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河東の乱  作者: 麻呂
鬼手
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三嶋

 義元の意を酌み、即座に馬を走らせたのは松井宗信であった。そして三浦義就もこれに続く。

 義就は相模三浦氏が何代か前に駿河に土着した三浦氏の一族であり、本家を乗っ取る機会と見たのかもしれない。この勢いのまま義元が相模を奪えば、相模三浦よりも駿河三浦の力が強くなる。子を相模三浦の養子として送り込むことができれば万々歳であろう。

――御館様は

 甲斐の武田に北条への圧力を掛けさせるのであろう。武田は興国寺に同行していない以上、別の道、例えば須走から駿河に入り直す。そして我らと共に北条を挟撃する――

 宗信らの読みはほぼ正解であった。

 だが、義元が晴信に要求したのは「須山を抜け、葛山を通り、長久保に迫れ」である。愛鷹山の北側、まさに長綱が予想した通りのルートで武田は進む。途中草深い大野原等があり、北条の目をくらませるに良い道であった。


 氏康の敗走に続く興国寺落城を受け、北条は混乱していた。

 長綱が必死に混乱を抑えようとするが、平時に寝技で調略するのが得意な長綱にとって、この戦後の混乱は不得手とするところであり、せめてと打った手が長久保を前線基地とする防御体制の再構築と、長久保以北を慰撫すると共に士気高揚させるため、備蓄米を送ったことである。

 兵糧が届くと、城兵は喜びの前に緊張した。素破、今川が来る、と。

 後方にあって多少緩んでいた各城は緊張感を取り戻し、敗報に戸惑う兵達も士気を取り戻すこととなった。

「これしかできぬわ」

 長綱の手は悪く無い。彼は常にその身の丈を意識した手を打つ。

 乾坤一擲の博打にはほど遠い定石、だからこそそれを崩すには相手も定石を打たねばならぬような手堅い手。更に長綱はその定石さえも昇華し、守りに長けた独自の手に仕上げている。

 だが、相手が打つ手を読んでいれば、打たれる前に楔のような手を打つことはできる。



 今川軍が三嶋に近付いても、抵抗は殆どなかった。

 元々三嶋大社の門前町であり、これまで戦火に巻き込まれたことも少なく、城郭とは程遠い造りであったため、北条としても防御に力を入れられる場所ではない。

 だが、義元が重視したのは伊豆国一宮たる、三嶋大社を抑えることであり、三嶋を拠点に戦おうという意思は無い。

 この時代、本願寺などの寺社勢力が勢力を拡大した背景には、信仰力の強さがある。僧は知識階級であり、民衆の信仰力と高利貸し、つまり土倉として儲けた金を上手く利用することで勢力を拡大する。

 今川領国内における一向衆の力はあまりなく、宗教勢力としては浅間神社の富士氏が挙げられよう。だが、富士氏は今川家に臣従していたし、義元としては宗教勢力は扱える存在であったのかもしれない。そして僧籍にあった義元は、宗教を押さえる意味を良く理解していた。

――伊豆は動じよう

 鎌倉期から存在するような家であればある程、三嶋大社への信仰は篤い。北条は相模伊豆を拠点としており、この伊豆に動揺を与えることができれば、義元の描くシナリオはより進めやすくなる。

 長久保城に向かう中、三嶋を押さえた旨の報を聞くと、義元は小さな笑みを浮かべ、良い、とだけ言葉を発した。

――晴信もそろそろ

 役者は間も無く揃う。だが、義元は長久保をどう攻略するか決めかねていた。

――今川には勝てぬと思わせねば

 だが、あまりにも苛烈に攻めては、相手も死にもの狂いとなってしまう。死兵を生み出してはならない。

――こればかりは

 と、駿府にいる雪斎の下に書状を出した。

 時折戦況報告のようなものを送ってはいたが、相談としてはこの戦初めてか。



 数日後、御館様の城攻めの習いとしなされ、という趣旨の書状が届いた。

――つまり

 どんな形で落城しても、終わりは変わらぬ、ということか。と、義元は安堵し、そして改めて武田に使者を送る。和睦を勧めよ、と。

 即座に葛山付近の武田陣から、和睦の使者が小田原と長久保に送られた。

 あわよくば氏康と長綱の間に楔を打たんとする、義元の小さな手であった。

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