section3『ノアの片鱗』
世界の歪みを“視た”少年に、初めての“問い”が投げかけられる。
この出会いは偶然か、あるいは必然か。
神瀬 匡という謎の男が語る、“ノア”の真実——
真はまだ、その言葉の重みを知らない。
旧校舎の三階。
夕暮れの光が、誰もいない教室の埃をきらめかせていた。
机の列は乱れ、黒板の文字はもう消えかけている。
けれど、その空間にどこか居心地の悪さはなかった。
神瀬 匡は窓辺の机に腰を下ろし、俺に飴玉をひとつ投げてよこした。
「まあ、座りなよ。話すにはちょうどいい場所だ」
戸惑いながら向かいに座ると、神瀬が口を開いた。
「まずは、“ノア”のことから話そうか。……君が行った、あの異世界で目覚める力の名前だ」
「ノア……」
「君が飛ばされたあっちの世界の名前は“ルヴァ=ヘレイス”。崩壊寸前の、現実の裏側だ。
そして俺たちは、その世界で目覚める異能のことをまとめて“ノア”って呼んでる」
「あの場所は、ただの廃墟じゃない。
この世界と重なり合いながら存在する、もうひとつの現実だ」
神瀬の声は飄々としているのに、どこか重みがある。
「君がそこに行けたのは、“転写”って現象のせいさ。
簡単に言えば、魂と意識ごと、物理的にルヴァ=ヘレイスに飛ばされたんだよ」
「……夢じゃ、なかったんですね」
「夢ならよかったのにな」
俺は、あの“戦場”を思い出す。
鋭く、冷たく、命を奪おうとしてきたあの存在たちを。
「君は、そこから“帰ってきた”。でも……完全に元通りってわけにはいかない」
神瀬はそう言って、俺の目をじっと見た。
「こっちの世界の動きが、少し遅く見えるだろ。
音が聞こえる前に気配がわかったり、相手の動きが予測できたり」
「……なんで、それを」
「君だけじゃないからさ。俺も、同じだった」
神瀬はポケットから新しい飴玉を取り出し、ゆっくりと指先で転がした。
「一度“向こう側”を経験すると、こっちの感覚が少しずつ変質してくる。
個人差はかなりあるみたいだけどね
言うなれば──世界が君に追いつけていない状態、だな」
(……それって)
「まだ始まりにすぎないよ。
君は、“視える”側に立った。
そしてその力──ノアは、これからさらに明確になる」
「それって……俺が、またあの世界に行くってことですか?」
「可能性は高い。俺はもう行けない。だから、代わりに君に話してる」
「……どうして行けないんですか」
「……昔の話だ。いつか機会があれば、な」
その瞬間、教室の空気が、わずかに震えた気がした。
俺の視界の端で、机の脚が歪んだように見えた。
反射的に身構えた俺を、神瀬が軽く制する。
「落ち着け。それは君の中にある力だ。
君はすでに“ノア”に触れてる。なら、それを恐れる必要はない」
その声は、不思議と──安心できる響きだった。
「三國見 真。
君はまだ、自分の力に気づいてない。
でもいずれ、それが“戦う理由”になる」
神瀬の背が、夕焼けを受けて伸びる。
「ようこそ、現実の裏側。──ノアへ」
すべての始まりだった。
神瀬の言葉はただの説明ではなく、“扉”だった。
世界の裏側へ、戻れない場所へと続く通路。
名を呼ばれたその瞬間から、三國見 真の選択肢は一つしかなかった。




