第1話 勇者が開始五分で死ぬ
勇者は、村の入口で死んだ。
到着して五分だった。
五分前まで、ルート村は祭りだった。
広場には色布が渡され、村で一番ましな机へ白い布がかけられていた。白い布は本当は寝具だ。村長の妻が今朝まで使っていた。
机には丸焼きの鶏。
焼いた蕪。
ミナの家から出した祝いのパン。
村長が用意した歓迎の挨拶は、羊皮紙三枚分あった。
「全部読む気ですか」
ニールは壇上で練習する村長へ聞いた。
「当然だ。村の歴史から話す」
「勇者様、魔王を倒しに行くんですよね」
「だから我が村の開祖が、川で大きな鯉を捕った話も必要だ」
「どこに必要が」
「歴史だぞ」
「鯉ですよ」
「当時は貴重だった」
ニールは机の脚を直していた。
一本だけ短い。古い板を薄く切り、下へ挟む。
「聖剣を置いたら壊れない?」
ミナがパン籠を運んできた。
「置かないだろ」
「勇者様の剣、すごく重いって」
「何で知ってる」
「旅の商人が言ってた。金貨千枚分の金を使ってるって」
「純金なら曲がる」
「夢がない」
「鉄のほうが強い」
「もっと夢がない」
村の子どもたちは街道へ並んでいた。
勇者が来たら花を投げる。
ただし花が足りなかったため、半分は干し草を持っている。
「これも投げるの?」
「勇者の前じゃなく、馬の前に置け」
「食べる?」
「馬はな」
「勇者様は?」
「パンを食べる」
「馬より弱い?」
「本人へ聞くなよ」
鐘が鳴った。
白銀の馬車が見えた。
村人は歓声を上げた。
世界最強の勇者が、世界の端にある小さな村へ来る。
村人は本気で信じていた。
この青年が魔王を倒す。
戦争を終わらせる。
徴兵された息子たちが帰る。
高くなった塩も、また買える。
子どもが夜に泣かず眠れる。
誰も、勇者本人を知っていたわけではない。
希望へ顔と名前がついていれば、それでよかった。
馬車の扉が開いた。
レオンが降りる。
子どもが花を投げた。
一人が間違えて干し草を投げた。
レオンの顔へ貼りついた。
「誰だ!」
その声に驚いた馬が前脚を上げる。
御者が手綱を引く。
荷台から、調理道具が飛んだ。
鍋が空を舞った。
勇者の額へ当たった。
レオンは倒れた。
村長の挨拶は一行も読まれなかった。
「勇者様――!」
誰かが叫んだ。
村人は逃げた。
ニール・アルバートは逃げなかった。逃げる前に、勇者の下敷きになっていたからだ。
ニールの父は、逃げるときは荷物を持つなと言っていた。
火事。
洪水。
魔物。
迷った時間だけ死へ近づく。鍬も財布も置いて走れ。
ただし家畜を逃がせるなら、柵は開けろ。
「牛は自分で逃げる。人間より道を知ってる」
父はそう言っていた。
三年前、森で倒れた木の下敷きになって死んだ。
逃げる時間はなかった。
それからニールは、起こる前に見るようになった。
雨の前の雲。
崩れる前の土。
折れる前の枝。
病気になる前の葉。
未来を当てるのではない。
今ある小さな変化を見落とさない。
母は父より現実的だった。
「見つけても、直さなければ同じだよ」
毎朝、ニールより先に畑へ出る。
鍬の扱いも、種の選び方も、母のほうがうまい。
農業九十四の息子より上にいる二人の一人だ。
もう一人は祖母。
祖母は、空を見て翌月の雨まで当てた。
「膝が痛むからね」
「天候予測では?」
「膝予測だよ」
魔王軍が来た朝、祖母の膝は痛まなかった。
「雨は夕方だ」
ニールはその言葉を信じた。
世界修正権限より先に、祖母の膝が村を救っていた。
「重い」
王国正式勇者レオンは、見た目より重かった。白銀の鎧。金色の聖剣。旅人なら三年は暮らせそうな値段の外套。全部を合わせれば、村人一人を潰すには十分だ。
「ニール!」
幼なじみのミナが、道端から石を拾った。
「待て。何をする」
「勇者をどかす」
「石で?」
「てこの原理で」
「俺の頭を支点にするな」
ミナは石を捨てた。パン屋の娘にしては判断が速い。
二人で勇者を転がす。
レオンは仰向けになった。美青年だった。白銀の髪には泥一つなく、閉じた目元には悲壮感さえある。
ただし額に鍋が刺さっていた。
「死因、鍋?」
「鍋ね」
ミナがうなずいた。
「勇者って鍋で死ぬのか」
「死んでない!」
レオンが目を開けた。
ニールとミナは一歩下がった。
「死んでないぞ!」
「額に鍋が刺さってます」
「これは魔族の暗器だ!」
「鍋です」
「暗黒の鍋だ!」
「焦げてます」
勇者は立とうとした。
立てなかった。
「脚がしびれた」
