section8『帰還(かえりみち)』
異世界での死闘を終えわ真は元の世界へと“帰還”する。
しかし、それは「元通りの生活」への帰還ではなく──
感覚、記憶、そして世界そのものが、静かに歪み始めていた。
まだ気づいていない。これは終わりではなく、“始まり”だったということに。
「……行った、のか?」
誰かがぽつりと呟く。
誰も答えない。だが、その沈黙が何よりの肯定だった。
あの異形の“気配”は、確かに遠ざかっていた。
足元の粉塵を見つめながら、俺はゆっくりと息を吐く。
空気はまだ重く、胸の奥に鉛のような感触が残っている。けれど、それでも──
(……生きてる)
皮膚の感覚、喉の渇き、心臓の鼓動。
すべてが“生きている”という証拠だった。
「……おい、お前……」
隣にいた少年──眼鏡をかけた、さっき俺を気遣ってくれた彼が、俺の顔を覗き込む。
「さっきの、お前の目……青く光ってた。なんだったんだ?」
その問いに、俺はすぐに答えられなかった。
自分でも、よく分からない。
ただ、あの瞬間──俺は“世界の裏側”を見ていた気がする。
空間の歪み、死角の気配、音の反響、風の流れ。
全てが一枚の地図のように、脳内に描かれていた。
「あれは……」
言いかけた瞬間だった。
──キィィィン……
耳鳴りのような音が、空間全体を貫いた。
世界の“空気”が変わる。
風が止み、光が反転し、重力が捻れる。
喉奥から吐き気がせり上がり、視界が急激に暗転する。
「な、なんだこれ……っ!」
誰かが叫ぶ。
「やばい……引き戻される……!」
逃げようにも、体が動かない。
何かに背中を引きちぎられるような力が働き──次の瞬間。
──真っ暗な“闇”に、落ちた。
*
──風が、吹いていた。
目を開ける。
そこは、さっきまでいた場所とはまるで違う。
夕暮れの屋上。
錆びたフェンス。静かな風。茜色に染まった空。
どこを見ても、誰もいない。
放課後。
誰もいない学校の屋上。
──俺が、“飛ばされる前”に立っていた場所。
手を見る。小さな擦り傷。
服は戻っていた。靴も、ポケットの中身も、何もかも“元通り”。
……けれど、あの傷だけは“本物”だった。
ゆっくりと立ち上がる。足にまだ震えが残っていた。
さっきまでの出来事が、まるで夢みたいに曖昧になっていく。
頭の中にモヤがかかって、輪郭がぼやける。
(話そうとしても──無理だろうな)
誰かに語ろうとすれば、脳が拒絶する。
さっきも、一瞬だけ思い出そうとした瞬間に、頭の奥に鋭い痛みが走った。
きっと、“あの世界”のことは語れないようになっている。
無理に言葉にすれば、意識ごと壊れてしまう。
俺はただ、屋上の柵にもたれかかり、空を見上げた。
あの空には、もうヒビはなかった。
すべてが穏やかで、静かで、普通で──
だけど“嘘くさい”。
この空は、俺たちを“試している”。
いや──見ている。
あの世界に、まだ誰かが残されている。
出会えていない誰かが。
そんな気がした。
そしてきっと──俺自身も。
(また、行くことになる)
もう二度と戻りたくないと、心のどこかで願いながら、
それでも“自分の目”が知っていた。
だから俺は、静かに呟いた。
「……まだ、終わってない」
茜空の下、誰もいない屋上で。
俺はひとり、風の中に立っていた。
一度踏み込んでしまった者に、“元の世界”など存在しない。
見てしまった。知ってしまった。生き残ってしまった。
屋上に吹く風の中で、真は静かに悟る。
自分がもう「ただの高校生」ではいられないということを──
そして次に現れるのは、“その未来に行けない者”。
導き手は、すでに傍にいる。