風魔
現在の沼津市北部、根方街道を西へ進む乞食がいた。その移動の遅さから老いたように見えたが、その顔を見ると肌が若い。氏綱の頼る風魔の若者であった。
根方街道は平安の頃からある街道だが、今日自動車社会となりその細さで敬遠され、南に国道一号線のバイパスが走っていることから、地元民の生活道路や抜け道として使われている程度となっている。
余談ながら沼津はその名の通り、古くは駿河湾が奥まで入り込んだ沼沢地帯であり、国道一号線バイパス工事もその地盤の緩さから困難を極めた。根方街道は愛鷹山の裾を沿うように通っており、この道沿いでは由緒ある寺社仏閣を見ることもできる。この頃は東海道と並ぶ主要幹線道路と言っても良い。
この風魔に与えられた役割は婚姻の妨害工作や情報収集、それに河東の勢力へ密書を届けることである。「あの武田と婚姻だなんて」と、婚姻を否定的に受け止める空気が強ければ、まだ基盤の安定しない義元にとって民心掌握の負担が増え、先送りや破棄、という選択肢も出るであろう。だが、彼が原に着くまでの間、好意的に受け止める話ばかり耳にしており、戦に疲れた駿河の人達に彼の工作は届かないと気付く。
「つまらん」
この風魔は「じぞう」と呼ばれていた。「地蔵」か、それとも「二蔵」「二三」とでも書くのだろうか。ここでは二蔵とするが、若く見えるものの経験は積んでおり、山中の戦にも参戦し、花蔵の際には敵陣に忍び込んでさえいる。だが、どうしたことか今回の仕事においては、彼にとってやり辛くなる情報が道々に溢れ、上手く行く気配がない。
「女でも買うか」
と、その姿とは縁遠いことを呟き立ち止まった。傍から見れば托鉢僧が念仏を唱えているようにも見えるのは、二蔵の技術が高い証拠であろう。
右手を見れば、先ほどまで山の向こうに見えた富士山がその姿を悠々と現している。原を過ぎたと思ったら、既に吉原に近付いていた。蛇足となるが、東海道吉原は左富士として有名な景勝となるが、この頃は海沿いの宿場であり、江戸になり高潮被害で移転するまで左富士は存在しない。
腰を反らして伸びをすると、二蔵は再び歩き出し、吉原に向かわずそのまま西へ向けて進み出した。潤井川沿いに北へ向かう彼の姿を、道行く人は大石寺に向かうと思い込んでいたが、彼の目的地は大石寺のみならず、更に北の富士山本宮浅間大社であった。
「ご苦労。暫し待て」
と、一方的に言うと、その侍らしき男は二蔵に背を向け神社に消えた。
――偉そうに
そう感じていたのは数年前までの話で、今は感情が移らず都合がよいと思えるようになっていた。時としてその場で斬り合いとなることもある。今の侍のように用件だけで済むのは最も望ましいビジネスパートナーである。
「それにしても、だ」
秋は月が良い時期であるが、今夜はその月が心無しか大きく見える。稀に見る月の光の中、二蔵はここまでの仕事を振り返っていた。
情報が統制され過ぎている。いや、この婚姻の情報だけが統制されているように感じる。何者かが意図的に流しているのではないか。庶民にここまで大名の情報が流れているものだろうか。
――今川は伊賀であったか
伊賀者を使って早い段階から情報を流し、北条から来るであろう妨害工作を防ごうとしているのか。それとも武田の透破か。いずれにせよ、この情報の速さと備えから見るに、確信的な動きであると見て良いだろう。
――今川は北条を見限ったか
もしそうだとすれば、今自分が渡した書状には何が書かれているのか。二蔵は忍の立場で考えるべきでないことを考えてしまった。だが、これは彼の生存本能と言って良いだろう。選択を誤った時、どのような結末が待っているか言うまでもない。
――油断が過ぎた
二蔵にとって今川は北条の同盟国であり、甲斐武田や武蔵上杉のような敵国に入る緊張感が無かった。だが、もし戦が始まろうとしているのであれば、今この場所は最も危険な場所である。
待て、と言われたが時間も大分過ぎている。月明かりの中待ち続ける姿は、神社に宿を求める僧の姿そのもの。だが、その足は小刻みに震えていた。
――隠れよう。
大社町に戻り、どこかに姿を隠して様子を伺えば良い。そう思うと彼は即座にその場を離れた。
「月が」
邪魔だと恨み節を出しつつ、彼は身を隠すのに相応しい場所を探す。すると彼の姿を仲間と思ったのか、本物の乞食が手招きをしてきた。
「夜も遅い。この刻限では仏も涅槃に居られよう」
年期の入った乞食は割れた茶碗を片手に、半ば朽ちた小屋へと二蔵を誘う。雨露を凌げれば良い、という二蔵の言葉に再び小屋へ誘う様子から、二蔵はふと気付く。
――男色か
老いて見えるが盛んなことよと内心笑いながら、彼はその招きに応じた。命に比べれば体を預ける方が容易い。小屋の中ならば万一の追手も気付かぬであろう。
外の月明かりで小屋の内側は何も見えないが、二蔵は恐れなく小屋に入る。そして中の様子を見ようと瞼を二度三度動かしたところで刀の音を聞いた。
「外れか」
乞食は二蔵の服を漁ると、その中に書状が無いことを確認して吐き捨てるように言った。
「良い。いずれにせよ風魔だ」
「斬り方が、チト悪い」
物取りに襲われたように斬れぬかと文句を言う乞食に、町人姿の男が応える。
「どこの阿呆が乞食から物取りするかよ」
喉の奥を鳴らすように笑うと、二人で二蔵を蓑に包む。
「川だな」
どちらともなくそう言うと、闇夜にはほど遠い月明かりの中、獣のような速さで西に消えた。




