後編
「フラド様、お待たせいたしました」
青年は弟様の机の上に一枚の書類を提出しました。
「あぁ、待ちくたびれたよ。けどいい選択をしてくれた。これで僕も一安心だ」
弟様は青年に渡された紙を手にうんうんと頷きました。弟様は青年が誤った選択をしたら何度でも突き返すつもりでした。
「姉上はとてもやさしい人だ。それに僕も君も甘えていたね。けど正直な人だから耳を澄ませば解った筈なんだ。とくに、君はね」
「も、申し訳ありません」
思い返せば青年には心当たりがたくさんありました。青年は主がいつまでも子供だと思っていたかったのです。それがいつの間にか青年の想いを追い越していたなんて、予想外でした。
「姉上に一途で姉上らしさを尊重できる、小児愛好者でない男が見つかって本当に良かった」
春の日溜まりのようなさわやかな笑みで釘を指す弟様に青年は頭が上がりません。傍に寄ってきた飼い猫が青年を励ますように足にすり寄ってニャアと鳴くのでした。
――或る夏の日の午後、
お嬢様にとってひさしぶりのお見合いでした。お嬢様はひとり椅子に座って相手の男性を待っています。
お見合い相手の方は自分の執事が決めた一押しの男性です。誰よりお嬢様を大切にしてくれる相手なので心配はいりません、と言われておりましたので心配はしておりません。
それよりテーブルの上にこんなに大きな赤スグリのケーキが目の前にあるのに食べれないなんて、これはなんという拷問かしら、とちょっとご機嫌ななめです。
白いドレスを来たお嬢様は手持ちぶさたでしたので、紅茶のカップにお湯を注いでくるくるとカップを回しました。お湯がこぼれないように回転させるのが楽しいのです。
「お嬢様、お行儀がわるいですよ」
お嬢様の手からカップを取り上げたのは執事である青年でした。
青年はそのままお嬢様の正面の椅子に座ります。
「あら、あなた座る椅子を間違えているわよ」
「私は間違えておりませんよ、お嬢様」
よく見れば青年はいつもの黒い燕尾服ではなく、仕立てのいい上等な服を着ています。
「ほんとうのほんとうに?」
「ほんとうのほんとうのほんとうです。嘘だったら赤スグリのケーキは私が食べてしまいましょう。でもほんとうなので全部お嬢様に差し上げますね」
お嬢様の胸にこれ以上ない喜びがこみ上げてきました。青年こそが誰よりお嬢様を大切にしてくれる男性だったのです。
「わたしこんなに、ひとりで食べれるかしら」
「じゃぁ、私も一緒に食べましょうか」
青年がテーブルに頬杖をついて、くすくすと笑います。
「ええ、それがいいわ。わたし、あなたと一緒がいいわ」
青年はポケットの中から何かを取り出して、お嬢様の左手の薬指にはめました。それはお嬢様が窓から投げたいつかの指輪でした。
「お嬢様にこの指輪を捨てさせてしまって申し訳ありませんでした。私がもっと早く気づけば良かったですね」
「いいのよ、本当に必要ならわたしの元に戻ってくるものだもの。そうでしょう?」
お嬢様は青年が少年だった頃、一度だけ弟のフラドの執事ととりかえっこをしたことがありました。
アズラクの代わりにきた少年執事はカスラーンといい、不出来なお嬢様をにちくちくと心ない言葉を投げつけるのでした。アズラクはお嬢様の小さな進歩を見つけるのが得意でしたが、カスラーンはお嬢様の小さな失敗を見つけるのが大の得意でした。お嬢様はアズラクがいた時より勉強の時間をうんと長くして、失言を避けるために口をつぐんで、それでようやく人並みのレディーに近づけました。
教師はもっと出来る筈だと指導を厳しくし、
お父様やカスラーンはフラドの足元にも及ばないと罵倒し、
部屋付きメイドは気の毒そうにお嬢様から目を逸らす日々でした。
アズラクが戻って来てくれたらもっと頑張れるのに。
そう思う日が増えていきました。
お嬢様の願いが天に通じたのか、しばらくしてアズラクはお嬢様の元へ戻って来てくれました。たくさん、たくさん努力したから神様がご褒美をくれたのだわ!とお嬢様は神様に感謝しました。
今までで一番綺麗に縫えた刺繍のハンカチをあげれば「すごい」と褒めてくれました。
アズラクの賛辞に舞い上がったお嬢様のやる気がみなぎってきました。立派なレディーになれば、お父様にも認められて、アズラクにとっても屋敷の皆にとってもみっともない主人じゃなくなります。ダンスもマナーも歴史も語学でも何でも頑張れば、みんなが幸せになれるのです。
けれど戻ってきたアズラクは「無理して頑張らなくていい」とカスラーンとは真逆のことをいうのでお嬢様は戸惑いました。以前、アズラクはフラドのような優秀な主人に仕えたかったとこぼしていたのをお嬢様は忘れられません。
『あなたは私の主人に足るお方ではありません』
寝る時間を削れば、たくさんダンスの練習だって出来るし、歴史の本だって読めます。自分を主として認めて欲しい。あのさびしくつらい日々には戻りたくありませんでした。
頑張らないとアズラクはまた、いなくなってしまうかもしれません。
お嬢様は何もしないで寝るのがすっかり怖くなってしまいました。
『また足を踏んで!オレの足はポンプじゃないんですよ。いい加減にして下さい』
ごめんなさい、カスラーン
『お嬢様はカップを割るのがお好きなんですね。高尚な趣味をお持ちだ』
わざとじゃないの、信じてちょうだい。
『これじゃあ、アズラクが愛想をつかしたのも当然です』
そんなことないわ。アズラクは戻ってきてくれたもの。
『フラド様が自分の主だったらよかったのに……』
――え?アズラク?
