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翌日、僕はいつもより三十分早く家を出て駅に向かった。本当はいつも通りの時間に出れば快速があるのだが、それよりも二本早い電車は鈍行だった。それでも乗り継ぎ駅には、いつもより二十分早く着いた。
僕は金山さんに会うためにホームの端を目指した。金山さんは、今日は上りホームの端っこで文庫本を読んでいた。
せっかく金山さんを見つけたのに、僕は彼になんと声をかければいいのかわからなかった。だって相手はいままで言葉すら交わしたことのない、ただの『顔見知り』なのだし、まだ若い僕はそうした初対面の相手になんと声をかければいいのかという対人スキルを持ち合わせてはいなかった。
だから僕はもぞもぞと居心地悪く体を揺すってそこに立ち尽くしてしまった。
そんな僕の挙動の怪しさに気づいたのか、金山さんが顔をあげた。
「俺に何か用かい?」
怒りも、不快もない、全くフラットな口調で。
僕はホッと肩の力を抜いて、大きく息を吸い込んだ。それから深々と頭を下げて。
「初めまして、僕はいつもこの駅を利用している、平針タケシという者です!」
僕の自己紹介を聞いた金山さんはゲラゲラと笑い転げた。
「あんた、こんな浮浪者にそんなバカ丁寧なあいさつ……変わってんなぁ!」
「え、だって、初対面の相手には挨拶は基本でしょう」
「ま、いいや、俺も礼儀正しいやつは嫌いじゃない。俺は金山だ」
金山さんは握手を求めて手を出したけれど、手の甲は泥を塗ったみたいに茶色い汚れがついていて、爪の間に黒いものがびっちりと入り込んだ汚い手を握り返す勇気は、僕にはなかった。
それに気づいた金山さんは自分から手をひっこめた。
「ちぇ、さっき駅のトイレで洗ったばっかりだからキレイなのに」
少しふくれっ面なのはおどけているから、声はちっとも怒っていない。金山さんは握手を拒まれることなんてことには慣れっこだったのだ。
手元の文庫本を汚い上着の間にしまって、金山さんはにっこりと笑った。
「で、俺に何か用なんだろ、でなきゃ、あんたみたいな学生さんが、わざわざ浮浪者に話しかけたりしないだろうさ」
それで僕はやっと、本来の用向きである煙の話を始めることができた。
「実は、昨日、あなたがホームから落ちそうになっている女の人を助けたのを見たんですが……」
「ああ、ああ、あれね」
「もしかして、あなたには……『煙』が見えていたんじゃないんですか?」
金山さんは驚いた顔で僕を見た。これで金山さんにも僕と同じ『煙』が見えていたことは確定だ。
だけどそのあとすぐに、金山さんは困ったように眉毛をハの字に下げた。
「そうか、あんた、アレが見えちまったのか、そうか……」
「なんです、あれは、見えたら、そんなに悪いものなんですか?」
「そうじゃないよ、ただ、若いのになあ……」
ポリポリと頬を掻いて、金山さんは立ち上がった。
「兄ちゃん、あんた、アレは何だと思う?」
この時点で僕は、あれは霊的な何かだと信じていた。というのも僕が使うこの駅は飛び込み自殺が多くて、電車に轢かれて死んだ人の霊がホームをうろついているのだという子供じみた階段が、まことしやかに伝わっていたからだ。
そして僕は、ちょうどそうした現実感のない話を信じがちな年頃だった。
「あれは……死んだ人の霊魂とかじゃないんですか。生きている人間がうらやましくて、妬ましくて、それで自分と同じ目にあわせてやろうと線路に引きずり込む悪霊でしょう?」
「若いねえ、そんな怪談話を本気で信じちまうなんて」
自分の答えを否定された僕はムッとして、少し唇を尖らせた。
「じゃあ、あれは何だっていうんです?」
「知りたいか? じゃあ、ついてきなよ」
金山さんはサンダルをはいた方の足を引きずりながら歩き出した。
僕は少し迷った。というのも、学校に遅刻しないためには少なくとも一時間後に来る鈍行に乗る必要がある。金山さんのように時間に縛られず生きている人が、そんなことを理解してくれるとは思えなかった。
だけど金山さんは、歩みを止めて振り向いた。
「どうした、知りたくないのか、アレの正体を」
知りたいに決まっている。僕は迷っていた足元を踏みしめて、小走りに駆け出した。
その日、僕は生まれて初めて、学校をサボった。




