婚姻
「不思議なものよ」
商人がしみじみと呟く。一年前には誰も想像できなかったであろう。駿河と甲斐を行き来する者が増えたのである。
「うちも忙しくなるかな」
一介の商人に国のことは分からない。だが、人や物の動きが良くなれば、それは商いにとって良いことであることは分かる。
「そうなれば川を使いたいが、ま、無理であろう」
富士川は急峻な川であり、物流に使うためには整備が必要である。江戸時代になってから整備されたが、この時代この商人にとっては障害でしかない。
「何にせよ、新しい御館様が上手くやってくれれば」
うちらは助かる。と、商人は北へ進む。
花蔵の乱は恵探の死を以って終結し、義元は論功行賞に移っている。以前にも述べた岡部家への感状を始め、戦以外の部分でも正しい評価を下さねばならない。
「御師が上手くやってくれれば」
助かるのに、と、愚痴をこぼしそうになるのを堪え、義元はいつ終わるともしれぬ報告書に目を通す。
「何か」
何時の間に立っていたのか、雪斎が静かに問うてきた。
「山猿の婚姻よ」
「あぁ、その話で」
義元らは信虎の息子、晴信に対し左大臣三条公頼の娘を嫁がせようとしていた。晴信には既に正室として上杉朝興の娘がいたが、二年前の出産の折死去している。
信虎にとっては公家と繋がるまたとない機会であり、花蔵の折に義元に付く理由の一つとなっていた。
「善知識なれば」
と、義元は笑みを浮かべた。自らへの皮肉にも聞こえる。利益を与えると言いつつ、義元はそれ以上の見返りを得ている。また、信虎のことを善知識と呼んでいるかのようにも聞こえる。だが、義元は輿入れのことなど考えてもいない。ただ、雪斎の言葉に上手く反応し、愚痴を隠せたことを子供のように笑っているだけだった。
「ところで」
と、雪斎が場の空気を絶つ。何とは無しに義元の表情も硬くなるが、その後の言葉は難しいものではなかった。
「御館様の婚姻も考えませぬと」
「あぁ、その話で」
義元は当然のような声色でそう言うと、
「既に考えております」
と、若い坊主が問答を解けたかのような顔つきで答えた。
「信虎を我が父としようかと」
「ほぅ、それはまた」
雪斎としては意外なことであるが、驚くような話ではない。花蔵の際に武田北条が義元を支援したことで、これまでの懸念事項であった甲斐が友好国となった。東の北条はその成立の頃から親今川であり、新たに親今川となった武田と婚姻関係を結ぶことで、その縁を確実なものとすることができる。
「御師、お忘れか。全ては三河よ」
義元にとって石高の低い甲斐には何の興味も価値も無い。武田はそのまま甲斐の山中に籠っていれば良いとまで思っている。
一方、三河や尾張は岡崎平野、濃尾平野と魅力的な土地であり、一刻も早く抑えたいところであった。
「確かに」
――だが早い
雪斎の見るところ、義元はその若さに似合わず深謀遠慮な為政者であり、将来は名君となるであろう。だが、若いことは経験不足であり、何より大切な挫折を知らない。
三河を望むのは雪斎自身も同じこと。だが、家中が収まりきっていない今、若さに自信を加えた義元の判断は危ういと言える。
――が、良い
北条はどうでるか。恐らく怒るであろう。氏綱は領国維持、相模を守ることを第一に考えており、その脅威となる武田・上杉に対抗するため、今川との同盟関係を選択している。
義元は北条との友好関係は永続すると考えているようだが、同盟関係の前提条件を崩すような婚姻が歓迎されるか。
――学ぶであろう。
名君になるためには挫折が必要である。それもなるべく若いうち、そして大きなものが良い。
雪斎は報告書を読み耽る義元に目をやると、そっと目を細めた。




