河東
今川家の西部戦線は安定していた。三河では譜代の家臣達が信定に対して不穏な動きを見せており、中には明確な広忠支持を打ち出す者もいて、遠江への援軍が困難になっている。そこに天野や朝比奈といった西部の有力諸将が満を持して突入したため、援軍をあてにしていた堀越や井伊は一気にその力を失うこととなった。
西部で活躍した武将も、東部戦線に投入されている者も、花蔵の折に義元派として活躍した諸将である。この北条家からの外圧を利用し、裏切り者を炙り出そうという魂胆も透けて見えるが、歴戦の猛者である氏綱に対してはこれが中途半端な策となってしまい、東部防衛線はじわじわと後退することとなる。
東部最前線となった吉原。だが、吉原そのものに砦は無く、善徳寺城が富士川河口部における重要拠点と言ってよいだろう。
義元は西の対策を取ると、自ら兵を率いて富士川西岸まで辿り着いた。だが、既に善徳寺城は囲まれており、一日も早い救援を待ち望まれていた。
――まずい
善徳寺城の状況を聞いた義元は直感する。
「駿河」の名の由来は富士川が急峻なことから付いたと言われ、尖る河が駿河となったと言う。古代より急峻な川として知られる富士川は、大井川と共に東海道における渡河の難所であり、渡河攻撃ともなればその難易度は劇的に高まる。
源平の富士川の戦いにおいても両岸に対峙して睨み合いとなったように、富士川における渡河作戦は危険であった。
――だが
行かねばなるまい。ここで善徳寺城を見捨てるようなことがあれば、家臣達の信頼を失うこととなる。
城内はここ数日抵抗が弱まり、北条側も降伏を進めている状況だと言う。しか、城が降伏していない以上、義元はここで戦わねばならない。
善徳寺だけでない。2月下旬の開戦からこの6月にかけて、浅間神社内でも今川派と北条派による内部争いが起こり、吉原でも地侍達の反乱が起こっている。この時点で今川と北条の影響力が入り組んでいるとも取れるが、実態としては北条が有利であった。
義元は富士川西岸で指を加えている訳にはいかない。だが、相手は歴戦の北条氏綱であり、一歩間違えればそのまま海の藻屑となるであろう。
――近くには風魔が潜んでおろうな
今川がいつ攻めてくるのか。氏綱はそのタイミングを知る必要があるため、多くの風魔を付近に忍ばせていることだろう。
そこで義元は陣中から甲斐に向けて人を多く遣った。当然これは入り込んでいる風魔の目に留まるが、それで良かった。甲斐に向かった兵は南部に入ると服を替え、2、3日すると順次陣に戻って来た。
北条側からすると、義元が西岸に着陣するや、甲斐との連絡が盛んになったように見える。義元が甲斐と連絡を取り合うとすれば、対北条の援軍要請であり、その数が増えたとなれば進軍が近い証拠であろう。
氏綱の風魔は甲府と蒲原以東に多くいた。武田の動きはこの戦いにおける北条の死活問題であり、今川陣内の動きや西からの援軍も調べねばならない。更に武田にとってもこの戦況は絶えず欲しいものであったため、前線付近の甲斐領内南部には武田の透破が多くおり、結果、南部周辺は北条情報網の「穴」となっていた。
北条側の情報は錯綜し、富士川北東部と御厨方面に兵を割くこととなったが、同時に氏綱は義元の襲来に備えて臨戦態勢を採った。
――小癪な
と、思うがこれは善徳寺救援が近い、と言うことであろう。戦場における流言は多いが、何かしら意味を持って流れることが多い。
事実、翌朝義元本隊が渡河作戦を決行した。が、義元は善徳寺に向かわず富士川上流へと向かい、大石寺方面に向かった北条軍の背後を突く形で兵を進めていた。
「義元殿は戦を知らぬようだ」
氏綱は抵抗が弱くなった善徳寺には僅かな兵を残し、逆に今川軍を南北に挟み撃ちしようと1万5千の兵を進める。だが、気になる。
「一昨年の甲斐攻めでは良い動きをしていたが」