あの日の映像が鮮明によみがえります。
『ならわたしがフラドにたのんであげるわ。わたし、知らない内にあなたにはたくさん迷惑をかけてしまったみたい。気付かなくてごめんなさい』
『そうです。あなたは私の主人に足るお方ではありません。私の主はダンスも勉学もマナーも完璧でなくてはならないのです。これは何かの間違いだったのです』
――あぁ、時よ、巻きもどって!――
『えぇ、お父様にも怒られてしまったわ。今のままでは立派なレディーとしてお披露目することが出来ないって。だからわたしはまず、あなたの願いごとを叶えることにするわ。なんてったって立派なレディーですもの』
――あんな事を言う前のわたしに戻れたら、時を止めてしまうのに!――
悪夢から目覚めると、そこは薄暗いお嬢様の寝台の上でした。寝巻きは汗でびっしょりと濡れておりました。息のあらいお嬢様をアズラクが心配そうに見下ろしています。
「こわい夢を見たんですか?」
「ええ、とてもこわい夢。カスラーンがアズラクになって、わたしのような主はいらないと言うおそろしい夢」
「私とカスラーンは似てませんよ。ほら、私の瞳をよく見てください。私の目は空の青で、ヤツの目は雨蛙のような青緑です」
アズラクは憮然とした表情で主張します。
確かに、アズラクの青は晴れた日の空のような色をしています。
その目を見ていると、お嬢様は心が落ち着いていくのがわかりました。
「私はお嬢様が自分の主であると確信しております。フラド様の元では満たされぬものが、お嬢様の傍にいると満たされるのです。以前の私はひどく傲慢でした。当たり前になっていて大切なことに気付けなかった」
それはお嬢様にも同じでした。アズラクを失うことの重要性を理解していませんでした。アズラクとカスラーンが代わっても何も変わらないと思っていた自分が愚かだったのです。
「わたし、わたしの執事はあなたがいいの。あなたもそう思ってくれる?」
「はい、ベルデス・ペレンニス様、おひとりです」
翌日から、お嬢様は以前のようにぐっすり眠れるようになりました。
アズラクが戻ってきてくれて、心の底からお嬢様は安堵したのです。
アズラクを失って、お嬢様は《後悔》の意味を思い知りました。
そして、ベルデス・ペレンニスでいられる限りは誰に乞われてもアズラクを手放したりはしないと胸に刻んだのでした。
大きな赤スグリのケーキに、アズラクからの指輪、これ以上ないお見合い相手、まるで夢のような現実でした。
お嬢様はアズラクから貰った指輪をなでました。
夜中に外へ投げた指輪ですから、指輪を見つけ出すのは大変だったでしょう。
それでもアズラクは諦めずに広い庭からお嬢様の指輪を探してくれたのです。
お嬢様は胸がいっぱいになりました。
戻ってきてくれたのは指輪だけではありません。
自分の捨ててしまった想いも一緒にアズラクは拾ってきてくれたのです。
見上げると、アズラクがいとしげにお嬢様を見つめていました。
「わたし、あなたになら縛られたいわ」
お嬢様の発言にアズラクは盛大にむせました。
紅茶が器官に入ってしまったのかしら、お嬢様は首を傾げながらもう一度そっと指輪をなでるのでした。
――それからしばらくして、
「お嬢様、背が伸びておりますよ」
青年は主の成長を自分のことのように喜びました。
クッキー、一枚分の厚さ。それだけの小さな成長でしたが、今まで変化が見られなかったことを考えれば大きな進歩でした。
青年の主は世間で《ペレンニス家の魔女》と噂されています。綺麗になられた上、幼い姿を保ち続ける主に一部の人間は羨み、一部の人間は不気味がりましたが青年の忠誠心は他人の噂話ごときでは揺らぎません。
主は自由自在に魔法をあやつれる魔女ではありません。
神様が味方するようなたぐいまれなる綺麗な心の持ち主なのです。
それでも青年にはひとつ、不安がありました。
――それは、主が永遠に少女で在り続けること。
体に異常をきたしているのか、呪いを受けているのか、様々な憶測が飛び交いました。
どんどん浮世離れしていく主に青年は焦っていました。自分だけが年をとりいつか主をおいて逝ってしまうこと恐れていたのです。
だから、青年は今回の成長が泣きたい位、嬉しかったのでした。
一方、お嬢様の方はと言えば、自分の身長のことなど少しも気に掛けておりませんでした。けれど青年が嬉しそうに笑うので自分も嬉しくなりました。
ふと、お嬢様は思いついたように手を叩きます。
「ねぇアズラク、耳をかして」
不思議そうな顔をしながらアズラクは高い背をかがめました。
すると、お嬢様はピョンっとアズラクの首に手を回して唇を重ねます。
「これでわたし、あなたに少し近付いたわね」
お嬢様はいたずらが成功した子供のようにニッコリ、赤い顔のアズラクに笑いかけるのでした。