密謀
「灯虫か」
どこから入ったか、1匹の蛾が蝋燭の火に焼かれた。
部屋にいた二人は音に気付いて一瞥したが、すぐに視線を戻す。
そこには多くの朱で筆を入れた、河東の地図が広がっていた。
「求め過ぎれば失う物が大きい、ということでございましょう」
「耳が痛いな」
ふふっと笑いながら重ねて言う。
「俗世にあって求めることは悪ではございませぬ」
ただ、何事も行き過ぎは身を滅ぼしましょう、と。
「御師よ、我は求め過ぎておろうか」
雪斎はゆっくりと首を振ると
「駿河守護たる御館様が駿河を求めるに、何の問題がありましょう」
むしろ河東は取り戻さねばなりませぬ、とまで言う。
「武田が北条と結ぶとは思わなんだが」
義元としては、甲相同盟の存在が腹立たしい。武田からは関東の足利を見据えてのことと聞いているが、どこまで信用できるか分からない。
「御館様、亡き相模殿のお気持ちが見えましたかな」
冷やかすような笑みを浮かべ、雪斎は言う。
同盟国が敵国と結ぶ。僅か7年前の義元が行ったことである。いや、義元は婚姻までしており、更に性質が悪いかもしれない。
「そうだな」
苦虫を噛み潰したような声を出すと、自嘲気味に笑った。
「だが、甲斐を攻めようとは思わぬ」
「それは良きこと」
本より二人の間に甲斐を攻めるという選択肢は無い。彼らにとって甲斐は明治期における朝鮮半島のような認識で、維持発展させるために膨大な費用を必要とするお荷物でしかない。
「シテ、河東はどのように」
師の問いに義元は言う。
「武田は我らの同盟に変わりは無いという。が、我らに力無しと見ればすぐ北条に付くやもしれぬ」
故に、武田の心変わりを防ぐと言う。
河東の地図を横にずらし、甲斐、相模の東にもう一枚の紙を置く。
「上杉を武田の抑えとし、相模の裏口を叩かせる」
この今川上杉同盟が、駿甲同盟の重石となり、河東における武田の裏切りを防ぐ手となる、と。
「首根っこを掴むのよ」
「それはまた」
武田からすれば同盟国が敵国と結ぶという、どこかで聞いた話になるのではと問う。
「なろうな」
何の迷うも無く義元は返す。
「御師よ、気付いておられよう」
武田は我らを裏切れぬ、と続けた。
この頃の武田は信濃侵攻を続けており、高遠、大井、藤沢と言った小豪族との戦いに明け暮れている。そこに今川上杉同盟が成立したとして、異を唱えることは得策でない。
むしろこの同盟を利用し、上杉との戦を控え、信濃に注力する口実に利用する方が賢い選択である。
義元の見るところ、晴信はこの程度の判断は容易に付く。
「拙僧には」
「分かりかねます、と申すか」
鼻で笑うと義元は言う。
「そのような嘘ばかり吐いておると、閻魔大王に舌を抜かれると申して居ったのは御師であろう」
「はてさて、昔のことは忘れ申した」
目を併せて互いに口元を綻ばせると、義元は言った。
「晴信からは高遠攻めに合力して欲しいと来ておる。急ぎ兵を出し、今川の強さを知らしめてやらねばならぬ」
ニヤリと笑いながら
「憲政殿は北条に手を焼いておられる故、話も早く纏まろう。そして氏康には、チト油断してもらわねばな」
「御意に」
雪斎はいつものように静かに頭を垂れ、ふと顔を上げる。
「御館様、大きくなられましたな」
義元は驚いた表情で師の顔を見るが、直ぐに
「ハテサテ、分カリカネマスナ」
と、返した。
天文14年、俗に第二次河東一乱と呼ばれる戦の幕が開く。




