこの五年間、自分の全てを犠牲にしてレオンを支えてきた。彼の栄光は、俺の命を削って作られたものだった。
それを、彼は「銅貨数枚の仕事」と言った。
俺の命の価値は、彼にとってはその程度だったのだ。
「……そうか」
ポツリと、言葉が漏れた。
不思議と涙は出なかった。ただ、胸の奥で何かがプツリと切れる音がした。
もういい。
もう十分だ。
俺はあいつに警告した。真実を伝えた。それでもあいつは聞く耳を持たず、俺を切り捨てた。
なら、この先あいつの身に何が起きようと、それはあいつ自身が選んだ道だ。俺にはもう関係ない。
俺は立ち上がり、泥を払った。
宿の主人に目配せをして、そのまま出口へと向かう。
街の大門を抜けると、外は快晴だった。
どこまでも続く青い空。街道を行き交う人々。
いつもなら、この時間はパーティの荷物を満載した巨大なリュックを背負い、最後尾を必死について歩いていた。聖剣の呪いによる倦怠感で、足を引きずりながら。
だが、今はどうだ。
「……軽い」
俺は自分の両手を見つめた。
いつもなら朝起きても残っているはずの、鉛のようなダルさがない。
指先まで力が満ちている。呼吸が深い。
空気が美味い。
世界の色彩が、昨日までとはまるで違って見える。
当然だ。
毎晩、俺の魔力と生命力の九割を持っていっていた『聖剣の呪い中和』という枷が外れたのだから。
俺は街道の脇にある手頃な岩に手をかざしてみた。
今までは生活魔法の着火程度しかできなかったが、今は体内で奔流のように渦巻く魔力を感じる。まるで、長い間せき止められていたダムが決壊したかのようだ。
「……これが、俺の本当の魔力……?」
試しに、魔力を指先に集中させ、岩に向けて弾いてみる。
呪文も詠唱もなし。ただの純粋な魔力の塊だ。
ドォォォォォンッ!!
轟音と共に、街道脇の岩が粉々に砕け散った。
いや、砕けただけではない。岩があった場所の地面が大きく抉れ、クレーターができている。
通りがかった商人の馬車が、驚いて急停止するのが見えた。
「う、嘘だろ……」
俺は自分の手を見て呆然とした。
これほどの力を持っていたのか。いや、違う。この力はずっと持っていたのだ。ただ、その全てがレオンの聖剣を抑え込むためだけに使われていただけで。
「はは……」
乾いた笑いが漏れる。
俺はSランク魔導師など比較にならないほどの魔力を持ちながら、それを「荷物持ち」として消費していたのか。
なんて馬鹿げた話だ。そして、なんて滑稽な話だろう。
レオンは、俺を「無能」と呼んで追い出した。
だが、彼は気づいていない。
彼が最強の勇者でいられたのは、聖剣の力ではない。その聖剣が彼を殺さないように、俺が抑え込んでいたからだということに。
俺がいなくなった今、あの聖剣は本来の姿を取り戻す。
振るうたびに使用者の骨を砕き、肉を裂き、寿命を啜る、貪欲な魔剣としての姿を。
「……もう、俺の知ったことじゃないな」
俺は砕け散った岩の残骸に背を向け、歩き出した。
行くあてなんて決まっていない。
だが、心は驚くほど晴れやかだった。
もう誰かのために命を削る必要はない。この溢れんばかりの力は、全て自分のために使えるのだ。
「さて、まずは隣国にでも行ってみるか」
俺は自由を噛み締めながら、一歩を踏み出した。
その背後、遠く離れたダンジョンの方向から、微かに空気が震えるような音がした気がした。
おそらく、レオンたちが戦闘を開始したのだろう。
今日のレオンは、いつものように全力で剣を振るうはずだ。昨晩、俺が完璧に手入れをしたから、最初の一撃だけは最高の手応えを感じるだろう。
だが、その次の一撃で――あるいは、その衝撃の反動で。
俺の脳裏に、かつて一度だけ見た「聖剣の反動を受けた魔物」の末路がよぎる。内側から破裂し、肉塊と化したその姿を。
あれが人間、しかも生身の腕に起きたらどうなるか。
想像するだけで身の毛がよだつが、今の俺には同情心すら湧かなかった。
「せいぜい、新しい『華のある』仲間とやらと頑張ってくれ」
俺は口笛を吹きながら、レオンたちとは逆の方向へと歩を進めた。
長い長い苦役の時は終わった。
ここからが、研ぎ師アレンの、本当の人生の始まりだ。