何故このような無謀とも言える作戦を採るのか。挟み撃ちの危険性が高いではないか。
――雪斎とか申す坊主か
坊主が戦を執るとは思えないが、無い話ではない。血だけの凡庸な若造が入れ知恵で取り繕っていただけかもしれぬ。
――やはり福島越前か
今川家の軍事司令官とも言うべきは、やはり福島正成であったかと改めて思う。
と、そこへ伝令がやって来た。
「善徳寺城より兵が出、大道寺様の軍勢と戦っております」
――これか。
本隊を囮に包囲兵を減らし、善徳寺城の将兵を助ける道を選んだか。
「良い。こちらには万を超える兵がおる。5千を以て善徳寺の逃げ道を封鎖し、若造共々揉み潰してやれ」
――若いが良い判断だ。
戦国大名として合格である。将兵を見捨てなかったことで、義元は家臣の信頼を得るだろう。
――だが、舐められたものよ
既に早馬が走り、大石寺に向かった兵は砦内において防御態勢に入っている。義元達が到着したところで、そう簡単に落ちるものではない。氏綱達が到着すれば、すぐに挟撃できよう。
「…と、相模殿は思うておろうな」
馬上、義元は誰にともなく言う。
「ここは駿河で、我の庭のようなものだと申すに」
幼い頃修業した善徳寺周辺は昔と何ら変わらず、細い道や雑木林も当時のまま残っている。今日新東名の新富士インターチェンジの場所は小高い丘になっており、義元は姿を隠すようにその北側を東に進み、大渕で兵を一時休ませると、法蔵寺を経て善徳寺城に北から向かった。
既に善徳寺城は北条の手に落ちている。だが、義元に城を奪い返す気は毛頭なく、西から来ると思い込んでいる北条軍を東から奇襲するのが目的であった。
北条がどれだけ南に兵を向けたか。互いに激しく動いており、物見も自軍に報告するのに一苦労する状況である。
――多く無ければ良いが
そう祈る義元の目に映ったのは、善徳寺の西、南北に伸びる北条軍の姿であった。
――囲む気か
このまま時間を置いてしまえば鶴翼陣のような形で囲まれてしまう。義元は躊躇せず声を張り上げた。
「良いか、我らはこのまま北条の横腹を突き、河を渡る」
由比、蒲原に先陣を切らせ渡河場所を確保するよう命じると、北条にとっては味方が来る筈の善徳寺方面から駆け込む。
しかし、義元にとって間の悪いことに、物見の報告を受けた氏綱軍も南下していた。
「松田様より伝令。今川軍が善徳寺の北に現れました」
義元の迂回作戦は功を奏したかに見えた。だが、吉原一帯は比較的開けた土地であり、身を隠す場所は限られている。善徳寺封鎖作戦に向かう兵と東西に並行する形となり、義元の居場所は北条の知るところとなった。
善徳寺封鎖軍は予定通り南北に隊列を組み、義元本隊に備えようとしていたが、陣立てが終わる前に突撃してきた由比勢により、中央から南側に掛けて大きく隊列が崩れることとなる。
伝令を受けた氏綱は即座に転進すると、包囲軍に合流するため兵の速度を上げた。足軽の一部には付いていけない者もいたが、ここで義元の首を取ることの価値に比べれば何ら惜しむことは無い。
「見よ。あれに見ゆるが駿河の首よ」
吼える様に叫ぶ氏綱の声に、相模兵の士気が上がる。大将首ほど魅力的なモノは無い。
両軍は伝法付近で衝突することとなった。
「構わぬ、このまま突き抜けよ」
義元は大声で言うが、包囲軍は残った兵力を纏めて北西から抑え込みに掛かってきた。そこに合流した氏綱本隊は、今川軍を海に追いやるかの如く激しく攻め立てる。今川軍は横を突かれた形となり、命令系統が機能しなくなっていたが、そこへ渡河拠点を確保した蒲原軍が戻り、北西から包囲軍に矢を射掛ける。
衝突したのは未の刻であったろうか。昼が長い季節とは言え既に太陽は朱色に変わりつつあり、背後から迫る蒲原軍は北条にとって悩ましい存在であった。義元本隊との戦いは半ば乱戦となっており、そこへ背後から射掛けられてしまっては、兵を維持するのもままならない。
