『浅井長政、稲葉山城に立つ』
多少早いようにも思いますが、収穫の時期がやって来ました。
― 1564年後半 ―
8月
正室の縁の方が無事に男子を出産してくれた。
惣領息子である、名前は『遮那王丸』と名づけた。
無事に生まれてきてくれて何よりである。
元気に育ってほしいものだ。
平井家から、たくさんのお祝いを頂いた。
「義兄上にも、早く子作りをしてもわわねばならないな」
「ええ、でもどうでしょうね~」
9月
綾姫が懐妊した。(やってしもうた~。)
どうやら朝倉義景殿は、永禄7年(1564年)の今年、加賀国への侵攻を決意したらしい。
「わざわざ一揆に、武力で首を突っ込むとは……」
俺は独りごちた。
「向こうも勢力を得ていますし、しかたがないのでは?」
小姓上がりの河田長親(岩鶴丸)が、賢しげに言う。
こいつは初期に寺から引き取った者たちの中でもかなり秀でている。あの勝重と肩を並べるぐらいである。
「寺の出のくせに岩男(岩鶴丸のアダ名)は、血なまぐさいな」
俺が揶揄する。
「坊主にくけりやぁ袈裟まで憎い。俺は売られただけです、好きでいたわけではありません」
「あ~ハイハイ (こいつの不幸話は、長いのが玉に瑕である)」
「流さないでください! 坊主なんか、みんな氏ねばいいんだ~」
「まあ、坊主が聖人君子ではないのには同意するが、一揆を力で押さえ込むのは下策だな!」
「え、なんでです?」
「宿題だ!」
「……教えて下さいよ~!」
「だ~め」
そんな俺達の会話を知ってか知らずか。
朝倉義景殿は、大将に朝倉景鏡と朝倉景隆を任命し、9月1日に朝倉軍は加賀へ攻め込んだ。
(まあ、とっておきを教える義理もあるまい)
この時、景晃は大将を希望して義景に容れられず、9月2日、加賀の陣中で景鏡と言い争いになり、敗れている。
史実では、なんと自害したのである。
部将、しかも一門の者が陣中で自害するという異常事態のため、急遽義景自らが総大将として出陣し、侵攻作戦を成功させた。
(朝倉氏の当主が自ら国外に出陣するというのは明応4年(1495年)以来となる。
極めて異例のことなのだった。)
この『景晃事件』により、敦賀郡司家(朝倉景紀)と大野郡司家(朝倉景鏡)の対立は決定的なものとなり、このことが朝倉氏滅亡の遠因ともなった。
(史実では、弟の朝倉 景恒が還俗して敦賀郡司を務める事となった。この世界では景晃は健在。)
同9月
稲葉山城に浅井の 『三つ盛り亀甲』 の旗が翻った。
浅井家は、かねてからの計画の通り、稲葉山城を穏便に奪取した。
一色家の職務権限を停止して、浅井家が守護代として支配した。
すでに、浅井家の美濃守護代就任の噂は隅々まで広まっている。
これは、将軍足利義輝公からの美濃平定命令に基づく物だ。
西美濃より静々と、接収作業を開始したが、国人衆・地侍への周到な根回しにより思ったよりも混乱は少なかった。
明智や竹中そして西美濃の者達の協力のおかげであろう。
それにしても、幕府のご威光というものはなかなか侮れないものである
「まあ、竜興から俺に乗り換えるだけだしな……」
「「身も蓋もございませんね」」
友松・長親が声を揃え感想を述べた。
何より、竜興に指導力と人望がなかった。
織田信長の攻勢を撥ね退けられない時点で、信望をなくしている。
美濃を襲い、町を焼き払う敵(信長)より、将軍さまが推す優秀な人物の方が心理的にも従いやすいのであろう。
俺は、浅井家に守護代を任せるとしか命令を聞いていない。
本当は、一色家が守護、浅井家が守護代で補佐するというのが、将軍義輝公の意向なのかもしれないが、伏せておこう。
きちんと説明しない者、勘違いする奴が悪い。
それに、一色家という家名も、すでに馴染みが薄く、胡散臭くて怪しすぎる。
道三が、伊勢攻略を意識して息子に名乗らせたのは分かる。
が、美濃の国主として一色家をいきなり名乗ったのは、いささか不味かったな。
これも義龍の失敗であろう。
無駄なこと(弟が良い家柄の姓を名乗った)に、こだわりすぎたせいである。
竜興が悪いわけではない。
(義龍が浅井を攻めなければ、俺はトキの飼育を譲ってやったのだ。)
とはいえ竜興を擁護する勢力も一応あるにはあったので、今はこれを懐柔しているところである。
現在、龍興擁護派は、龍興を連れ出し飛騨方面に逃がれている。
別に、手酷いことしてまで、排除をするつもりはなかったのに……。
美濃攻略が多少予定よりも早まってしまったので、信長の動向には要注意だ。
まあこれ以降は、信長とは、美濃の権益をめぐり対立することとなるだろう。
噛み破られないように気をつけよう。
― 平定の数日後 ―
とか言っているそばから早速攻撃を受けた。
威力偵察だろうか?
とはいえこちらには半兵衛が居る、防衛戦であれば、何も問題なかった。
信長から美濃を守ることで、守護代浅井家の人気は上昇した。
「さすがは半兵衛、見事である。」
「いえ、それほどでもございません」
半兵衛のお陰で守りも万全である。
11月
浅井家が平定して以降の、信長の美濃攻略の勢いは思った以上におとなしかった。
数度の敗北の後、相当にこちらを警戒をしているようだ。
― 閑話 ―
木下 日出吉が、ちょろちょろ敵地(美濃)に赴き工作活動をしていた。
猿のようにちょこまか動き回るさまは、サルのアダ名に恥じないものがある。
川の浅瀬確認とか、敵情視察など、細々した働きをしているようだ。
しかし、まだまだ実績が足りず、ようやく足軽組頭になったばかりである。
身分が低すぎる為、調略はまだできないようだ。
新領主の浅井公になってから、美濃は復興の兆しを見せ始めている。
調略も難しいであろう。
「儂はいずれ、城持ちになる男だがや」が、彼の口癖だが、未だ機会が得られず燻ぶっている。
まだ、めぼしい戦果をあげてはいない。
『桶狭間の激闘』で勇躍した赤母衣衆の前田利家とは、残念ながら過去に面識がある程度である。
日出吉は、足軽の娘 ”よね”(平仮名のみ読み書きできる)と結婚したため難しい文字が書けない。
妻の実家も足軽ゆえ、あまりアテにはならないのだ。
(ゴメンもう寧々は、結局小谷に引きぬいた、彼女はすでに子持ちだ。)
『日出吉』の名は、日の出が良いとも、日吉が出るともとれ、割りと目出度い名前である。
難しい漢字が苦手な夫婦が考えたと思えば、微笑ましい名前である。
(だいたい、信秀公の”秀”を使うなど、無礼千万である。)
浮気をするほどの甲斐性もない日出吉は、よねと仲良く暮らし子宝にも恵まれた。
いつもは、定時に帰る良きパパである。
割とあっさりと美濃を支配してしまいました。




