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河東の乱  作者: 麻呂
花蔵
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葛山

 この頃の今川・北条にとっての外交窓口は、河東の葛山氏広をおいて他に無い。いや、両国のパイプは寿桂尼を始め何本もあるが、氏綱の弟であり今川家重臣である彼ほど、両国の外交において重きを為すものは居なかった。

――どうしたものか

 彼の手には数日前に届いた兄からの書状が握られている。今川家と武田家の婚姻について、義元の真意を探るよう書かれていた。

「あの御館は三河しか考えておらんよ」

 と、一言で片が付くであろう。氏広の見るところ、義元は花蔵後も氏広を重用し、北条との同盟を基軸として戦略を描いているように見える。武田と結ぶことで後顧の憂いを無くし、三河を攻めたいのであろう。

――だが、兄は納得すまい

 恐らく義元は兄の性格を分かっていない。北条氏綱は相模に憑りついたような男であり、相模に少しでも影響があると見るや、その問題を取り除くまで病的なまでに執拗になる男である。

 逆もまた然り。兄も義元を分かっていない。義元としては武田と婚姻を結ぶことで、万一の時には自らが仲裁に出る気でいたし、将来の三国同盟の基本となる構想があったのかもしれない。

――どう説明するか

 そもそも義元が自ら氏綱に説明すべきであろう。氏綱も間者を放ち密使を送り、様々な方向から義元の真意を探ろうとしているが、本人に聞かねばどのような答えでも納得できまい。

 大きなため息を一つ吐くと、氏広は昨日と同じように書状をしまい机の前に座った。正直に伝えても納得されないし、下手をすれば今川家に取り込まれたかと兄の疑惑を招く。ならば調査中として暫く放置するのが良かろう。

――とは申せ

 ここ数年の口癖を心中で呟き、またため息を吐く。ふと気付けば息が少し白い。

「火鉢を持て」

 と言ったものの、まだ用意はできていないであろう。少しずつ冷え込んできたものの、火鉢を出すような時期ではない。だが、そんな日常さえ忘れ、氏広は白紙の書状を前に3度目のため息を吐いた。



 氏広が頭を抱える相互不理解の原因として、今川首脳部における寿桂尼の存在がある。義元も雪斎も北条との関係は引き続き維持すべきと考えているが、具体的な外交となると、夫を助けた早雲への親しみが強く、北条とのパイプが太い寿桂尼の存在が自然と大きくなる。

 義元・雪斎は新たに築いた武田家との外交を担当し、寿桂尼がこれまでに築いた北条との外交を担当すると言う方針が出来上がったのも当然のことであろう。

 北条家においても、氏親―氏輝(寿桂尼後見時代)―氏輝(専制時代)と変わらず友好関係にあった今川家を、花蔵の乱で支援した義元が継いだことで同盟関係は万全と思っていたし、過去に後見をしていた寿桂尼が今も一定の影響力を持つ以上、関係が崩れるという予想はしていなかった。

 言うなれば、どちらも寿桂尼の存在に頼り切っていたのである。

 義元は寿桂尼がいれば北条との関係は万全と考えていたし、氏綱も寿桂尼がいる限り裏切られることはないだろうと踏んでいた。

 事実、義元は北条を裏切ろうともしていない。寿桂尼は今川首脳部の北条担当であり、北条も信頼できる相手であった。

 根回しの重要性を失念していた義元の若さと、相模の存続に鋭敏過ぎる氏綱の性格、そして楔を打たんとする信虎の過剰な動きが氏広を悩ませていた。



「催促か」

 氏広の顔色は悪い。兄があちらこちらに送り込む密使が、連日のように御厨や根方街道を行き来し、いつ新当主の疑惑を招くかと胆の冷える日が続いている。

――あの御館はどこに目があるか分からぬ

 天網恢恢とでも言うべきか、敵味方の動きを良く見ている。

――兄にも目を向けてくれれば助かるが

 無理であろう、と思う。義元は歳の離れた兄を信じるが如く北条を信頼ており、彼の間者は三河方面を中心に活動していた。

「もう二、三日待つ様伝えてくれ」

 氏広はそう言いながら自室に入った。

――風魔が河東に出入りするだけでも困るのだが

 新当主義元は兄を追い詰めその後援者を追放し、家中が分断するかと思いきや、兄側に付いた者も早期に下れば許した。人の心、それも恐怖や欲といった抗えない部分を理解していると言えるが、同時に殺す必要があると判断すれば躊躇なく殺すという、貴人情を知らずを地で行う恐ろしさも持ち合わせている。

 そんな新当主がまだ家臣達の様子を観察しているであろうこの時期に、何故兄は余計な勘繰りを入れるのか。いや、理由は分かりきっているが、それでも文句を言いたくなる。義元が北条との断交を考えれば、まず真っ先に葛山が、と言うよりも氏広の首を胴から離すことで血祭とするだろう。



 3日後、氏広は風魔の使いに書状を預けると、ゴホゴホと咳き込み早めの床に就いた。季節は秋から冬に代わろうとしており、心労が重なったのかもしれない。

 彼が書いた当たり障りない書状は、当然のことながら氏綱の満足するものではなかった。しかし、後日報告された「河東の吉原で風魔が消えた」という話は、氏綱にとって悪いことではあるが、同時に待っていた内容でもあった。用心深い男というものは、時として悪い情報のみを求め、信用する。

――今川に気付かれたか

 婚姻が成れば戦をせねばなるまい。だが、それはギリギリまで外交努力を続けた上に生じる結果であり、やるとなれば奇襲により一気に攻めねばならない。東が不安定である以上、西に時間を割くことはできないのである。

――書状さえ届いておれば良い

 時間は多く残されていない。だが、それは今川にとっても同じことであり、決別が決定的となる輿入れの日程次第では、どう転ぶか分からない。

――春であろう。

 倅に将軍から名を貰いたがるような、プライドの高い信虎が雪を掻き分けて輿入れなどさせまい。戦になるとすれば春先。それまでに支度せねばならぬ。

 信虎の激しい戦い方は義元にとって御しやすかったが、用心深い氏綱の性格は信虎のような男にとって御しやすいのであろうか。いずれにせよ、花蔵の乱における信虎の狙いは、彼が予想した以上の成果を河東の地にもたらすこととなる。

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