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僕は結局、都会を離れた。
大学の時に付き合った彼女は近郊の農家の娘だった。大学を卒業して結婚となったときに、僕は迷わず、彼女の家に入り婿として入り、その農地を継ぐことを選んだわけだ。
今は都心から電車で一時間半、広々と水田が広がる鷹揚とした風景の中に立つ大きな家に住んでいる。
毎朝、駅を使うことはなくなった。田舎での生活に必要な足はもっぱら車で、生まれてきた子供のために燃費のいいミニバンを買った。
それでも月に何回か、都内に近い自分の実家に帰るためには電車を使う。家からは十五分の駅までは義父が運転して送ってくれる。駅は背後に小さな里山を抱いてぽつんと寂しく佇み、いつ行ってもホームに人はいない。
このホームに立つとき、僕はいつも、鉄柱で支えただけのショボい庇の中を見上げる。そこには何の曇りもなく、緑に洗われた清浄でクリアな空気が、いつでも満ちている。
電車は鈍行しか止まらない。僕は娘の手を引いて四角い銀の電車に乗り込む。車内に入ればさすがにいくらかアレが見える。
それはいつでも、誰かがタバコをふかしたみたいなうっすらとした煙の形をとって、吊り広告のあたりを白く煙らせている。だから僕はつり革にはつかまらず、いつも下を向いている。
特急に乗り換えて都会に向かうほどに、車内に漂うアレは濃くなってゆく。
実は金山さんと別れたあとから、僕はむせかえるほどのアレがただようラッシュアワーを避ける癖がついた。高校へはいつでも始発に乗って、大学へはバイト代で買った小さな原付で通った。
僕は金山さんのようには生きられない、だから、アレの存在が濃く漂う都会から逃げた。
それでも僕は、昔ほど都会の駅が苦手じゃなくなった。ほとんどの駅がホームドアを設置してくれたからだ。
僕は娘の手を引いてホームドアの前に立つ。この小さな娘がふいと気まぐれを起こして走りだしても、彼女の背丈よりはるかに高いホームドアの向こう側へ飛び出すことはできないだろう。
ちょうど、黄色い電車が駅に入ってきた。と、僕から少し離れたところで、ひときわ大きくて濃いアレがふわりと立ち上った。もしかしたら、誰かをレールの上に引きずり込むつもりだったのかもしれない。
しかし、アレはホームドアにぶつかり、電車の走る風圧に吹き飛ばされて霧散した。
その一部始終を見ていた僕は、ふと、ボロをいっぱいに身にまとってホームの端に座る金山さんの姿を思い出した。
金山さんは、きっと今もどこかの駅で、ホームの端に座って駅舎の天井が煙るほどに吐き出されたアレを眺めているに違いない。
だけど……。
なぜだろう、僕は金山さんがとても穏やかに、静かな笑顔をたたえてホームの端に立っているような、そんな気がした。