「ずっと正座してたんですか」
「馬車の中で精神統一をしていた」
「やめたほうがいいですよ」
「勇者に指図するな!」
レオンが聖剣を杖にして立った。
村の外では、黒い軍勢が丘を埋めていた。
魔族だ。
角を持つ兵士。牙のある兵士。羽の生えた兵士。みな黒い鎧を着ている。先頭には、村の家より大きな投石機まであった。
旗には銀色の文字が刺繍されている。
『冥界絶滅暗黒竜王砲』
ニールは目を細めた。
「あれ、投石機ですよね」
「愚かな村人よ。あれこそ魔王軍の秘宝、《冥界絶滅暗黒竜王砲》だ」
魔族の将軍が笑った。
「巨大な投石機じゃないですか」
「違う!」
将軍は傷ついた顔をした。
「どこが」
「名前が違う!」
「名前以外は?」
「投石機だ!」
村人たちは家々の陰から見守っていた。逃げたのではない。遠くへ行く道を魔王軍に塞がれているので、近くに隠れただけだ。
勇者レオンが金色の聖剣を抜いた。
風が鳴った。
光が剣身へ集まる。
「待たせたな、民よ!」
立ち姿は完璧だった。
「我が名はレオン! 三千年前、天神アルカディアが鍛えし聖剣の継承者! 王国騎士団筆頭にして――」
「刃、こぼれてますよ」
ニールが言った。
レオンの声が止まった。
「聖なるこぼれだ」
「研いだほうがいいですよ」
「神の聖剣を研げと?」
「鎌は毎年研ぎます」
「鎌と一緒にするな!」
魔王軍から石が飛んできた。
レオンは聖剣を振り上げた。
「天光斬――」
石が当たった。
勇者は地面へ倒れた。
今度は起きなかった。
静かになった。
魔族も静かだった。
投石機の係が、おそるおそる将軍を見た。
「当たりました」
「見ればわかる」
「勇者に?」
「見ればわかる!」
「狙ってなかったんですが」
「言うな!」
ニールは勇者の首筋に指を当てた。
脈はない。
ミナもしゃがんだ。
「死んでる?」
「死んでる」
「さっきもそう言って生きてた」
「今回は本当に死んでる」
「勇者って二回死ぬのね」
「一回目は俺たちの早とちりだ」
レオンが村へ来てから、五分。
世界の希望が終わった。
雲の切れ間から光が落ちた。
勇者の体が白く輝く。
村人たちが歓声を上げた。
「奇跡だ!」
「勇者様が生き返る!」
「神は我々を見捨てていない!」
勇者の体は光の粒になって消えた。
歓声も消えた。
金色の聖剣だけが残った。
剣は一度、横へ倒れた。
弾んだ。
ニールの足の甲に落ちた。
「痛い!」
空に巨大な文字が現れた。
『勇者の死亡を確認しました』
世界中の空に出たらしい。遠くの魔族も見上げている。
次の文字が浮かんだ。
『世界救済システムを緊急起動します』
「何だ、あれ」
魔族の将軍が呟いた。
ニールにもわからなかった。
『代替救済者を選出します』
空から一本の光が下りた。
王国の方向ではない。
騎士団の方向でもない。
神殿でも、魔法学院でもなかった。
光はニールの頭に当たった。
熱くはない。
まぶしいだけだ。
『選出完了』
「間違いです」
ニールは空へ言った。
『個体名、ニール・アルバート』
「合ってますけど間違いです」
『職業、村人』
「そこも合ってます」
『世界修正権限を付与します』
目の前に半透明の板が現れた。
文字が並んでいる。
『修正対象を確認しました』
『対象――魔王軍によるルート村襲撃』
『この失敗は世界滅亡へ接続します』
『原因を変更してください』
「原因?」
ニールが首をかしげた瞬間、投石機がもう一度きしんだ。
「全軍、攻撃再開!」
魔族の将軍が我に返った。
「勇者は死んだ! 村を焼け!」
巨大な石が放たれた。
狙いは村の中央だ。
あそこには穀物庫がある。火が移れば、村は終わる。
『修正候補』
一、投石機を破壊する。
二、砲弾を消滅させる。
三、勇者を蘇生する。
すべて赤い文字だった。
『実行不能』
「何ができるんだ、この権限!」
石が迫る。
ニールは空を見る。風は西から東へ吹いている。朝から強くなっていた。雲の形と燕の飛び方を見れば、夕方には雨になる。
投石機の右脚は泥へ沈んでいた。
昨日、村の子どもが水路の堰を壊したからだ。ニールは今朝から直す予定だった。
直していない。
魔王軍が来たせいだ。
「あの水路を切る!」
ニールは走った。
「何をするの?」
「村を救う!」
「勇者みたいなこと言ってる!」
「水路で!」
「急に村人へ戻った!」
ニールは畑の脇へ飛び込んだ。土を掘るための鍬が置いてある。
聖剣は足元に落としたままだ。
鍬を取る。
