謀略の開始
こちらの世界で、稲葉山城乗っ取りは起きるのでしょうか?
永禄6年
世の中は、慌ただしく動いている。
三好義興は、三好長慶の嫡男で嗣子であった、将来を有望されていたが、父より先に早世した。
この事が、三好家に影を落とす……。
それに引き替え、小谷は平穏だ。
まあ、江南の方はとても騒がしいし、俺の所にもいろいろ言っては来るが、それでも平和である。
縁の方が懐妊した。
正妻だからな!一応報告しておこう。
永禄7年(1564年)
これから歴史が慌ただしく動き出すと思う。
より一層、気を引き締めていきたい。
嬉しい報告が、京より届いた。
俺は、将軍.足利義輝公から 『近江・美濃』の守護代を命ぜられた。
ははは、大義名分を得たぞ。
これで、美濃に堂々と介入出来る。
先ずは、『守護代就任』の噂を美濃の国人衆に流そう。
まずは、様子見だ。
2月吉日
弟の浅井政元(16)に久我家から鞠姫(17)が輿入れした。
祝言を盛大に執り行ってやる。
「皆の者!宴会だ~」
「「「「お~っ!」」」」
政元が照れて可愛いぞ。
まあ鞠姫の方がもっと可愛いがな。
下の弟の政之が、羨ましそうに政元、いや鞠姫を見ている。
「おまえにもいい縁談が来るから、そう羨ましそうな目で嫁御を見るな」
「兄上は沢山の奥方がいてズルイです」
「良し判った、政之自分が好きな子を連れてこい!俺は、そうしたぞ。キリッ」
「そ、そんな~、意地悪しないでくださいよ兄上~」
「判った判ったそんな情けない声を出すな」
「絶対ですよ!」
「はいはい」
さて、話は変わる。
小牧に移った信長は、それなりに竜興を圧迫している。
特に東美濃の有力領主である市橋氏・丸毛氏・高木氏などが悲鳴を上げている。
信長は、西美濃4人衆が結束を固めているの関係で、東美濃の方へ進出する様子だ。
天下の堅城.稲葉山城のお蔭で辛くも持ち堪えているが、先行きは暗そうだ。
すでに城下町が戦火にさらされ荒廃している。
信長のもくろみ通りであろう。
しかし、史実と異なり、小牧山にはあまり商人が移住していない。
人情として、自分の店を焼いた犯人の思惑に乗りたくはないのであろう。
いくら、『楽市楽座』を謳っても、そう易々とは信用出来まい。
その関係で商人の多くが新天地を求め長浜に移住した。
信長のもくろみ通りに進みながらも、少しづつ当てが外れていく。
斉藤方もまだ何とか結束を保っている。
ただ、斉藤竜興は信長の圧力からか酒色におぼれ、あまり良い状態ではないらしい。
父親の死でいきなり14歳で家督を継いで、生存戦争ではさぞ辛かろう。
せめて、父親が江北侵攻を起こしていなければな。
同盟者として浅井の援軍を期待出来たのに、今の竜興にはそれができない。
立場上は久政の孫(甥)にあたるのだが。
当主が俺に変わった上に斉藤方は先代が侵攻したので、どうにもならず歯がゆいだろうな。
永禄4年の森部の戦いにおいては、戦いそのものには勝利したものの、重臣(斎藤六宿老)の日比野清実・長井衛安などを失っている。
永禄5年には、有力家臣であった郡上八幡城主の遠藤盛数が病没している。
新加納の戦いでは、最終的に稲葉山城下にまで侵入を許してしまっている。
信長はしつこい、偏執的にしつこすぎる。
竜興は八方ふさがりのジリ貧である。
義従兄の俺と比べられることが多く、それが気にくわないらしい。
時々かんしゃくを起こし、何度か杭瀬川を越え軍を起こそうとしたらしい。
その度に、三人衆が慌てていさめているみたいだ。
現在の斎藤家は、敵である信長に対抗する為に家臣が仕方なく結束している状態だ。
尾張兵は弱いが、めちゃくちゃしつこいのだ。
さすがの三人衆も気が重いだろう。
何とか、浅井氏を味方に付けなくてはと協議を重ねる毎日だと報告を受けている。
たまに、小谷に使者としてやってくる彼らの表情は苦悩に満ちている。
斉藤家家中も綻びはじめている。
すでに信長方に義龍の弟の斉藤利治がいる。
彼は、長良川の戦いの後、信長に保護されているのだ。
義龍の弟の斎藤利堯、堀秀重 、坂井政尚が、俺を頼ってきた。
櫛の歯が抜けるように美濃の人材が欠けていく、その分負担は確実に増えていく……。
織田家がいる以上、すぐに東美濃の領地は手に入らないだろうが、人材は手に入れたい。
浪人となった者達を召し抱える為にも、明智光秀・竹中重元の伝を使いつなぎを取る。
「本当はテコ入れをしてやりたいのだが…まだ時期尚早だ」
「ははっ、…」
「お気遣いありがたき幸せにございます」
やはり、織田の動向が気になる。
話は変わりますが、……。
忍者部隊は使えます。
俺の配下に就いた甲賀衆の分家の忍者を旗本・御家人に取り立てたら、スゴク頑張ってくれます。
早速、本多正信、本多正重、渡辺守綱、蜂屋貞次、夏目吉信、内藤清長を一揆勢から引き抜いてきた。
(玉石混淆かもしれません?)
