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河東の乱  作者: 麻呂
河東
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36/52

追放

「これは」

 義元の許に甲斐から妙な書状が届いた。手紙、と言うより報告書に近い。

「義父上は負けたな」

 差出人は晴信で、報告書には信虎の行ってきた内政と軍事について書かれている。非難するでも無く、ただ事実を連ねているが、領民が飢え、家臣の諌めも聞かずに戦を強行する様子等、実質的な弾劾文と言っても良い。

 だが、信虎を責めてはいない。

――いつかはこうなると思っていたが

 晴信からの手紙は、つまるところクーデターの通知と、父を追放するが、その後の面倒を見て欲しいという依頼である。

「御師よ」

 雪斎を呼ぶ。書状を渡しながら「晴信に付く」と言うと、雪斎は訝しげに書状に目を遣る。

「これは」

 上手い。信虎への不満は一切書かず、ただ信虎が国主として相応しくないことだけを示している。

 晴信は流血を望んでおらず、義元が自分に協力してくれると見込んでのことあろう。

「都の女は」

 夫も狐のようにしてしまうのかと笑う。三条夫人のことを言っているのであろう。雪斎や寿桂尼の人脈で甲斐に嫁いだ三条夫人が、閨で知恵を付けているのかと下衆の勘繰りのようなことを言う。

 義元の呆れた目を受け止めながら、雪斎は飄々と続ける。

「狐に化かされた義弟君の方がよろしいでしょうな」

 どうやら狐という表現が気に入ったようで、妙に拘る。

「義父上が到着する間際に届ける辺り、晴信も気苦労が多いと見える」

 ため息交じりに義元は言う。

 信虎が駿河に留められた場合、国主の正当性を盾にして甲斐に攻め込むこともできよう。3歳になる龍王丸(後の氏真)にも女系でありながら武田の血が流れている。大義名分は立つ。

 だが、甲斐の密偵からも信虎の圧政についての報告が届いている。何よりあの慎重な義弟が動く意思を示している以上、甲斐の民心は信虎から離れていると分かる。

「御助けになられませぬか」

「いや、無駄だ」

 民心だけではない。今川からすれば、そもそも甲斐という国に保有するメリットが無いのである。

「それに晴信がな」

 可愛いのよ。と、言う。個人的感情だけで判断している訳では無いが、自身に私淑する義弟に悪い気はしない。

「虎よりも狗の方が御しやすかろう」

「御意に」

 二人は静かに執務に戻った。



「駿府は暑い」

 駿府に入った信虎が言う。旧暦の6月半ばの話である。駿府よりも盆地にある甲府の方が暑いはずであるが、気持ちの問題であろう。

「その分冬が」

 暖こうございます、と、付き添いが言うが信虎は聞いていない。

――北条との戦は長引くであろうな

 今回足を運んだのは娘に会うためであるが、無論、それだけではない。河東の今後についても対策を練るつもりであった。一時的な講和をしたとは言え、いつまた勃発するか分からないのである。

――婿殿は家中を纏めたようだが

 今川家は戦ができる体制になったと言って良い。三河も押さえ、これから本格的な攻勢に出るであろう。

――我が家はどうか

 戦優先の政策が領民に不人気であることは分かっている。後継者の晴信は、才覚があるものの現実が見えていない。

――馬鹿ではないが

 婿のような強かさが無い。だが、晴信は義元を気に入っているようだし、やがて晴信の手本となるやもしれぬ。自身には師と呼べる存在はいなかったが、そんな関係も悪くは無いだろう。

――晴信が甲斐の現実を理解すれば

 と、熱望する。親子で協力し合い、今川、上杉との紐帯を強化し、甲斐信濃を武田のものにできるのではないか。

 今日でも企業や団体のトップが抱える病であるが、自身がその立場だからこそ理解・把握したものを、後継者に求めるきらいがある。甲斐の現実を知るためには、甲斐の国主という立場になる必要があるのだが。

