第七章 家門の重器 【3.水と山の怨】
【3.水と山の怨】(みずとやまのうらみ)
ある年の春、雪解け水が例年より多く、大国玉の田畑は水を欲していた。
真樹は、山裾の谷筋にある古い堰を修繕し、水を引こうとした。だが、その堰は、源護の祖父の代に築かれたものであった。堰は崩れかけ、水は山の奥へ逃げてゆく。
真樹は村人と共に修繕に取りかかろうとした。
その時、谷の向こうから馬の蹄音が響いた。
「大国玉の殿よ、その手を止められよ」
現れたのは、真壁郡石田の豪族・源護であった。
山風に揺れる松のように頑なな男で、その眼には山の民の誇りが宿っていた。
「その堰は、我ら真壁のもの。勝手に手を入れるは、領地を侵すに等しい。」
しかし、真樹もまた黙して退く男ではなかった。
「山の恩恵は、山だけが得るべきものではない。
――水は流れ、田を潤し、命を繋ぐ。
それを人の一族の利だけで縛るなど、大地の理に背く。」
真樹の声は静かであったが、その奥には、土地と人を守る者の揺るぎない意志があった。
源護の眉がぴくりと動いた。
この言葉が、源護の胸に火をつけた。
「理だと?堰は我らのものよ。山の流れを押さえるのは、山の民の務め。
欲しければ力で示してみよ。」
その言葉は、谷に響く雷のように重く落ちた。
真樹は黙して退かず、源護もまた一歩も譲らなかった。
この日を境に、両者の間には、深い溝が刻まれた。
初対立から数日。
谷筋の水路を巡る争いは、静かに、しかし確実に村々へ広がっていった。
夜ごとに、堰が壊され、田が荒らされ、牛馬が盗まれた。
「真壁の者どもが、また堰を塞ぎおった!」
「大国玉の若い衆が、山の木を勝手に伐った!」
互いの村人が睨み合い、田畑の境界で口論が絶えなかった。
真樹は、争いを避けるために何度も話し合いの席を設けたが、源護は頑として耳を貸さなかった。
「大国玉の殿よ。水は山のもの。山を押さえる我らが決めるのが道理よ」
その言葉には、代々の領地を守る執念が滲んでいた。
真樹は、村人を守るために太刀を抜くことも辞さなかったが、
同時に、争いを終わらせる道を探し続けた。
だが、
山と里の民の対立は、もはや小さな火ではなかった。
谷筋の風は、争いの匂いを運び、筑波山麓の村々に不穏な影を落とし始めていた。
ある夜。
大国玉の村で、堰を見張っていた若者が襲われた。
「真壁の奴らだ!」
「いや、大国玉が先に手を出したのだ!」
互いの村で怒号が飛び交い、
翌朝には、谷筋の道に血が落ちていた。
真樹は、倒れた若者の亡骸の前に膝をつき、静かに目を閉じた。
(……ここまで来てしまったか)
その背に、村人たちの怨嗟が重くのしかかる。
「殿、もう堪えられませぬ」
「真壁を討たねば、我らの田は守れませぬ」
真樹は、胸の奥に沈む重い石を抱えながら、ゆっくりと立ち上がった。
一方、真壁の源護もまた、自領の若者が傷つけられたと聞き、怒りに震えていた。
「大国玉を屈服させねば、真壁の未来はない」
その言葉は、もはや土地争いではなく、怨そのものだった。
こうして、筑波山麓の争いは、個人の意地や境界の曖昧さを超え、土地と一族の存亡を賭けた“怨の戦”へと変わっていった。
――そして、
この火種が、後に将門を巻き込む大きな戦へと繋がってゆくのである。




