section1『歪んだ現実』
異世界から帰還した翌日。
すべてが“元通り”のはずなのに、三國見 真の中で、世界は確実に歪み始めていた。
感覚、記憶、現実──「普通の日常」がほんのわずかに“遅れて動いている”ように感じられる。
戻ってきたはずの世界で、彼は確かに“異物”になっていた。
──翌日、教室の時計がカチ、と音を立てた。
まるで、耳元で鳴ったような鮮明な音。
あの“異世界”で研ぎ澄まされた感覚が、まだ俺の中に残っていた。
教室はざわついていた。放課後を前にした、緩んだ空気。
窓の外にはいつもの街並み。けれど──その“日常”が、どこか嘘くさく見える。
昨日、俺はあの場所から戻ってきた。
錆びたフェンスと茜空。屋上の風。全てが元通りだった。でも、それは“見かけ”だけだ。
(……何かが、おかしい)
視界の端。人の動き、物音、風の流れ。
すべてが、ほんの少しだけ“先に”感じられる。
まるで、次に起こることを体が予知しているような感覚。
誰にも話せない。
話そうとすれば、昨日の“あの感覚”が頭の奥に蘇って、拒絶する。
それでもこの目だけは、今もあの世界を引きずっていた。
昨日は……屋上だった。あの風は確かに俺に語りかけていた気がする。
「戻れ」とも、「行け」とも、はっきりした言葉ではなかったけど。
何かが、俺の中で“始まり続けている”。
「三國見くん?」
突然、肩を叩かれて我に返る。
振り返ると、クラスの女子──木下。手にしたペンを差し出してくる。
「落としてたよ」
「あ、ありがと……」
その指が俺の手に触れる瞬間。
──時が、ずれた。
指先が触れる“前”に、俺はその触れた感触を“知っていた”。
(……まただ)
昨日も、同じことがあった。
異形に襲われる直前、死角の“先”を見た。
“起こる前の現実”が、まるで地図みたいに脳内に浮かび上がる。
「顔色、悪いけど……大丈夫?」
「うん、ちょっと寝不足で……」
笑ってごまかす。誰にも話せない。信じてもらえるはずもない。
彼女は少し気遣うようにして、静かに去っていった。
夕焼けが差し込む教室には、俺一人。
静けさが耳に痛い。世界が、少しずつ輪郭を変えていく。
(……視えてる。今も、まだ)
手を見た。昨日ついたはずの小さな擦り傷は、ちゃんと残っている。
服も靴も元通りだったのに──この傷だけは、“本物”だった。
まるで異世界から持ち帰った“証”のように、赤黒く残っている。
(戻ってきたのに、何も終わってない)
教室の片隅で、誰もいないのに誰かの視線を感じる。
見えないはずのものが、見えてしまいそうになる。
声なき声が、心の奥でささやく。
──まだだ。ここは、ただの通過点だ。
静かに立ち上がる。
教室のドアを開けると、夕焼けが染める廊下がどこまでも続いていた。
その空気が──まるで、俺を“待っている”ように感じた。
傷は消えていなかった。
目に見えないはずの“違和感”が、現実を静かに侵食していく。
そして彼の中で、確信だけが輪郭を持ちはじめる──
「あの場所で起きたことは、夢なんかじゃなかった」
静寂の放課後、その背後から歩み寄るのは、“導く者”。




