未熟
信虎が甲斐を追放された頃、病に苦しむ者がいた。
北条氏綱。父が残した旧領をを守り、北条家の礎を築いた男である。
「上杉は来なかったな」
小田原城の一室。氏綱の声が響く。
氏綱は十数年前に戦火に焼けた鶴岡八幡宮を造営しており、昨年落慶式を行っている。余談だが、造営に必要な材木が河東の乱により流通しなくなり、氏綱が困っていたという話もある。
この造営は焼けた神社を復旧させることが目的ではない。北条を名乗った氏綱がだからこそ、鶴岡八幡宮を大切にする必要があった。
知っての通り、鎌倉執権北条氏と、戦国大名北条氏は何の関係も無い。だが、鎌倉北条氏の名前は関東に強く残っており、相模の大名が当然のように北条を名乗れば、領民は「あの北条様か」と、戦国北条氏の政治に正統性を感じる。
その北条氏が鶴岡八幡宮を大切にすれば、領民は当然のことと受け止め、更に関東に北条の力を知らしめることになる、いわば政治的なパフォーマンスであった。
「やむを得ぬかと」
氏綱は落慶式に上杉氏を呼んでいる。だが、上杉憲政はこれを拒否した。
――何故北条の下に着かねばならぬ
と、思ったであろう。
古代から政治は「まつりごと」であり、こと神事を主催する者は自然とその頂点に立つ。大和朝廷が東に勢力を広げるほど、熱田、諏訪、三嶋、鹿島と大社が作られていったのも、政権の影響がそこまで伸びていることの証明と、その地を治めるのは政権の認めた者である、ということを知らしめるためである。
立場が上である上杉氏が、北条が主宰する神事に参加する訳が無い。
「のう、氏康よ」
其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候
と、褒めながらも
「だが、若い」
と言う。
26歳。義元より4歳年上であるが、このような形で家を継ぐには若い。
氏綱は、氏康が様々な面において自身を上回っているが、その若さが不安だと言う。
「甲斐は父を追い落とし、駿河は兄を殺して国を奪っておる」
世は非情だ、という。
「さればこそ、義を忘れるな」
「義とは」
「人の道よ」
子の問いに即答する。
病のせいか、以前に比べ視界が悪い。だが、それでも我が子の眼があるであろう場所をじっと見つめる。
「わしはな」
己が未熟さを知っておればこそ、神仏を崇め、家臣を慈しみ、領民を愛した。だから今があるのだと言う。
「だが」
甲斐の信虎を見てみよ。わしより遥かに優れておったが、家臣に見放され、子にも見放された。太田道灌を討った上杉を見よ。義に違えれば、応報がある。義に違えて仮に国を切り取ることができたとしても、後世、必ず恥辱を受けるであろう。
そこまで言うと、氏綱は「水を呉れ」と言って起き上がった。氏康は持ってきた椀を両手で渡す。
――細い
父の手をしっかり見たのは何時以来であろうか。あれほど強く見えた父がこれほど弱っていたとは。
――父が死ぬのか
これまで実感として無かった父の死が、急に目の前で現実味を帯びる。
「氏康よ」
再び父の声がした。
「見ての通り、わしは長くない。時というのは限りあるもので、誰にも等しく死は訪れる」
軽く咳をすると、
「位の高い者、低い者。強き者、弱き者。義ある者、無き者。いずれもやがては死に、過去のものとなる」
氏康、と、再び呼ぶ。
「身の程を知り、弁えよ。驕らず、弁えよ」
されば北条は続く、と。
「はっ」
あれほど反発した父の小言が愛おしい。
いずれ分かると言われ続けた小言だが、これ程までに哀しい小言があったであろうか。
素直に頭を垂れると、氏康は下がる。そして入れ替わるように長綱(後の幻庵、この頃は宗哲)が入った。
「すまぬが、未熟な兄を持った定めと諦めて欲しい」
長綱は黙っている。
「氏康はまだ、武蔵、駿河と事を構えることはできまい」
駿河は自分が仕置きするつもりであったが、人の世とはままならぬものだと言う。
「おぬしが」
代わりに河東を押さえてくれと頼む。今川の若造は「ナカナカの者」だと。
二人の間に沈黙が生まれた。そして
「無論でございます。が、兄上」
と、長綱が重い口を開く。
「こうして言葉を交わす時がこれまで如何ほどありましたか」
不満では無い。後悔であった。
「近くにあればこそ、互いに言葉を交わさず、このような時になり、初めて言葉が足りなかったことに気付いております」
短い沈黙を置き、続ける。
「御体が許されるのであれば、仏弟子となりながらも俗を捨てられぬ愚かな弟と、昔話でもしてくれませぬか」
氏綱に言われずとも、氏康を支え、氏康のために死ぬ覚悟もできている。だからこそ、最後に子を思う父の顔では無く、自分の兄として振る舞ってほしかった。
北条の盛衰を見届ける定めに生まれた長綱の、時を弁えぬ我儘であった。
「あぁ、そうだな」
一瞬驚いた顔を浮かべながら、すぐに悟った氏綱は応える。
「兄弟揃って未熟者だな」
そこには衰えながらも頼れる、兄の笑顔が浮かんでいた。
天文10年7月19日、北条家二代当主北条氏綱逝去。
これにより、河東の乱は北条氏康へと引き継がれた。




