花蔵
今川氏親三男、花蔵城主今川良真と言えば聞こえは良いが、敗戦濃厚の状況では名は飾りでしか無い。だが、城内には緊張感が張り詰め士気は高かった。
山城は防御に特化したものであり、花蔵城も今川家ゆかりの城だけあってその守りは堅い。城内の士気が高いのも、偏にこの花蔵城への信頼感から来ているのであろう。
だが、既に花蔵城外には義元側の野戦陣地が幾重にも構えられ、互いに相手の兵の動きを伺える距離にある。義元側は正面に当たる東の尾根、搦め手の坤門からも兵を進める用意はできており、その下知一つで駿河の内乱は終幕へと向かう。
本陣からの陣太鼓が聞こえると、瀬名勢は東の尾根伝いに兵を進めた。しかし、土橋状の細い道が続いており、その速度は遅々としたものである。曲輪から飛んでくる矢や石を防ぐために盾を上に向けて進むものの、林の中に潜む花蔵勢もおり、横から来る矢を回避するために仲間と共に落ちる者まで出る始末であった。
「ご先祖は随分と戦がお上手だったようだ」
焦る伝令を前に、義元は笑みを浮かべながら一人ごつ。
「恵探程度の者がこれほど粘れるとはのぅ」
居心地が悪そうに頭を垂れる伝令に、坤門の岡部、朝比奈に兵を進めるよう伝えよと言うと、義元はこちらを見ているであろう花蔵城の本丸を眺めて考えた。
――討ち取らせるのは悪手か
今川家の権威付けのためには、どのような形で恵探を「死なせるか」が重要である。
正室の子と側室の子。ただこれだけの違いであっても「血」によって義元は神格化される。自身の立場を内乱後も確たるものとするためには、兄弟の死も自らの糧とせねばならない。
――自刃が良い
家臣から見れば、恵探は主筋の「血」を引く者である。今川の「血」をより貴いものと認識させるためにも、今川家の血を他人に流させてはならない。
伝令を呼び戻すと義元は何事か命じ、兄の籠る花蔵城をよく見る為に陣幕の外に出た。
「良い城だ」
城から見れば駿河湾まで見渡せよう。守りも堅く、視界も良い。
――だが
山に籠っていては勝ち目が無い。楠正成のように神出鬼没な戦をするのであれば兎も角、兄は死を待つだけである。
――哀れな
とは思わない。義元自身が命を落としそうになった場面もあった。
――諸行無常。諸法無我。
肘と肘を近付けるという、一見すると窮屈な形で義元は静かに両の手を合わせる。
結び目の朱い紐が歪な形で重なっていた。
「敵に福島はおらぬ。戦を知る者は今日こそ名を挙げよ」
義元の指示を受けた岡部・朝比奈の両軍の前には、まだ若い当主宗信を中心に良く纏まった松井勢がおり、伝令が来たと見るや、南西の急な斜面や堀切を逆に利用し、敵の死角に入ることで攻略を始めた。
「あやつらは阿呆か」
あまりの突出ぶりに石を落されたらどうするのかと笑う者もいたが、松井兵の勢いは凄まじく、遠くで見る岡部、朝比奈等の重臣クラスも慌てて兵を投入していった。
勢いは義元側にあり、松井宗信ら若手の勢いがこれを後押しし、小さな波が大きなうねりとなるように攻め手が膨らみ、これを見た北条勢までもが兵力を投入したことで戦況は確定する。
義元は勝てる戦を作っていた。勝つべき戦を作った者が勝つのであり、戦は始める前に勝敗が決している。花蔵城は南西から落城へと向かっていった。
「これまでか」
今川家当主を狙った立場としては、無念としか言いようの無い状況ではある、だが、つい先日まで法体であった恵探には武門らしい意地の強さは無く、死を目前にした法悦のような境地に立っている。
「ここで死ぬか」
今川家にとって由緒ある花蔵城にて死ぬ。そう考えた恵探であったが、近習から普門寺へ落ち延びるよう諭され、最後の舞台を普門寺に移すこととなった。
近習としては寺の裏山が砦のようになっているため、最後の戦をするにも良し、今川家の菩提寺でもあるため、ここで武門の最後を飾るも良いと考えたのであろう。
「世に我が意は伝わらぬであろうが、全ては今川家のため。私欲では無かったことをお主らだけでも分かってくれ」
恵探は近習達にそう告げると、あと半刻だけ寺を守るよう最後の指示を出し、本堂に入った。
「縁の無い兄弟であったが、これが乱世というものか」
観世音菩薩に向かい手を合わせようとするが、思いの外籠手が大きく手首の辺りが開いてしまう。
俗世に戻った己に菩薩が皮肉を言いたいのかと苦笑いすると、恵探は紐を咥えて籠手を外した。
「願わくば、今川家にご加護を」
寺を囲む緑は若々しく、鳥はその喉を誇っているかのように鳴き、自身の最後を飾ってくれているかのように感じられる。
――あのまま俗世を捨てていれば
この声を聴き、木々の移ろいを楽しめたであろうか。
恵探は静かに刀を立て、その切っ先を首に当てる。そのまま雪崩れ掛かるように倒れると、本堂の床を静かに朱く染めた。
僅か20年の生涯であった。




