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 電車に乗ると、金山さんはドアにもたれて立った。僕は金山さんと向かい合わせるようにして、やはり立っていた。

 金山さんは、僕に向かってポツリ、ポツリと話し始めた。

「俺はあんたと違って、子供の時分にはもうアレが見えた。そうだな、物心ついたころにはもう、人の怒りだの悲しみなんかが煙になってぽわっと吐き出されるのが見えたんだ。だけど他の人はそんなものは見えないって言う、大人なんかは俺のことをウソつき呼ばわりして叱り飛ばすし、俺はいつしかアレが見えるなんてことを他人に言わなくなった。言わなくなったから、アレの正体を誰にも聞くことができなかった、だから俺は……アレが幽霊っていう、世間でいう死んだ人間の霊魂だと勝手に解釈したんだ」

「同じようなもんじゃないんですか、だってアレ、女の人を殺そうとしていたし」

「違う違う、そんなことを言ったら、死んだ人間が可哀想だろ、大体さあ、落ち着いて考えてみろよ、生きている人間の命を奪って、それで死んだ人間に何か得があると思うか?」

「寂しいから、じゃないんですか。オカルト話なんかじゃ、そういうの、よくあるじゃないですか」

「安っぽいね、安っぽい怪談だ。もしもそんな理由で死人が生者を殺すなら、俺はとっくの昔に死ねているはずなんだ」

 少し引っ掛かりのあるものいい。

「あの、金山さん……」

 詳しく聞こうとした僕の言葉を遮って、金山さんはポツリと呟いた。

「生きてる人間を殺すのは、いつだって生きている人間だよ」

 僕はもっと詳しい話を聞きたかったのだけど、金山さんはそれを拒むみたいに黙り込んでしまった。

 この時の言葉を、大人になってからもたびたび思い出す。


 ーー生きている人間を殺すのはいつだって生きている人間ーー


 この年になるまでに、そうした出来事をたくさん見てきた。テレビをつければ人が人を殺したニュースがいくつも流れる。それだけじゃない、たとえ肉体的に死ぬことはなくても、セクハラやら、パワハラやらで、心を殺される人は数え切れないほどいる。

 まだ子供だった僕は、この言葉をそこまで悲壮なものとして受け取ったわけではないけれど、なんだか胸に太い杭を打ち込まれたみたいな気がして、黙っていた。

 やがて金山さんは僕を連れて、とある駅で降りた。

 そこはターミナル駅のすぐ手前にあるハブステーションだった。ここはいつでも、肩が触れ合うほどの人でごった返している。

 この駅で降りた人は、都内のあちこちに向かう電車に乗り換えて目的地へ向かう。この駅の中へ来ることを目的としてここへ来る人はいないだろう。

 だけど金山さんは、この駅に来ることが目的だった。金山さんについてきた僕ももちろん。だから僕たち二人は、乗り換えのために往来する人たちの邪魔にならないように、通路の端に身を寄せた。

「どうだ、見えるか?」

 金山さんに言われる前から、僕は、この駅の天井がうっすらと煙っていることに気付いていた。駅に行き交う数え切れないほどの人の体から立ち上り、その身から離れて天井近くまで浮き上がった煙たちが淀んでいるのだ。

 僕たちが立っていたのは南改札口へと抜ける狭い通路の途中、天井が低いせいもあって空調の効いていない喫煙室に閉じ込められたみたいに辺りは煙って見えた。

 突然、金山さんが言った。

「あんた、人を殺したいと思ったことがあるか?」

「そりゃあ、ありますよ」

「本当に、心の底から相手が死ねばいいと思ったことは? じっくりねっとり、四六時中、『あいつが死ねばいいのに』ということを欝々と想い続けたことは?」

 そう聞かれると自信がない。当時の僕はまだ子供で、腹を立てることはあっても、それは「あいつクソ! 死ねばいい!」と罵れば忘れる程度の短絡的な感情だった。だから、この時の金山さんの表情がどういった感情から来るものなのか、理解できなかった。

