1
鉄道史最高の発明品はホームドアであると僕は思っている。
線路とホームの間にたった一枚の扉を挟んだだけで、僕らはこれほど安心して電車を待つことができる。
僕たちはこのたった一枚のドアによって『守られている』
――何から?
それを話すにはまず、僕と金山さんが初めて言葉を交わした『あの日』のことを語らなければならないだろう。あれは十年前、僕がまだ電車通学をする学生だった頃の話だ。
金山さんは僕が総武線への乗り換えに使う駅にいる浮浪者だった。垢じみたボロボロの洋服を何枚も重ね着して、足元は右にサンダル、左にはかかとを踏みつぶしたズックというちぐはぐな格好で、電車を待つ人たちの目を避けるようにホームの端っ子にいつも座っていた。どこかで拾ってくるのかいつでも新聞や雑誌を読んでいた。
だけどこの時まで僕は金山さんと言葉を交わしたこともなければ、名前も知らなかった。
これは駅のホームの人間関係としては珍しいことじゃない。僕たちは毎日同じ駅を使ううちに『毎朝見かける人』というものが何人もできる。例えば毎朝見かける太った体にスーツを巻き付けたみたいなサラリーマンや、他行の制服を着たかわいらしい顔立ちをした女生徒など、電車待ちの間にちらりと視線を交わして「お、今日も一緒の電車だな」と思う相手は何人もいる。だけど僕らはそのたくさんの『顔見知り』と言葉を交わすことはない。名前を聞こうとも思わないし、住んでいるところや、どんな声でどんな話し方をするのかすら知らない。
金山さんはそんな『顔見知り』の中でも特に毛色が違うから僕の印象に特に強く残ったというだけの、ただそれだけの関係だった。
もしも何も起きなければ僕は一生、金山さんと言葉を交わすことなどなかっただろう。だけどあの日――あれは夏休みまであと数日という、夏の暑い日の話だ。
都会は日が上ればすぐにコンクリートが焼かれて気温が上がる。そんなコンクリートの上を通る風はねっとりとした熱気を含んで、吹いたとしても心地よい涼感など欠片もない。そんな日は、ホームで待つ他人の呼吸さえ生暖かく、不快に感じるものだ。
僕も不快な暑さにうめきながら、それでもいつも通りいつもの時間に、いつも乗る電車を待っていた。
足元のコンクリートがジリジリと焼ける音を立てているような気がした。レールの上はすでに十分に温まって、ゆらゆらと揺れる蜃気楼が立ち上っている。
僕はうんざりしながら、その蜃気楼を眺めていた。まだ朝方だというのに、こんなに暑いなんて、昼頃には――そう思った僕の目の前が一瞬、霞んだ。暑さで目が回っているのかと足を踏ん張ってみたが、そうした体の不調はなく、ただ、僕の目の前を真っ白い煙の塊がふわりと横切っただけであった。
最初、僕はそれも一種の蜃気楼なのだと思った。つまり地面から立ち上った湯気なのだろうと。
しかし違った。煙は人の大きさほどもある一塊で、ゆらゆら揺れているだけの蜃気楼とは比べ物にならないほど濃い。しかもこの煙、風に吹かれてもいささかも揺らがない。まるで自分の意思があるかのように僕の前を通り抜け、ホームの後ろへと向かってゆく。
僕はすっかりその煙の動向にくぎ付けになって、瞬きもせずに行方を見守っていた。煙は三両目の乗車位置のあたりで、ふいに動きを止めた。
その時、電車の到着を告げるアナウンスが流れた。僕はそのアナウンスに気をとられて、ほんの一瞬、煙から目をはなした。本当に、たった一瞬だ。
近づいてくる電車の音にふっと振り向くと、煙は三両目の乗車口の一番先頭に立っていた若い女性にまとわりついていた。嫌な予感がした。口では言い表せないが、本能的な恐怖を感じた。
何しろここは乗換駅、ホームには人がごった返しているというのに、煙はまるでピン・スポットを当てたみたいにその女の人だけを白く煙らせていたんだから。
間もなく電車がホームの端からこちらに向かって走ってくる。その電車の正面に向かって、煙がゆらりと動いた。次の瞬間、煙に包まれていた女の人が前のめりに、ゆらりと揺れた。
「あっ!」
僕は最悪の事態を思い浮かべて声をあげたのだけれど……電車が女の人の鼻先をかすめた瞬間、彼女の体はぐいっと人ごみに中に引き戻されて難を逃れた。ゆらりと揺れる煙だけが電車の正面に吹き飛ばされて、霧散した。
僕は少しつま先だって、人ごみの向こうにある騒動を見た。どうやら女の人をホームに引き戻したのは金山さんだったみたいだ。いつもならホームの端に隠れるようにして座っている金山さんが、女の人に向かって何か話しかけているのが見える。
電車のドアが開いた。僕は後ろに並んだ人波に押されて電車の中に押し込まれたのだけれど、ホームをまたぐその一瞬、金山さんが女性の肩を優しく押して彼女を人波の中に戻してやる姿が見えた。
僕はその時、確信した。金山さんにはあの煙が見えていたんだと。電車から飛び降りてそれを確かめたかったのだけれど、押し込まれた乗客たちと閉まるドアがそれを許さなかった。
僕は通学鞄とモヤモヤした思いを抱えながら電車に揺られて、あのホームでの光景を何度も、何度も反芻した。