第十章 動乱の序 【5.毒盟の夜】
壬生成宗が向かった先は、坂東の外――下野の断崖に築かれた唐沢山の砦であった。
そこに巣食うのは、“怪物”と恐れられる藤原秀郷。己の誤算を埋めるため、成宗はついに禁断の扉を叩く。毒を含んだ蜜のような提案に成宗は揺れ、ついに“毒盟”を結ぶ。
【5.毒盟の夜】(とくめいのよる)
行方郡司・壬生成宗は、己の誤算と焦燥を抱えながら、静かに、しかし確かに、常陸国に新たな火種を撒く、その歩みを進めていた。
その先に待つのは、唐沢山の断崖に巣食う“怪物”との密談であった。
――断崖絶壁に囲まれた天然の要害。
唐沢山に入った成宗は、思わず息を呑んだ。
櫓を乗せた棟門をくぐると、正面には高い土塁が立ちはだかり、進路は屈折して敵の侵入を阻む構造となっている。土塁の上には丸太の乱杭が並び、逆茂木が至る所に張られていた。
さらに奥へ進むと、秀郷の居住する主屋が、いくつもの倉と並んで建ち、数十人の郎党や下人がせわしなく詰所と倉の間を行き来していた。
主屋の広間に通された成宗は、粗雑で質素な造りに、かえって底知れぬ力強さを感じていた。
やがて、成宗が待つ広間に、ゆっくりと足音が近づいてきた。
現れた男は、その場の空気を一変させた。
彫りの深い顔。眉間の骨ごと突き出した濃い眉。獣のように光る眼。
黒々とした髭は顎を荒々しく縁取り、首は太く、狩衣の袖口から覗く前腕は毛深い。
成宗はその容貌に、異形を感じ、思わず息を呑んだ。
秀郷は成宗の前に座すと、しばし沈黙した。
その沈黙は、ただの思案ではない。獲物を値踏みする獣の静けさ であった。
「……汝の頼み、よく分かった。」
低く落とされた声は、承諾とも拒絶ともつかぬ曖昧な響きを帯びていた。
成宗は胸の奥でわずかに息を継ぐ。
だが、秀郷はすぐに扇を閉じ、その目に冷たい光を宿して言い放った。
「ただし、我にも条件がある。」
成宗の背筋が、見えぬ刃でなぞられたように強張った。
秀郷は身を乗り出し、声を潜めた。
「朝廷は、“乱行の廉”により、“我を追討すべし”と官符を発した。
――下野・上野・下総・上総・武蔵、そして常陸の六か国にだ。」
その口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
「余程、我が怖いらしい。
勿論、汝の主人――常陸介・維幾も受諾したはずだ。」
秀郷の眼差しが、成宗の心の奥底を抉るように射抜く。
「――そこでだ。」
秀郷は、まるで毒を含んだ蜜を差し出すように囁いた。
「汝は、我が常陸国府を襲う手助けをせよ。
さすれば我が、信太浮島を蹂躙してくれよう。」
成宗の喉がひくりと震えた。
「国府を……裏切れと……。維幾さまを……。」
秀郷は、成宗の動揺を楽しむように目を細めた。
「常陸には、もはや我を止める軍などない。源護も、国香も、良正も、皆討ち死にした。貞盛めが如き孺子は、兵を動かす胆力もない。」
成宗の胸がざわついた。
(……確かに、今の常陸には“柱”がない。)
秀郷はさらに言葉を重ねた。
「将門は強い。だが、あれは“義”に縛られすぎている。国豊も同じだ。忠平卿の屋敷で見たが、あの孺子は人を殺す胆力に欠ける。」
成宗は息を呑んだ。
(……この男は、将門も国豊も見ているのか。)
秀郷は続けた。
「だが、国豊を殺すのは駄目だ。奴は藤の氏長者のお気に入りだからな。
それをすれば、今度こそ我の逃げ道が無くなる。」
そして、成宗の胸の奥に潜む欲望を、まるで見透かしたように囁いた。
「汝は信太が欲しいだけであろう。良く考えることだ。」
秀郷はにんまりと笑った。
「壬生殿は、良い時宜に我を頼ってきた。其方は本当に運が良い。」
その笑みは、人懐っこさを装いながら、底に鋭い毒を隠していた。
成宗はその笑みに、背筋を冷たいものが這い上がるのを感じた。
(……この男は、国府も、坂東も、すべて呑み込むつもりだ。)
だが同時に、成宗の胸には、抑えがたい欲望が芽生えていた。
(信太浮島……あの豊かな地さえ手に入れば……。)
その夜、壬生成宗は、己をも蝕む“毒の盟約”を結んだ。
唐沢山の砦にて交わされた密談は、ただの盟約ではなかった。
壬生成宗が差し出したのは、信太浮島を奪うための“手引き”であり、藤原秀郷が求めたのは、常陸国を揺るがす“暴虐の扉”であった。
二人の思惑は交わり、毒を含んだ蜜のように甘く絡み合った。
そして成宗は、国豊を討ち、信太浮島を滅ぼすために動き出した。
壬生成宗は、秀郷の差し出した毒杯を飲んだ。だが、この“毒盟”は成宗ひとりの運命では終わらない。坂東全土を巻き込む破局の連鎖が、ここから始まる。次章(下巻)では、秀郷が動き、上総の平良兼が動く。




