section3『崖の上で、生まれる感覚』
訓練2日目。
ただ走り、登り、滑り落ちるだけの動作の中に、
それぞれの心は揺れ、磨かれ、確かに変わっていく。
ノアという名の力──その最初の気配は、
泥にまみれた手のひらから、そっと滲み始めていた。
授業が終わると、誰とも言葉を交わさずに教室を出た。
すでに習慣となりつつある流れだ。俺たちは放課後になると、“匡さんの山”に向かう。
異世界での体験が、非現実だったとはもう思わない。あれは紛れもない現実で──今はその延長線上にいる。
この日も、午後四時すぎ。
傾きかけた木漏れ日の中を、五人の影が静かに山道を登る。
「はー……今日も疲れた。ノアとか関係なく、純粋に体力ないんだよね私……」
レイラが額の汗をぬぐい、ため息をつきながら笑った。
その明るさはどこか無理をしているようにも見えるが、彼女なりの“前向きさ”だった。
「集中しろって言われてもな……そもそも、“感覚”で掴めとか、意味わかんねぇし」
隼人はぶつぶつと文句を言いながら、手足を軽くストレッチしていた。
だが、訓練には真面目に参加している。文句を言いながらも、やることはやる。それが獅堂隼人という男だ。
少し離れた場所で、鳴が小さく咳き込んでいた。
前回の訓練で転びまくった彼は、今日は着替えを二重に持ってきていたらしい。
「……うん、今日は……転ばない……転ばない……たぶん」
自分に言い聞かせるように呟く姿は少し頼りないが、それでも彼なりの決意があった。
そのタイミングで、匡さんが岩陰から現れる。
すでに準備は整っていたようで、地面にはいくつかの目印と、道のようなルートが作られている。
「今日は機動訓練をやる」
淡々と告げられたその言葉に、空気が引き締まる。
「ノアの制御に必要なのは、基盤だ。体の使い方、感覚の集中。まずはそこから徹底的に叩き込む」
俺と凪は、もう聞き慣れた内容だ。だが、レイラたちには新鮮だったようで、少し緊張の色を浮かべていた。
訓練場となるのは、傾斜のきつい崖地帯。
土は乾き、ところどころに露出した岩肌、滑りやすい落ち葉、小石が点在する。
見た目以上に足場は悪く、まさに“地の利を読む力”が試される場所だ。
「じゃ、いきますか」
俺と凪が先に駆け出し、それぞれ違うルートを選び登り始める。
続くように、隼人が一気にペースを上げて追いかけた。
「フンッ……っしゃああ!」
力任せだが、勢いだけはすごい。
しかし、急に足元の小石に足を取られ、盛大に滑った。
「ッ……チッ!」
木に手をついて姿勢を立て直し、口の中で舌打ちする。
一方、レイラはスピードを求めず、落ち着いてルートを見極めながら進んでいた。
体力に自信がないことを自覚している分、慎重で的確な動きだった。
「よし、いけるいける……って、あっぶな!」
小石に足を滑らせかけて、ギリギリで踏みとどまる。
それでも、自分のペースは崩さなかった。
そして、最後に鳴。
彼は少し遅れて動き出し、最初の一歩でつまずきかけたが、転ぶことはなかった。
「……ふぅ、ふぅ……こ、こんな感じ……で、あってるよね?」
息を切らしながらも、鳴は登っていく。
その姿を、匡さんは何も言わずに見つめていた。
やがて、日が落ちていく中で全員が無言のまま崖の頂にたどり着く。
泥だらけになりながらも、誰一人として脱落しなかった。
「……これが、“基礎”かよ」
隼人がうつ伏せに倒れ込みながら、地面に向かって呟く。
「ふふっ……基礎って、厳しいんだねぇ……」
レイラが笑う。その頬にも汗と泥が滲んでいた。
鳴は言葉も出ないようで、両手をついたまま、ただぜぇぜぇと肩を上下させていた。
それでも──この日の訓練を経て、誰もがわずかに“掴みかけた”ものがあった。
誰もが同じ場所を目指して、同じ地面を踏みしめた。
走った先に何があるのかは、まだわからない。
けれど、ただの足運びだった動きの中に、
かすかに“意味”が生まれ始めていた。
そう、これは──力への、最初の対話だ。




