第十章 動乱の序 【4.壬生氏の誤算】
常陸国の行方郡司・壬生成宗は、国豊暗殺の失敗以来、国府から距離を置き、自領で機を窺っていた。しかし源護・国香・良正が相次いで討たれ、常陸は“軍事的空白”の国と化す。さらに平将門の台頭により、成宗の思惑は崩れ去る。信太浮島を奪う好機と見た成宗だが、兵力がない。
誤算が誤算を呼び、成宗は追い詰められ、ついに坂東の外へと禁断の手を伸ばす。
【4.壬生氏の誤算】(みぶしのごさん)
常陸国・行方郡司、壬生成宗は、ここ数年の情勢の変化を、肌で感じていた。
かつては、常陸介・藤原維幾とその子・為憲の命を受け、国豊と玄明の討伐を任されていた壬生氏であったが、国豊暗殺に失敗して以来、成宗は国府に顔を出すこともなく、自領に籠り、機を窺っていた。
成宗には、当初、揺るぎない勝算があった。
常陸国内には、桓武平氏の祖・高望王(平高望)を中心とした姻戚の網が張り巡らされ、その与党は国中に根を張っていた。
高望王の娘婿である常陸介・藤原維幾は、平国香とは義兄弟の間柄にあり、国府の権力を背景にした典型的な軍事貴族である。
壬生成宗は、この維幾一門との姻戚関係を基盤としていたため、信太浮島の一族など、ひとたび兵を挙げれば容易く討ち滅ぼせる――そう高を括っていた。
しかし、情勢は成宗の思惑を裏切った。
国豊は、古族大中臣の末、香取氏と縁組し、近隣の他の古族との紐帯も強めていた。さらに平将門の岳父、大国玉の領主である平真樹とも同盟を結び、もはや軽々しく手を出せる相手ではない。
藤原玄明に至っては、相変わらず信太北部で堅固な防備を敷き、兵の強化にも余念が無く、こちらも攻め口が見つからない。こうした膠着状態が、すでに数年に亘って続いている。
そこへ、さらに悪い報せが重なる。
平高望の三男・良将の嫡子
――平将門 の台頭である。
源護と平真樹の境界争いに端を発した紛争で、調停に訪れた将門を、源護の子・扶ら三兄弟が待ち伏せして襲撃したが、逆に将門に追撃され、三人とも討ち死にした。
将門はその勢いのまま伯父・国香をも追撃し、真壁郡石田の館を焼き払い、国香を討ち取った。
源護の娘婿である水守の良正も、報復のため川曲で将門と戦ったが、多くの兵を失い、惨敗して逃げ帰った。
成宗は、歯噛みした。
「……平将門め。まったく、目障りな奴が現れた。
あやつが動く限り、常陸の手駒が、我の思うが儘にならぬ。」
だが、同時に成宗は悟っていた。
――今、常陸は“空白”だ。源護も、国香も、良正も倒れ、維幾一門も動揺している。
この機を逃せば、信太浮島は二度と手に入らぬ。
(今こそ、国豊と玄明の所領を切り取り、信太を我がものとする絶好の機……。)
しかし、成宗には軍と呼べる兵力がない。
ゆえに、成宗は新たな「武の柱」を求めた。
(ならば――坂東の外から援軍を呼び込めばよい。)
成宗が白羽の矢を立てたのは、“下野の怪物”と恐れられる男であった。
――田原藤太…藤原秀郷。
秀郷は、ただの豪族の一人ではない。
延喜6年(916年)、隣国・上野国司への反逆に連座し、一族十七名とともに流刑を命じられた折、追手を逃れて密かに京へ上り、藤原忠平邸に寄食(食客)として潜伏したのち、鹿島氏・鳥取氏ら血縁の手引きで弟たちと合流し、密かに下野へ帰還した。
忠平卿は、すべてを知りながら、これを黙認して、そっと見逃した。
下野国への帰還後、秀郷は、断崖絶壁に囲まれた要害・唐沢山の頂に砦を築いた。南部の平野を一望できるその頂上は、まさに“下野を制する者の城”であった。
そこを本拠に、下野国内に止まらず、上野・常陸にも越境して村々を荒らし回り、周辺豪族を次々と屈服させ、秀郷の私兵集団は膨れ上がった。
そして延長7年(929年)、秀郷の乱行に窮した国府の長官、下野守・藤原弘雅は、遂に朝廷に訴え出た。朝廷は五か国(下野・上野・常陸・下総・武蔵)に追討の官符を発した。
これほど広範囲の命令は異例であり、秀郷の軍事力が手に負えぬほど強大であったことを示唆していた。
秀郷が追討官符をものともせず、「下野の怪物」と恐れられた背景には、姻戚である鳥取氏・鹿島氏といった下野の有力豪族の強力な支援があったことは言うまでも無い。
秀郷の一族は、父祖の代から、貴族の看板と在地勢力を巧みに融合しながら広大な開墾地を私領とし、多くの下人・郎党を養い、強力な騎馬武者集団を育て上げていたのである。
成宗は、この“怪物”に密かに使者を走らせた。
常陸の地は、いまや主柱を失い、風の向きすら定まらぬ“空白”の国と化していた。
壬生成宗は、その空白を埋めるために、ついに坂東の外へと禁断の手を伸ばした。
壬生成宗は、己の力では常陸を動かせぬ現実に直面し、ついに“外の力”へ頼る決断をした。その選択は、常陸の未来を変えるだけでなく、坂東全土を揺るがす動乱の序章となる。




