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本丸 『二階御殿』 での狂乱!

遂に、歴史になかった事件が起こります。


歴史からの乖離が加速いたします。


翌、永禄8年(1565年)のことである。


1月


正月のさなかに予想もしない凶報が、しんしんと降り積もる雪の中をかき分け飛び込んできた。



― 雲雀山御殿 ―


「殿、大変でござる」

直経が慌てて入室してきた。

俺は正月の儀式と祝賀の式典をようやく終えて、ようやく家族とゆっくりしているところであった。


「どうした直経?」

直経が慌てている以上、なにかが起こったことは明白である。


「観音寺城からの早馬の知らせですが……」

気が急いているのか、言葉がつっかえる直経、珍しい光景だ。


「えらくもったいぶるな」

和ませようと軽口で、応えた。


それを察して、直経は深呼吸して息を整えている、以心伝心というヤツだ。



「殿! 義治公ご乱心、二階御殿にて弟君の義定殿を惨殺した模様」


「は?」

なんだって? そんな事件知らないぞ?

歴史にない事件? バタフライエフェクトか~。


「……うあわっ」

俺は、未熟にも思わず声をあげてしまった。



「殿、落ち着いてくだされぃ!」


「おお、すまんな直経」

俺の方が、驚きのあまり焦ってしまったようだ。


 使者の報告によると、観音寺城にて正月の祝いの席に出席していた六角義治が、弟の義定を殺害したらしい。


自らの手により弟を惨殺するという、とんでもない凶行に及んだのである。

さすがにこれには、報告を聞いた皆が驚き動揺した。


 実は、六角氏の重臣・国人衆の協議により、義治を廃して新たに義定を当主とすることが有力となっていた。

今回の事件は、その矢先の出来事である。



 俺も次の手としては、義治派と義定派に分裂させるもくろみであった。

それなりに後ろ暗い作戦は立てていたりするが、流石にこれは無い。

俺としては、なるだけ穏便に影響力を高めたいだけなのだ。


 俺は、あくまで『六角承禎派』である。

大勢が決まるまでは、浅井の利益重視で基本はどちらにも積極的には関与しないつもりだった。

まあ、とは言え最終的に問題のある義治を廃して多少マシな義定を据えるのは、誰が見ても順当な処置であろう。



 義治を、『奇貨おくべし』とばかりに擁護していた蒲生だって、馬鹿ではない。

浅井家に取り込まれる国人・地侍の多さに気付き即座に対応していた。

状況に応じて、柔軟な姿勢を見せるところがやはり手強い。


浅井が味方した方が勝つようにこちらが仕向けている以上、出目の悪い義治に賭けるというのは、まずありえない選択である。


 蒲生は、あっさりと義治を切り捨てて、諸将の結束のために最適な手を打ち出した。

まあ、それが目に見える形となるのが、『義定の当主擁立』と『六角家への制裁』である。


 蒲生家のこだわりは、もはや式目を制定することだけであり、春には制定できる勢いで水面下での調整をしていたようだ。



 有名な六角氏式目ろっかくししきもくは、戦国時代の分国法の一つとして習った覚えがあるだろう。

南近江の六角家で制定されたものだ。

義治(対策)式目ともいう、意味不明な掟である。


制定は、春すぎの予定だったようだが、この混乱のおかげで、今はまだ未定な状況である。


 史実でこれが制定された背景には、永禄6年(1563年)に起こった観音寺騒動がそもそもの原因であった。

これにより、権力拡大を目指していた六角氏は、逆に権威を失墜させてしまったのだ。

六角氏の権威が一時的に弱まる中で、蒲生定秀ら有力家臣が式目を急いで起草し纏め上げた。

六角義賢(承禎)・義治父子が式目を承認する形で成立した。


 承禎・義治父子と20名を越す有力家臣との間で、式目の遵守を誓う起請文を相互に取り交わす形式を取っている。

他の分国法と異なり、大名の権力を大幅に制限するものとなっているのが大きな特徴だ。

これは畿内近隣における国人層の強い自立性を示しているとされる。

