5.焦燥
◆焦燥◆
MOON BOXの階段を降りると、いつもの匂いがした。
古い床のワックスと、少し湿った地下の空気。
ここまで来ると、「ああ、ライブだ」と身体のほうが先に思い出す。
受付でチケットとドリンクチケットを受け取り、遥とみこは、フロアへ向かう前の細い通路で立ち止まった。
「今日は対バン多いから、人多いね」
「だね。トビー見えるかな」
「でもさ、同じ空間にいられるだけで幸せだよね」
みこが、当たり前みたいに言う。
|DOLL THEATERは、ここ最近ずっとムンボを拠点にライブをしていた。
遥たちも、来られる日はほとんど通っていた。
そのとき、ふと視界の端に、見慣れないものが入った。
通路の突き当たり。
自販機の横の、少し陰になった壁。
そこだけ、色の違うコルクボードが打ち付けられている。
(……あれ、前からあったっけ?)
「ちょっと待って」
遥はそう言って、みこから離れ、ボードの方へ歩いていった。
近づいてみて、ようやく分かる。
上半分は、スタジオや楽器屋、音楽教室のチラシ。
下半分には、手書きの紙がいくつも画鋲で留められていた。
『Vo募集』
『Ba急募』
『サポートDr探してます』
雑誌の後ろのページでしか見たことのない言葉が、今は紙の質感ごと、目の前にある。
(メンバー募集……)
喉の奥が、少しだけ詰まった。
「遥~? なに見てるの?」
みこの声に、はっとする。
「掲示板……メンバー募集みたい」
「え、ほんとだ。こんなのあったんだね」
みこも隣に並び、一枚ずつ覗き込む。
『コピーから、慣れてきたらオリジナル』
『初心者ですが本気です』
『男性限定! やる気重視!』
紙に書かれた文字は、それぞれの温度があった。
どれも、遥には眩しく見える。
「遥、バンドをやってみたいんでしょ? どれか連絡してみたら?」
軽い調子で言われて、胸がきゅっと縮む。
「……やってみたい、けど……、まだ全然だし……」
一瞬、心が跳ねた。
でもすぐに、不安が追いかけてくる。
「初心者OKもあるよ」
「あ、でも男限定か……」
その文字を見た瞬間、視線が落ちた。
「……みこ、そろそろ始まる。行こ」
これ以上、掲示板の前に立っていられなくて、ライブを言い訳に、遥はフロアへ向かった。
照明が落ち、音が鳴る。
遥は、トビーのギターを見つめ、次にエリーのベースから目が離せなくなった。
当たり前だけど、全然違う。指の動きも、音の繋がりも。
エリーのベースは止まらない。一音、一音が、自然に次へ流れていく。
(エリーさん、凄いなぁ)
自分の右手が、じん、と疼く。
(どのくらい練習したらあれぐらい弾けるようになるかな)
視線は、またトビーへ戻る。
トビーの音は、やさしい。
聴いていると、曲の中にそのまま入っていける。
(どうやって、こんな曲を思いつくのかな)
トビーはくるくる回りながら優雅に演奏している。
ファンはリズムに合わせ腕を伸ばし手を揺らす。
遥も、自然にみんなと同じ振りをしていた。
(ベースを買ったって、報告したいけど)
曲の最後、みんなで手を繋いでジャンプ!
フロアが揺れる。
「みんなー!! 今日も僕たちと遊んでくれてありがとー!」
ピッピが笑顔で叫ぶ。
トビー、エリー、サミーも大きくお辞儀をして手を振る。
(今じゃない)
心の中で、そう言い聞かせる。
(もっと、自分の音が出せるようになってから)
「また夢の国で遊ぼうね! 待ってるよー! DOLL THEATERでした! バイバイ」
ステージは声援に包まれながら幕を閉じた。
夜。
帰宅して、何も入っていないポストを覗き、遥は小さく息を吐いた。
本当は、誰にも言っていないけれど。
少し前から雑誌のメンバー募集に応募をしていた。
返事は、来なかった。
――一度だけ、来たことはあった。
胸が高鳴って、震える手で開いた封筒。
そこにあったのは、短い一文だけ。
『募集しているのは男性のみです。ごめんなさい』
遥は、その紙を丸めて捨てた。
(私なんかじゃ、やっぱりダメなのかな……)
布団の上に寝転がりながら、今日見た掲示板を思い出す。
印刷じゃない手書きの文字。
あの生々しさに、正面から向き合えなかった。
(……疲れたな)
ゴロリと横を向く。
(今は、応募じゃない)
頭の中に、低い音が浮かぶ。
(練習しよう)
まだ誰にも届かない音。
それでも、弾けば確かにそこにある音。
遥は、そっと目を閉じた。
――次に鳴らす音のことだけを考えながら。