魔族の将軍が笑った。
「狂ったか! 鍬で我が軍に挑むつもりか!」
「水を通すんです!」
「戦え!」
「嫌です!」
ニールは畦を崩した。
水路から濁った水があふれる。畑を横切り、ゆるい傾斜を流れた。
量が足りない。
「ミナ! 上の堰を外せ!」
「外したら畑が水浸しになる!」
「村が燃えるよりいい!」
「お父さんに怒られる!」
「世界が滅びる!」
「じゃあ、お父さんも怒られないか」
「そういう問題か?」
ミナは走った。
丘の上の堰を蹴る。
外れない。
もう一度蹴る。
やはり外れない。
ミナは石を拾った。
「結局、石を使うのか!」
「石は便利よ!」
金具を叩く。堰板が倒れた。
大量の水が流れ込んだ。
泥へ沈んでいた投石機の脚を洗う。支えの土が崩れる。
投石機が傾いた。
発射された石の軌道がわずかにずれた。
穀物庫を越える。
村長の家へ落ちた。
「わしの家!」
村長が叫んだ。
「村は救いました!」
「わしの家は村ではないのか!」
「一軒です!」
投石機はさらに傾いた。
倒れた先には、魔王軍の兵站用荷車が並んでいる。
投石機の長い腕が荷車を叩き潰した。
干し肉。小麦。水樽。予備の矢。全部が地面へ散る。
魔族たちが悲鳴を上げた。
「昼飯が!」
「給料袋もあそこだぞ!」
「今月分が!」
将軍の顔色が変わった。
「落ち着け! 食料がなくとも村を落とせば――」
「あの村、百二十人しかいません!」
「備蓄は!」
「冬越し用です!」
「奪え!」
「冬越し用を?」
「奪え!」
「我々、七百人です!」
魔王軍がざわめいた。
七百人分の食料を百二十人の村から奪う。算術のできる兵士ほど暗い顔になった。
ニールは倒れた投石機を見た。
地面に散った小麦袋。
西風。
魔族の黒い外套。
そして、畑の端に生えている乾燥前の眠り草。
「ミナ。眠り草を刈れ」
「百人分?」
「七百人分」
「在庫がないわ」
「畑にある」
「あれ、薬にする前は効かないわよ」
「粉にすれば効く。パン屋の石臼を使う」
ミナの目が光った。
「小麦粉に混ぜる?」
「違う。風上から撒く」
「それ、パン屋の仕事?」
「今日からだ」
村人たちが動いた。
ニールが命令したからではない。
やることが具体的だったからだ。
農夫が眠り草を刈る。
パン屋が石臼を回す。
子どもが袋を運ぶ。
村長は壊れた家の前で泣いていた。
「村長も手伝ってください!」
「家が!」
「あとで屋根を直します!」
「壁もない!」
「風通しがいいです!」
「冬なんだぞ!」
眠り草の粉を麻袋へ詰める。
ニールは風を見る。
まだ西風だ。
「今だ!」
村人たちは粉を撒いた。
薄緑の雲が魔王軍を包む。
「毒だ!」
魔族が布で口を覆った。
「眠り草です!」
ニールが訂正した。
「教えるな!」
ミナが頭をはたいた。
だが遅い。
魔族の兵士が一人、倒れた。
もう一人。
次々に膝をつく。
「我々は鍛えられた魔王軍だ! この程度で――」
将軍も倒れた。
いびきが大きかった。
眠らなかった兵士は逃げた。荷車も投石機も捨て、丘の向こうへ消えていく。
村人たちは、しばらく動かなかった。
誰も勝ったと理解できていない。
ニールにも理解できなかった。
半透明の板に文字が出た。
『原因変更を確認』
『魔王軍は兵站喪失により撤退』
『ルート村襲撃――修正完了』
『世界滅亡まで、残り三十日』
数字が空に刻まれた。
『30』
雲より大きな赤い数字だった。
世界中から悲鳴が聞こえた気がした。
ニールは半透明の板を見た。
「村を救ったのに、減ってない」
『世界滅亡の主要因は未修正です』
「主要因は何だ」
『情報開示権限が不足しています』
「世界を救わせたいんだよな?」
『はい』
「教えてくれ」
『権限が不足しています』
「役に立たないな!」
『緊急代理人からの暴言を記録しました』
「そこは記録するのか!」
足元で、金色の聖剣が震えた。
ニールは拾わなかった。
代わりに鍬を担いだ。
魔王軍は追い払った。だが村長の家は壊れ、畑は水浸しだ。眠っている魔族七百人も、目を覚ませばまた敵になる。
「まず何をする?」
ミナが聞いた。
「捕虜を縛る」
「その次は?」
「村長の家を直す」
「世界は?」
「その次だ」
空の数字が、二十九へ変わった。
「順番、逆じゃない?」
「雨が来る。屋根が先だ」
その日、勇者は死んだ。
村人が世界救済の代理人になった。
そして世界を救う最初の仕事は、村長の屋根に板を打つことだった。




