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河東の乱  作者: 麻呂
河東
31/52

義父

「何と、北条が河東に」

 娘が嫁いでから二月も経たぬうちに、婚姻を切っ掛けに戦が起こり、婿が苦しんでいると言う。

「相模の阿呆は小田原に籠っているうちに、婿殿の気持ちが分からなくなったのであろう」

 信虎は気の毒そうに言うと、今川から来た僧へと目を遣った。後頭部が絶壁のようになっており、頭蓋骨の形が悪いながらも姿勢良く座っている。

 と言っても信虎は僧を観察している訳ではない。彼の目は僧を向いているだけで、僧の姿など見ていない。

――早過ぎる

 今川-北条間に楔を打ち込むつもりであったが、まさかここまで早く北条が戦を起こすとは思ってもいなかった。更に一月も経たぬうちに駿河の半分が押さえられたと言う。

――氏綱め、やりおる

 山中の戦いからもうすぐ2年になる。福島正成らに翻弄され、氏綱に弟を討ち取られた苦しみが癒えるには短すぎる期間であった。

――葛山だな

 河東に影響を及ぼす北条側の人間と言えば、葛山氏広であろう。須走から吉原まで手の込んだことをしたものである。

――病であると聞いていたが偽りであったか

 それとも最後の奉公か、と、信虎は内心笑うと、僧に部屋に下がるよう伝え、祐筆に何点か伝える。

「これで信友の弔いができると言うものよ」

 陰を隠せない笑顔を浮かべ、信虎は席を立った。


 だが、信虎が兵を挙げたのは年明けであった。北条と今川の潰し合いを望んだため、という訳では無いであろう。

 米である。

 甲斐の収穫高はお世辞にも良いとはいえない。土が弱い、と言うよりも窒素、リン酸、カリのバランス等、現代の肥料における基礎知識さえ無い状況で、尚且つ品種改良も進んでいない。寒さに負けるものもあれば、病害に弱いものも多々含まれた稲作である。

 このような状況において収穫量を増やすにはどうすれば良いか。病気は止むを得ないにしても、寒さであれば温かい地域を目指す、という手がある。

 そしてもう一つ。1枚の田から僅かな米しか採れないのであれば、純粋に耕作面積を増やすことが考えられる。

 それだけではない。戦国時代の甲斐信濃は酷い寒波に何度も襲われ、老人や子供が凍死している。更に大雪や雪解水による土石流被害等、正に呪われた土地であった。

 甲斐国主武田信虎の生涯は、戦に塗れたものであったと言える。だが、それは国内の安定と家臣や一族の繁栄、いや、生き残りのためと言って良い。

 甲斐国内が安定しなければ、農民は安心して耕作することができない。また、水利の悪い甲斐であるが故に治水整備も強く求められる。ところが治水工事には多くの人を駆り出す必要があり、そのためには農民から労働力の提供を受けねばならない。

 無論、不可能である。

 米不足、人不足、悪環境。この負のスパイラルを脱却するにはどうするか。戦国一の戦上手と謳われた上杉謙信の小田原攻めが有名であるが、戦による奴隷確保である。

 信虎の戦については様々な面から評価すべきであろう。彼は甲斐の経済を理解した上で領国安定を目指し、戦による解決を選んだ。晴信が継いだ後も戦が続いたことからも分かるように、甲斐という国は単独で人口を維持できぬ地である。戦による領土拡大と労働力確保は、終わりの無い解決策なのである。


 吉原で義元が敗北したことは承知していた。信虎には富士川沿いに下るか、御厨を攻めるかの選択肢があったが、信虎の答えは決まっていた。

――山中を越える

 これは決して感情的なものでない。今川と北条が引き続き富士川で睨み合うのであれば、北条の横腹を突くのが当然の策である。

 北条は義元を下した翌月、即座に上杉を攻めている。これは北条が河東地域で暴れている最中、4月に上杉朝興が死んだことによる混乱を突いたものであり、恐らく氏綱は上杉が攻めてこれないことを知っていたのであろう。そして今川との短期決戦を望み、今川の主力を一叩きして動きを封じ、返す刀で関東進出を狙っていたと見える。

――北条は疲れていよう

 今川にも上杉にもかなりの兵力で攻め込んでいる。北条の力を知らしめる効果もあるが、戦慣れした信虎から見れば、氏綱の無理や苦悩が良く見えた。

 だが、雪解けを待つ信虎を嘲笑うかのように、春の終わりから御厨一帯が騒がしくなり、北条側から再び吉田に攻め込んできたのである。

 天文7年5月、信虎にとって望まぬ形で北条戦が開始された。


 人は希望があれば生き長らえることができると言う。では、終わりの見えない戦ではどうなるのか。

 武田北条の戦は小さな消耗戦を続けるだけの、まさに不毛な戦いであった。北条側に大将らしい大将はおらず、吉田を攻めていながらも小規模な戦ばかりで決戦には至らない。

「時が惜しい」

 信虎は人一倍働く男である。活動量だけで言えば、信長にも引けを取らないのではないだろうか。

「国中へ戻らねば」

 国府において政を行うのが国主の務めであるが、信虎にはそれが許されない。いや、信虎の性格が許さないのであろう。戦には自ら赴くことが多く、それが故に戦好きのような印象を持たれているのである。

 天文7年10月、北条は比較的大規模な戦を仕掛けてきた。だが、それでも主力は垪井氏や駿河の須走氏といった地侍であり、北条軍と呼ぶには物足りない構成である。

 信虎はそうした小競り合いにも積極的に介入し、相応の結果を出し続けた。が、決定的な勝利ができない。

 そんな信虎を嘲笑うかのように氏綱は主力を国府台に向け、関東制圧の足掛かりを築いている。言うなれば武田に背後を突かれないよう足止めをしていただけであった。


 国府台陥落の報に接した信虎は、そうか、と一言だけ応じた。

――怒っておられる

 近習達は静かな信虎の態度に恐怖を覚えたが、信虎は八つ当たりするでもなく、侍大将を集めるよう命じた。

――すわ突撃か

 様々な緊張感に身を固くする近習達を余所に、信虎はその印象とはほど遠い策を選んでいる。

「皆、よく聞け」

 北条に喰わされた。が、ただでは返さぬ。と言う。信虎自身が出陣している以上、敵に必ず損害を与えると。

「これより交互に陣を構え、北条共をこの甲斐に押し留めよ」

 妙な命令であった。通常であればここで総攻撃し、一気に駿河へ押し返せば良い。だが、信虎は兵を留めさせると言う。

「御言葉ながら」

 兵糧少なく、長い戦はこちらが不利だと、したり顔で言う男がいた。

「晴信」

 信虎の嫡男晴信、後の武田信玄である。彼は義兄の影響か兵法書を読むようになり、陣にも持ち込んでいるようであった。

「ぬしは阿呆か」

「なっ」

 何を仰せにと言う前に信虎が重ねる。

「北条は国府台を取ったと言う。さればここを拠点に関東に攻めよう。だが、小弓公方を討ったことで地侍共が騒ぐ。それにまだまだ上杉は強い。」

 一息吐く。

「この先北条は関東に長く力を注ぐこととなる。故に、ここに居る駿河相模の軍勢を武蔵に行かせぬことで、そちの亡き妻の父へ義理も果たせよう。」

 晴信を見据えて言う。

「それにな、兵糧が無くとてここは我らの土地ぞ。また米は出来る。」

 放っておいても相模が和睦を申し込んで来る。と言うと、信虎は家臣達の陣割を指示した。細部まで気の回る男である。


 武田北条の小競り合いは、翌、天文8年まで続いた。

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