――信繁や板垣、馬場、諸角らがおれば、晴信も間違えまい。

 自身もそろそろ五十歳になる。明日をも知れぬ戦国の世。後継者が成人するまで生きられたことは幸せであろう。

「御館様、そろそろこちらに」

 唐突に声を掛けられ振り返ると、そこには大井宗芸らが困った顔で、居場所なさ気にしていた。どうやら館に入った後、そのまま考え事を続けていたらしい。

「あぁ、着いておったな」

 ほっとする宗芸達を余所目に、信虎は旅の疲れを落とすため、案内された部屋に入った。



 義元との会談はおよそ戦国大名同士とは思えないもので、龍王丸の成長の様子や旬の魚の話題など、庶民的なものであった。

 河東について話をしようとした信虎としては拍子抜けであったが、利発そうな龍王丸が「じじさま」と、たどたどしく来れば、つい口元が綻んでしまう。

 信虎はその日常からは信じられない好々爺の相好で、つかの間の休息を楽しんでいた。

「義父上」

 ふと義元が提案する。

「我が家と誼を結ぶ前より、足利将軍家や本願寺との交流があったと聞き及んでおります」

 ついては細やかな連歌でも如何でしょうか、と。

 信虎は京都の将軍や公家との縁を望んでおり、多くの努力をしてきた男である。甲斐の山奥にいながらも、自身が京の文化を取り込むことで、一目置かれる存在になれるよう努力してきた。

「婿殿のように都に行ったわけではないが」

 と、謙遜しながらも、大井らと共に行うこととした。



 では、と、信虎が発句を務める。



 見る人の 心のそこに すむ月や



 月が綺麗な夜である。

 季節柄やや霞んでいるようにも見えるが、そこがまた美しい。

 信虎自身、心の底は今宵の月のように澄んでいるのであろう。



 ちりもくもらぬ 老いし身の程



 信虎の歌を受け、義元付の飛鳥井雅教が返した。

 歳を重ねても衰えないと、婉曲に信虎を褒めている。



 世をうつし 思い捨てぬる 心もて



 晴れし心に 戻る甲斐なし



 続く大井宗芸と義元の歌が妙である。

 思い捨てぬる、とは大井宗芸の本心であろうか。娘を信虎に人質に出し、自身は出家し世を捨てさせられた。時が流れたから恨みなどない、とも取れるが、この信虎追放劇に同行している辺り、孫である晴信から何らかの依頼があった可能性がある。

 だとすれば、今回晴信に追放されるとしても、恨みは持たずに捨てなさい、と窘めているようにも取れる。

 そして挙句に当たる義元の戻る甲斐なし。宗芸の句を受け、恨む心に戻る必要は無い、と取るのが自然であろうか。だが、これまでの流れを一切無視して読めば、「晴信の考えでは、甲斐に信虎の帰る場所は無いよ」とも取れる。

 様々な思いを胸に、連歌はその後も静かに続いた。



 数日滞在した後、信虎は満足げな表情で帰路に就く。

 だが、ただひたすら甲斐の為に尽くし、甲斐を守るために戦い続けた彼は、この後愛した甲斐の人々に裏切られたことを知る。

 数年後隠居を受け入れ無人斎道有を名乗るが、死の数年前まで甲斐の地を踏むことは許されず、慈しんだ長男と二度と会うことは無かった。

 作中の詩は、数年前に放映されたドラマの中で出ていたものです。

 知っていながら優しく接する義元公が好きで、創作であろうと思いつつも今回引用致しました。問題が生じるようであれば、この場面は速やかに消去します。


 そして今回、物語のキーマンであった信虎が退場しました。

 信虎の印象が悪いのは、偏に晴信の正当性を確保するため、あることないこと捏造されたからと考えておりました。そこで河東に絡む彼の立場と行動だけを辿ろうとしたのですが、考えれば考える程、調べれば調べる程、彼は甲斐が好きだったのだろうと。そのように思えてきました。

 家族を失っても甲斐を纏めることを選び、今川家の調略に翻弄され、甲府近くまで蹂躙され、北条に右腕のような弟を殺され、それでも甲斐の地を守り抜き、最後には我が子に捨てられた信虎。有能であったからこその悲劇であり、何とも言えない無常さを感じる人でした。


 物語を書き進めるにつれ、登場人物が勝手に動いてくれると言いますか、話を進めてくれるようなことがあります。特に信虎は自由に、豪快に動いてくれました。


 閉ざされた国境で

「これで甲斐が」

 と、喉が枯れたような声で、それでも国主としての威厳を保とうと、この時出せる声を絞り出して

「晴信の下、良くなろう」

 と。言い、

「我が息子だ。甲斐源氏棟梁たる、この武田信虎の世継ぎだ。」

 と。

「駿河の婿や佐久の義清、相模や上野、関東一円、いや、日の本に敵うものなどおるまい」

 白髪交じりになりながらも艶々しい髭を震わせ、悲しそうにも嬉しそうにも見える笑顔で、信虎が言う。


 ・・・ような気がしています。


 名将の最後と言うのは、必ずしもハッピーエンドではないです。

 だからこそ心惹かれるのかもしれません。

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