また、69か条からなる内容は民事規定が中心で、原則として在地の慣習法を尊重している。


 六角家の権力を大幅に規制する割には、その一方で国人領主の都合の良い規定がなされている。

領民に対しては、大名領主が保護する体裁をとるのもかかわらず、打ち壊しなど惣村の国人領主への敵対行動を禁止するものとなっている。

要するに、国人の国人による国人の為の、六角(を押さえ込む)式目なのである。

慌てて作った為に国人衆(蒲生)の本音がダダ漏れである。



― ― ― ― ― ― ― ―



 まあ、ここん所の蒲生・三雲の働きかけもあり、騒動は収束の様相を見せてはいたのだ。

だからこその、2年ぶりの『正月の祝い』だったのである。

義治も久々の観音寺城だったはず。



 どうやら、水面下では望月家が、なんとか義治を再び擁立しようと画策していた矢先のことだったようだ。

事件当時、望月氏、水原氏、が義治側に付いていた。



 義定殺害の真相は、厳重な警備で予定通りにこと(義定暗殺)が運ばないと、逆上した義治の衝動的な咄嗟の犯行だったらしい。


なんとも馬鹿げた話である。


宴の席での刃傷沙汰に、会場だった二階御殿は大混乱したらしい。

重臣のなかにも負傷者が多数出た模様だ。


永田賢弘、小倉某、多羅尾光俊が重傷を負ったと聞いている。

(永田氏、小倉氏、多羅尾氏、山中氏らは六角承禎・義定派となっていたのだった。)

タラちゃん災難だったね。


幸い他の家の者は、すでに退席していて偶然にもその場に居会わせなかったようだ。


建部秀明、吉田重政、山中長俊、永田景弘等が、望月・水原家に同調し観音寺城の本丸御殿を占拠し城を乗っ取った。

もはや、軽い御輿と成り下がった義治を担ぐつもりのようである。

またもや、観音寺城が内部から落ちるという仕儀に相成った。



『観音寺崩れ』 あるいは 『本丸二階御殿の狂乱』 と呼ばれる大騒動となった。



 様々な思惑が複雑に絡み合い、もはや敵味方の判断が出来ない状態である。

六角家家中で戦国時代が起こったかのような、混迷の様相を呈し始めている。

国人領主が皆危険を避け、観音寺城から離れ領地に引き籠もってしまった。


 さすがの承禎様も、衝撃を受けて呆けてしまわれているようだ。

何とか難を逃れ、今は箕作城にいらっしゃるようだ。

有効な手立てをなんら打ち出せていないことからも、受けられた衝撃の大きさが判る。


思いもよらぬ事態に。

義父、平井定武からの書状も何処かしら苦悩に満ちたものとなっている。



いまや、南近江の六角氏の衰退の様子を、畿内の各大名が密かにうかがう事態となった。


江南の多くの国人達が危機感を持ち、それぞれに浅井長政おれに助けを乞うかたちとなった。

もはや、六角氏の手に余る事態に発展し始めたのだ。



 またもや、蒲生が奔走しているようなのだが、騒ぎにつけ込む意図が透けて見えてしまっている。

だから、国人衆は誰も本心では蒲生家を信用していないのである。


『最初に義治をかばったのも、蒲生なのだ』

裏でどこまで糸を引いているのか知れたものではないと、タレコミがあった。


情報によると、三好、北畠、武田、松永、筒井、波多野らが密かに間者を放っているらしい。

下手をすると他家の介入を招く恐れがでてきた。


これ以上の六角家の混乱というのは、俺にとっても望ましくはない。


「何とかしないとな~」


俺は、皆を集め対策会議を始めることにした。




(注意) 『家の意向』と、個人の想い・行動は、違いを見せるため一部わかりにくい場面があります。


家としては「義定」を推しているものの、個人的に「義治」に借りがあるとか同情的とか、野心とか。

(ココらへんの事情は、史実に完全には即してはおりません。)



本作は品は、創作小説です。

歴史事実とは無関係に話が進んでおります、あしからずご了承ください。

作品を良い物にするため、”ネタのタレコミ”は、歓迎いたします。


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