旗印を頼りに刀や槍が行き交うが、義元も包囲軍も、そして氏綱も状況の把握ができていなかった。
「松田に伝えよ」
氏綱は混戦の中、重臣に今川を追撃する旨を伝えるよう命じた。松田氏は草創七手家老と呼ばれる北条が小田原に入った頃からの重臣である。戦に強く、氏綱の信頼する家臣であった。
今川軍が富士川を目指しているのは分かる。だが、その勢いは激しく、西に回り込もうにも乱戦で馬の機動力が活かせないし、回り込むだけの距離も無い。
――ならば
氏綱は今川軍の背後から攻めたてることを選んだ。
――だが
現時点で既に兵の損失が大きい。ざっと見えるだけでも死傷者は千を超えている。ここは兵を引き、動ける者に任せるのが良い。
「一先ず兵を立て直す。今まともに戦えるのは松田をおいて他にあるまい」
氏綱は夜戦になることを恐れた。義元がここまで小賢しく動いたのも地の利があったからであり、ここで夜戦をするのは得策ではないであろう。
――好機
北条の押しが弱くなったと見た義元は、敢えて兵を少し北に向けた。乱戦の中で北条が引こうとしているのは、その後に突撃が控えているか、はたまた純粋に撤退する気か。いずれにせよ、このまま北条に肉薄して分断してしまえば良い。
北条の脇腹を食い破ることができれば、蒲原と合流して富士川へと戻れる。追撃があったとしても、渡河地帯には由比が控えていた。
「北条には一矢報いねばならぬのよ」
兄を殺して手に入れた駿河の地。そこに手を出された以上、命懸けで戦わねばならぬ。
「戦国大名とは、これほど難儀なものであったか」
返り血や己の血で汚れた顔のまま、未だ血が飛び交う戦場で、何故か義元は笑みが湧いてきた。
――狂っておるわ
自分が選んだ道は狂った者しか進めない道である。
義元にとってこの戦場は、己の狂気を確認するための通過儀礼となっていた。
「食えぬ」
氏綱とすれば、富士川以東の旧北条領を支配することが第一段階の目的であり、今無理に渡河して義元を追う必要は無い。
だが、気に入らないのは北条の引き際を待っていたかのような追撃であった。西へ逃げるように動いておきながら、北からの圧力を弱めた途端に北を突いてきた。
「小癪にも良く兵を動かす男だ」
苦々しく言う氏綱の下した、義元評であった。
「首は取れなんだが」
兵数に勝っておきながら勝ちきれなかった。だが、結果として今川軍の方が死傷者を多く出し、善徳寺城も北条の手に入ったため、氏綱としては戦略的な勝利を収めたこととなる。そして北条軍の強さを知らしめることができたであろう。
新当主に恐怖や敗北感を植え付けることで、今後の戦も有利に進められる。何よりの収穫であった。
――富士、大石勢が来ておらなんだな
義元は東岸を見て思う。どうやら大石勢は砦を守ることに専念しており、この戦いには参加していなかったようである。
――助かった
浅間神社の富士氏や、大石寺の勢力までもが北条北部軍と共に南下していたらどうなっていたか。
機動力、兵の運用とは今の言葉であるが、義元はこの戦で身をもって重要性を認識できたであろう。
「皆、落ち着いて渡れ」
思った以上に兵を失った。重要拠点も失い、敗北と言って良いだろう。
――これが我の力か
この戦は確かに負けた。だが、義元は目の前の勝敗以上に家臣からの信頼を重視した。勝利の名声が欲しければ信虎の出陣を待ち、少しずつ攻めるのが定石である。無論、氏綱も対策をしてくるであろうが。
――勝ちたい。いや、勝たねばならぬ。
夜の帳に包まれる駿河湾を見つめる若い太守は、心の底から力を欲していた。
「未熟よの」
夏の夜の駿河の風は、磯の香りを義元に運び、矢傷に汚れた頬をそっと撫でる。最後の突撃で見せた無心の笑顔は消え、仏頂面で水面を見つめていた。
天文6年6月。今川義元にとって大きな挫折の経験であったが、その試練はまだ続く。




