3.まだ名前のない夢
◆まだ名前のない夢◆
DOLL THEATERのライブに行った翌週。
仕事帰りで疲れていた遥は自宅のポストを開けた瞬間、息が止まりそうになった。
白い封筒が、一通。
そこに書かれた文字を見た途端、視界が一瞬、揺れる。
『DOLL THEATER トビーより』
恐る恐る封筒をポストから取り出し、急いで家の中に入った。
封筒を持つ手が、じっとりと汗ばむ。
背負っていたリュックサックを床に放り、低いテーブルの前に座る。
改めて封筒を見た。
やはりトビーより、と書いてある。宛名は国東遥様。
(私宛だ!! やばい!)
胸の奥で、心臓が大きく鳴った。先週のライブ以上かもしれない。
遥は、できるだけ端から、はさみで丁寧に封を切って開けた。
中には折りたたまれた便箋が一つ。
ゆっくりと広げ、文字を追う。
――遥さんへ
お手紙ありがとう。この間はライブに来てくれてありがとう。
これからもピッピやあなたが笑顔になれるよう頑張っていくよ。
トビーより
遥は泣いた。返事の通りに笑顔になりたかったけど、涙は止まらなかった。
それから、遥はDOLL THEATERのライブに通い始めた。
行ける限りライブに足を運び、デモテープやCDを買い、毎日聴いた。
心を満たすために。
トビーからもらった風船も、手に入れた。一生の宝物になった。
ライブのたびに、ファンレターを書いた。
トビーは毎回丁寧に返事をくれた。
だから遥も少しずつ、色々な質問を書くようになっていった。
バンド名の理由。
コンセプト。
曲の作り方。
自分の家に居場所がなかったこと。
けれど今は一人暮らしで、少し気が楽なこと。
DOLL THEATERは、バンドの規模としては決して大きくなかった。
ライブは一回の公演で4~6バンドが順番に演奏する、対バンイベントが多い。
そのイベントを追ううちに、遥はたくさんのバンドの存在を知った。いろいろ
なライブハウスにも足を運んだ。
DOLL THEATERの世界はずっと遥の心を掴んで離さなかった。
けれど、対バンする他のバンドたちも、それぞれ良い音を鳴らしていた。
どのバンドも遥にはキラキラして見えた。
フライヤーが家の中で場所を取り始めていく。
捨てられない。
音楽雑誌よりも、ずっと新しいバンドを知る貴重な情報源だから。
バンドやライブハウスごとに、暗黙のルールがあることも知った。
チケットの買い方や振りのやり方など、遥にはどれも新鮮で面白かった。
音を至近距離で浴びていると、心臓が脈打って生きていると実感できた。
同じライブに通ううちに、顔見知りが増え、言葉を交わすようになった。
気の合う友達も出来た。
名前は美恵子。
けれど本人はその名前を気に入ってなくて、「みこ」と呼んでほしいと言った。
人見知りな遥にとって、ライブハウスで出来た初めての友達。
遥は少しずつライブハウスに馴染んできた。
――ここが自分の居場所だ。
そう思えるようになった頃。
DOLL THEATERに通い始めて、1年ちょっと経った頃。
遥は胸に、ほんのわずかな物足りなさを感じ始めていた。
バンドに飽きたわけではない。
もっと、違うもの。
ライブを見るたびに、浮かぶ想像…
それは、応援している自分じゃない。
――ステージに立っている自分。
楽器は弾けない。
歌も、上手くない。
何より、ステージの中央に立つ自分は、想像できなかった。
心に浮かぶのは、トビーやエリーのように、ギターやベースを弾いている姿。
(観ているのも楽しいけど……
私も、あそこに立てたら……)
ある日、ライブの開演前。
遥は、みこに、その気持ちを打ち明けた。
「ねえ、みこ……」
「ん? どうした?」
「私さ、最近考えるの。ライブ観るのも楽しいけど……」
もじもじする遥を見て、みこが目を見開く。
「え、DOLL THEATER上がるとか言わないよね?」
「違う! 違うよ! 自分も、バンドしたいなって思って……」
必死に否定しながら言った。
「みこは、そういう気持ち、ない?」
「バンド、やるの?」
みこは少し考えてから、首を傾げた。
「うーん……素敵だとは思うけど、私は観てるだけでいいかな」
「そっか」
ライブが始まり、そのまま、話は途切れた。
ステージでは、ピッピが歌い、トビーが滑らかにギターを弾いている。
(……いいな)
遥は、ただ、トビーを見つめていた。
蝉の鳴き声も消え暑さが和らいできた、ある休日。
特別な予感は、なかった。
それでも――
楽器店を覗くのが、習慣になっていた。
買わない。
ただ、眺めて、想像する。
ステージに立つ自分の姿を。
ある日、商店街の外れにある、小さな楽器店へ入った。
ガラス越しに並ぶ楽器は、どれも少し色褪せて見える。
ドアを押すと、乾いたベルが鳴った。
「いらっしゃい」
年配の店主が顔を上げる。
新品のギターを眺め、中古コーナーへ目を移す。
値段の差に、現実を思い知らされる。
そのとき。
壁に掛けられた一本のベースに、視線が止まった。
――左利き。
しかも、妙に安い。
「それね、前の人が途中でやめちゃってさ」
気づけば、店主が後ろに立っていた。
「クセもあるし、左利き用はどうしても需要が少なくてね」
店主は、ベースを手渡してくれた。
そっと触れる。
塗装は剥げ、細かな傷がある。
けれど、ネックは真っ直ぐで、弦も張り替えられていた。
「初心者なら、十分だと思うよ」
その言葉に、胸が少しだけ軽くなる。
――これでいい。
トビーと同じギターじゃない。
けれど、エリーは小さな体でベースを弾いている。
四弦なら、きっと扱いやすい。
なにより――
今の自分に、手が届くもの。
「……これ、ください」
声は、少し震えていた。
店主は、ゆっくり頷いた。
アパートの六畳一間。
壁は薄く、隣の生活音がかすかに聞こえる。
遥は、買ってきたベースをケースから取り出した。
アンプには繋がない。
音は、出さない。
右手でネックを握り、
左手で、恐る恐る弦に触れる。
(……太い)
弦は硬く、指先に食い込む。
ポン、と空気の音だけが鳴った。
それだけで、胸が強く脈打つ。
(……これが、ベース)
場所も、音程も、わからない。
ただ、何度も、開放弦を弾いた。
指先が、じん、と熱を帯びてくる。
痛みと振動が、体に残る。
それでも、手を止めなかった。
誰にも見せない。
誰にも聴かせない。
今はまだ、音楽と呼べるものじゃない。
それでも――
(私は、今、弾いている)
ケースの中に挟まっていた、小さな紙切れに目が止まる。
『一応弾ける状態だけど、ちゃんと調整した方がいいよ』
調整。
意味は、まだわからない。
窓の外で、遠く車の音が流れる。
この部屋だけが、切り離された世界みたいだった。
遥は、静かに弦を弾き続けた。
指先が痛くても。
音が濁っても。
うまくいかなくても。
その夜。
遥は初めて、
「演者になるための時間」を、自分の手で掴んだ。




