第1話:春の出会いと、終わらない悪夢
本作は、世界の四割を牛耳る超巨大財閥の“狂犬”令嬢に執着されてしまった不遇な新入行員・南が、理不尽な社内イジメと絶望の淵から、たった一人の「静かな正義」を持つ上司に救われ、共に新しい春を掴み取るまでの物語です。
ざまぁ要素、そして少しずつ絆を深めていくピュアな人間模様を楽しんでいただければ幸いです!
それでは、第1話「春の出会いと、終わらない悪夢」をどうぞ。
桜の蕾がようやく硬い殻を綻ばせようとする、肌寒い春の日だった。
高校の卒業式を数日後に控えた私――江崎南は、まさか自分の人生がその日を境に根本から捻じ曲げられることになるとは、夢にも思っていなかった。
「ねえ、あなた。名前は?」
声をかけてきたのは、一人の少女だった。
水木 桃、十四歳。
その名前を聞いて、背筋が凍るような思いがしたのを覚えている。当時の彼女はまだ中学を卒業するかどうかという年齢だったはずだ。だが、その名を知らない人間はこの国にはいなかった。
世界の経済の四割にその名を連ねる、超巨大財閥「水木グループ」。その総帥の長女にして、未来の絶対的な女王。それが水木桃という少女だった。
噂に聞く限りの水木家は、まさに絵に描いたような名門だった。両親は慈悲深く、社会的な慈善事業に私財を投じる人格者として知られていた。年下の妹も、おっとりとした心優しい少女だと財界誌のインタビューで持て囃されていた。
――だが、長女の桃だけは、そのすべてから外れた「異端」だった。
弱者をいたぶり、面白半分で取引先を潰し、己の気まぐれと我儘の限りを尽くす。その残酷さは子供の域を遥かに超えており、財界の裏社会ですら「狂犬」と恐れられる諺のように響いていた。
「……江崎、南です」
震える声で答えた私に、桃はふっと美しい、しかし底冷えのする笑みを浮かべた。
なぜ自分が選ばれたのか。平穏に生きることだけをモットーに、目立たないように学生生活を送ってきた私には、皆目見当がつかなかった。ただの気まぐれだったのかもしれない。あるいは、私の怯えた顔が彼女の退屈を紛らわせる最高の玩具に見えたのか。
その日から、私の日常は崩壊した。
理由は問われない。ただ彼女が「気に入った」という、それだけの理由で、私は執拗な嫌がらせの標的にされた。
持ち物を隠され、陰湿な噂を流され、精神的に追い詰められる日々。放課後の教室で冷たい床に押し付けられながら、私は歯を食いしばるしかなかった。逆らえば、私の両親が細々と営む実家の小さな工場など、水木グループの力学を使えば一瞬で木端微塵にされると知っていたからだ。
「卒業までの一ヶ月、せいぜい私を楽しませてよね」
耳元で囁かれた悪魔のような声を、私は地獄の底から這い上がるような思いで耐え抜いた。
そして、耐えに耐えた末の卒業式。私は心の底から安堵した。もう二度と、この少女と関わることはない。彼女は彼女の、私は私の、交わることのない世界の住人なのだと、そう信じ込みたかった。
けれど、運命は残酷だった。
高校を卒業し、春から社会人として歩み出すことが決まったその日。私の就職先である「水木銀行」からの内定通知を握りしめていた私の耳に、再びあの悪夢のような報せが届いた。
――水木グループの御令嬢が、将来の幹部候補として、あろうことか同じ「水木銀行」に名を連ねるというのだ。
私の採用など、彼女の耳に届くはずのない末端の事務手続きの一つに過ぎなかったはずだった。だが、絶対的な権力を持つ者の耳には、都合の悪いことに、玩具の居場所さえ正確に届いてしまうらしい。
銀行の広々としたロビーに足を踏み入れた瞬間、私の背筋を冷たいものが駆け抜けた。
二年という月日が流れても、あの日の恐怖は色褪せていなかった。むしろ、社会という複雑な檻のなかで、彼女の牙はより巧妙に、より執拗に研ぎ澄まされていくことになる。
私の平穏な日常は、再び水木桃という名の狂気に支配された玩具へと、引き戻されたのだった。
第1話をお読みいただき、本当にありがとうございます!
卒業したはずなのに、就職先の銀行で再び悪夢の令嬢・水木桃と再会してしまうという最悪のスタートを切った南ですが、ここからどうやって理不尽な環境を生き抜き、そしてもう一人の主人公である「上司・佐藤啓吾」と出会っていくのか……!
次回、第2話「社会という名の檻」では、銀行という閉ざされた空間で繰り広げられる、さらに巧妙になった桃の嫌がらせと、息の詰まるような日常を描いていきます。
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それでは、次回の第2話でお会いしましょう!