松平に未練が残らないように浅井流に再教育します。
家族も呼び寄せてやりました。
三河とは違い、しっかりと武士として生活が出来るように配慮しました。
まずは、以前接収した今浜の城にて、絶賛拡充中の屯田兵の訓練指揮官を努めてもらいます。
基礎訓練と実戦さながらの訓練を指導してもらいます。
三河武士の清廉さ精強さを、他の部隊に転写します。
代わりに部隊の指揮官として、人の上に立てる幸せをあたえましょう。
城下の屋敷もつけます。
それに並行してですが。
国人領主にも小谷城下に屋敷を建てさせます。
『須賀谷温泉』のおかげで、かなり皆の抵抗感が薄れました。
次男三男以降の子息を浅井家直属にし、徐々に領主権限を引きはがします。
ゆくゆくは、兵力を引きはがし豪農家化させるか、指揮官として引き込み、所領の経営をこちらが預かるようにしていこうと密かに算段しておりますが、それは天下統一以降の話です。
国人領主のサラリーマン旗本化、有力家の格式としての石高(一定)を認めつつ(本領安堵的な処置)
サラリーマン武将として、個人の能力給の貫高(昇給ありという、褒美)
長男のみ多少は優遇するが、基本給プラス能力(階級)給とする。
卒、兵、曹、尉、佐、将、帥 (でいいのかな?)
という階級にして、親の功績評価を蔭位の制度として加味して運用していく方針、現在いろいろ考え中。
7月に三好長慶が病死した。
長年の政敵が消滅した将軍足利義輝公は、これを好機としてとらえ、いよいよ中央においても幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。
精力的に取り組んでいるようである。
西美濃衆の後詰めが遅れた結果。
再度、稲葉山城が包囲されることとなった。
加納の町はまたもや焼かれた。
「も~、やり過ぎだ、美濃地方が商売にならんじゃないか」
隙を見計らい津島方面に忍びを放った、オレ流情報戦を展開した。
同7月
信長は頭を抱えていた、斉藤を良いところまで押せそうで押せない。
信長は小牧から出撃を頻繁に繰り返している。
しかし後一歩が届かない。
尾張の兵は弱い、金に糸目を付けず鉄砲を買い込み強化しているが、川が邪魔なのだ。
足軽の死傷者も馬鹿にならない。
いくら使い捨てにするとは言え、本当に使い捨てにしたら足軽など集まらない。
そうでなくても、足軽市場もそれなりに気を遣う者なのだ。
集まる足軽は罅の食事、食う寝る遊ぶ、を目的に参加している奴らなので、恩賞目当てでもないし、負けそうだとすぐに逃げる。
頼りないのだ。
装備や訓練も必要なのだ。
兵とはタダではないのだ。
織田と斉藤の争いは、消耗戦の様相を呈している。
小競り合いでも、目をかけている将来有望な指揮官が死ぬこともあるのだ、正直堪らない。
それだけではない。
いくさとは金がかかりすぎるのだ。
相手を殺しても奪わねば金にならない。
金だ金、金がいる。
しかも、小牧城下に思ったほど人が集まらないのだ。
正直家来や関係者しかいない。
商人も表向きは店を構えているが、御用商人以外はやる気が感じられないのだ。
人を集めねば儲からんし不便だ。
しかも、津島からの荷は輸送費が上乗せされる始末なのだ。
恒常的ないくさが流通に悪影響をあたえていると商人がほざいていた。
仕方がない強権を交えつつ、他の商人を優遇する仕草を見せて揺さぶりをかけてやろう。
そう思っている矢先。
「信長は小牧に商人を集める為にいうことを聞かない津島の町を焼き払おうとしている。かも?」
不便な小牧への居城の移動に訳も判らず不信感を抱いていた、津島衆。
加納の町が焼かれたばかりだし、津島も焼かれると素直に思い込んだ。
『津島騒動』である。
織田の台所である津島衆をなだめるのにさすがの信長も手を焼いた。
楽市楽座で有名な信長だが、この時期は共産国バリに津島の商いを統制していた。
戦費をまかなうのがねらいだから、飴と鞭の使い分け状態だったのだ、彼は善人ではない為政者である。
居城が離れた為、目が届かず最終的には締め付けの強化と相成ったのだが騒ぎが拡散。
身の危険を感じた一部の商人は本店の規模を縮小して長浜の町に支店を出した。
小規模な商人や行商人も長浜に流れていく者もいた。
小牧で一発あてようと意気込む者もいたが、軍需品、軍の付随品以外は極端に流通状態が悪く苦労した。
いずれにせよ小牧・津島の発展が阻害されたのは言うまでもない。
半兵衛がいないので、大事件は今のところ起きなさそうですね。
信長も決定打が無いみたいです。