 金山さんは歯を食いしばって、少し血走った目をしていた。

「俺は、思うだけじゃない、人を殺したことがある。アレで、な」

 僕はゾッとして聞く。

「誰を?」

「妻を殺した男を……」

 金山さんは汚れた洋服の間を探って、小さく折り畳んだ新聞の切り抜きを取り出した。それは随分と古くて、黄ばんでいた。

 金山さんはそれを破かないように丁寧に開いて僕に差し出した。僕はやはり丁寧に指先だけでそっとその紙を受け取った。

 それは交通事故についての記事だった。それも新聞の隅にある交通事故の起きた場所と時間、被害者と加害者の名前しか書いていないような小さな記事だ。

「それに書いてある金山ヤスコってのが、俺の妻だ。妻は……病院に運ばれる途中、救急車の中で……」

 ーー死んだ。こんな小さな記事の中に、ひとひとりの死が書き込まれている。そう思うと背筋が寒くなった。

 金山さんは僕から新聞を取り返すと、それを丁寧に折りたたみ始めた。折りたたみながら、ため息に似た声で言った。

「想いが強ければ強いほど、あの煙は濃く、深くなる。俺はあの頃、前もろくに見えないほど濃い煙に巻きつかれて生きていた……あんな風にさ」

 金山さんが顎で指した方を見ると、ちょうど通りかかった若いサラリーマンがまさに、焚火の燃え始めに生木が燻されて立ち上るような濃厚で形のはっきりした煙をまとって歩いていた。

「俺らはそれが煙だって知ってっけど、あいつはたぶん今、自分が煙に巻かれていることを知らない。それでもあれだけ濃い煙にまかれているんだから、目の前はよく見えないし、息苦しいだろうよ。そうやって、人は弱っていくんだ」

「あの人も、誰かを殺したいほど憎んでいるってことですか?」

「ああ、さすがに理由まではわからんがな、少なくとも殺したいほど憎い相手がいる、だから苦しいんだろうよ」

 金山さんは折りたたんだ新聞紙を服の中に仕舞い込み、僕の顔をじっと見た。

「なあ、駅ってのは怖いところだ、そう思わないか?」

「怖いですか?」

「ああ、怖い。ここにはいつでも人がいる。そして、それぞれの人が誰にも知られず腹の中にいろんな思いを抱え込んでいる。ここには毎日、数え切れないほどの人の想いが通り過ぎて、行き交って、淀んで……淀むだけならまだいいが、時々、出会っちまう」

「誰と?」

「その、恨めしい相手とだよ。俺は何年も前、この駅であいつに会った。ちゃんと謝罪にも来た相手だったし、あれは避けようのない事故だってことも、それでも相手はちゃんと悔悟と反省の気持ちを持って生きているってことも知っていた。頭ではちゃんと理解していたんだ。だけど心の方は、まだ許しちゃいなかったんだな、俺の体に巻きついていたアレは、凄い勢いであいつのところへすっ飛んでいって、それっきり、人混みの中に消えちまった。その数日後だよ、事故の加害者が自殺したと、俺の耳に入ったのは」

「それは……自殺じゃなかったんですね」

「ああ、俺は見えるからこそ知っているし、あんたも見ただろう、アレが電車に向かって若い女を引き寄せるのを、つまり、そういうことだよ」

「それを悔やんでいるから……金山さんは浮浪者になって、駅で暮らしているんですね、アレに殺されそうな人を救うために……」

「馬鹿、そんなかっこいいもんじゃねえよ、単に金がない、それだけだって」

 金山さんは笑った。

「俺のことはどうでもいいんだよ、何しろ長年見てきたアレが幽霊なんかじゃないって気づいた時には、もう手遅れだった。それよりあんただ、あんたはアレがなんなのか、いま知っただろ、だったら俺みたいにならずに生きる道が選べると思うんだ」

「金山さんは……僕のためにわざわざ……?」

「あんたのためなんかじゃない、俺のためだよ。俺みたいなやつでも、もしかしたら幸せに暮らせる手立てがあったかもしれない、それを見たいだけだよ」

「それって、やっぱり、僕のためじゃないんですか?」

「ちげえよ、全然違う」

 金山さんは「ヨイショ」と大袈裟に声を立てて足を踏み出した。

「さて、俺からあんたに教えることはこれでおしまいだ。あとはあんたが選べ、自分の人生ってやつをな」

 金山さんはそのまま、サンダルを履いた方の足を引きずって人混みの中に消えた。それがちょうど、あの濃い煙に巻かれたサラリーマンが歩いていったのと同じ方向だったことを考えると、金山さんは彼を追っていったのかもしれない。僕の目の前で女の人を助けた時のように、誰かを助けるために……。

 それを確かめようにも、金山さんとは二度と、会うことはなかった。そして十年たった今、僕は金山さんに言われた通り、僕自身の人生を選んだ。

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