153 一人で抱えちゃった!?兄の真実!?
視界が、ぐらりと揺れた。
……フラフラする。足の裏が、地面をうまく掴めない。
「オトちゃん。大丈夫!?」
母さんの声が、やけに遠い。
次の瞬間、両肩を強く掴まれる。温かい手。いつもの安心するはずの温もりなのに、僕の体はうまく反応できなかった。
「……母さん」
喉が、ひどく乾いている。言葉を出すたび、砂を噛むみたいだ。
「兄さんは……裏記録師だったの!?」
言った瞬間、胸の奥で何かが、ぱきりと音を立てた。
否定してほしかった。笑って、「違うわよ」って、いつもの調子で。
けれど母さんは、目を伏せる。
「……シオくんは、私たちには何も言わないの」
静かな声だった。責めるでも、庇うでもない。ただ受け止める声。
「オトちゃんにも言ってないってことは……一人で抱えてたのね……」
一人で。
兄さんが、ずっと。
背中に、冷たい汗が伝う。指先が、じん、と痺れた。
その様子を見ていた青鮎記録師たちの間にも、ざわめきが広がった。
「シオマさん……」
「俺たちは……騙されていたのか!?」
空気が、きしむ。信頼と疑念が、目に見えない刃のようにぶつかり合う。
「そんなはずないだろ……シオマさんは、いつも俺たちの記録を丁寧に見てくれて……」
「でも裏記録師なんだろ!? 消された頁を扱う連中だぞ!」
「じゃあ、今までの記録だって……!」
不安が、不安を呼ぶ。
気づけば、僕は叫んでいた。
「違う!」
思ったよりも大きな声が、広場に響く。全員の視線が、僕に向いた。
胸が痛い。でも、逃げたくなかった。
「兄さんは……嘘をついてたかもしれない。でも、俺たちを傷つけるためじゃない!」
震える拳を握りしめる。
「兄さんは……守るために、守るために闘ってきたんだ!」
母さんが、はっと息を呑む。ざわめきが、わずかに止まる。
「俺たちが見てきた兄さんは、本物だよ……!」
笑って、困って、責任を押しつけられて。それでも文句も言わず、記録を続けていた兄さん。
あれは、演技だけなんかじゃない。
そのとき、水が静かに鳴った。
「……騙す者は、守るために泣かぬ」
シュレイヴァの低い声が、場を包む。蒼の瞳が、青鮎記録師たちを見渡す。
「裏記録師は、光の記録を奪う存在ではない。闇に沈められた真実を、背負う者よ」
沈黙。
誰も、すぐには言い返せなかった。
母さんが、僕の肩をそっと抱き寄せる。
「オトちゃん……」
その温もりに、少しだけ呼吸が戻る。
ズゥーーーーーン。
そのとき、腹の奥を鈍く叩くような振動が、大地の底から響いた。
足元の小石が跳ね、木々の葉がざわりと揺れる。
「……なに?」
顔を上げた瞬間、二度目の衝撃。ドン、と空気が押し出される。
僕たちは反射的に地上へ駆け出した。魔物たちも、ざわめきながら後に続く。
そして――見た。
ミラソムの方角。
空を焦がすような土煙が、巨大な柱となって立ち上っている。
「……あれって」
黒トンボが、低く羽音を震わせる。警戒の振動。
「まさか……」
誰ともなく、声が漏れた。僕たちの瞳に、はっきりと映る。
遠く、霞む塔の影。白銀の柱――アクア・スパイラル。
その方向に、濃い土煙が立ち上っている。まるで大地が息を吐き出しているみたいに、灰色の柱が空へと伸びていた。
空気が、震えている。耳鳴りのような低い唸り。足元から伝わる、わずかな揺れ。
それだけじゃない。
水だ。
見えないはずの水脈の流れが、肌を刺すようにざわついている。普段なら穏やかに巡っているはずの流れが、どこかで無理やりねじ曲げられている感覚。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
「アクア・スパイラルに……異変?」
黒トンボが空へ跳ね上がり、すぐさまカルマのもとへ戻る。
「おかしい……上層結界が揺らいでる。施したばかりの制御が乱れた……!?」
カルマは目を閉じ、そっと水の流れに触れる。
「……シオマさんの身に、何か起こったのかもしれない。水の記録が……暴れてる」
小さい声なのに、場の空気が重く沈む。黒トンボが、鋭く羽音を震わせた。
「……違う。これは“揺らぎ”じゃない。干渉だ」
「干渉?」
カルマが目を細め、遠くを見据える。
「上層結界が歪んでる。誰かが……内側から触れてる」
内側。
その言葉に、息が詰まる。
(兄さん……)
ズゥン……ズゥン……
断続的な地鳴り。ただの崩落じゃない。
魔物たちは四方へ散り、ミラソムから距離を取ろうとする。
「記録庫が開いてしまってるんじゃ……」
青鮎記録師の一人が、青ざめる。
「あの塔は、協会だけじゃない。研究者の塔だぞ……!」
「里の封印も心配だが、今はミラソムへ向かうべきでは?」
「俺たちに何ができるんだ!」
「……まさか、あの方が……?」
混乱が広がる。
僕には、まだ全体が見えない。そのとき、ホンホンが小さな声で言った。
「セオトー!閉じられていた頁が……浮き上がってるホン……」
振り向くと、ホンホンの体がふくらんでいる。紙束みたいに、ぱん、と膨張していた。
「え!? ホンホン、大丈夫!?」
「情報が……溢れてるホン……抑えきれないホン……!」
そのとき、シュレイヴァの低い声が、水面の奥から響いた。
「均衡が崩れたな」
蒼の瞳が、塔の方角を射抜く。
「封じられていた頁が浮かび上がり、理が暴れておる。あの塔は……真実を抱えすぎた」
ズゥン、とまた地鳴り。土煙が、さらに濃くなる。
「放っておけば、どうなるの?」
エイミの問いに、シュレイヴァはわずかに沈黙した。
「記録が溢れる。抑え込まれた事実が、制御なく流れ出す。……塔ごと、崩れるやもしれぬ」
「そんな……!」
青鮎記録師たちの間に、緊張が走る。
「研究層が破損したら、保管封印が連鎖するぞ!」
「下層の水圧制御も危ない!」
僕の心臓が、強く跳ねた。制御装置……。
フレクシア……クロム・リーフ……兄さんも、あの塔の中にいる。
震える空気の中、僕は拳を握る。
「……行こう」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「確かめなきゃいけない。あそこで何が起きてるのか」
土煙の向こうで、白銀の塔が、低く唸る。
アクア・スパイラルは、確かに――何かを叫んでいた。




