後
英彰は、勝利したようだ。
今夜にでも、城に帰還するという報せが、私の元に届いた。
反乱軍の勢力を五分の一に減らしたのだと侍女が教えてくれた。
流石というべきか、それとも、英彰らしからぬというべきだろうか。
私は、今夜訪れるだろう英彰の表情や機嫌を想像しながら、侍女に支度を促した。
英彰は予想より早く、私の元へ訪れた。
夕闇に染まる空を窓から眺めていた私は、驚きを隠し、慌てて英彰を迎えた。
戦場から戻り、甲冑だけを脱ぎ、ここにやって来たのだろう。
いつもは整えられている髪が乱れ、瞳は獰猛な光を湛えている。
眉間は強く寄せられ、口は引き結ばれていた。
体の端々から、どうしようもない怒りの蒸気が立ち昇っている錯覚を、私は感じた。
反乱軍の勢力を五分の一に削り、退却に追い込む。
私からすれば、圧勝のように思う。
だが、英彰は、反乱軍を殲滅するつもりだったはずだ。
反乱軍に、被害を五分の一に抑えられたということは、彼にとって想定外でいて、かつ屈辱的なことであったのだろう。
「お帰りなさいませ」
そう言って礼を取り、英彰に近付けば、英彰は私の二の腕を掴んだ。そして、そのまま、私の身を寝台へと放った。
無言のまま、私の上に乗り上げた英彰の額にそぅっと口付ける。
ふわりと、肌に塗り込められた香油が香った。
「ああ」とだけ、英彰は告げた。
それは、先程の私の言葉への返答だろうか。それとも何事かに反応し、感嘆の声が漏れたのだろうか。
英彰の手で熱を帯び始めた私の体と思考は、それ以上、その小さな一言を考えることが出来なかった。
王軍は、苦戦を強いられているらしい。
反乱軍は、多くの支援や信を得て、その勢力を伸ばしていくが、逆に王軍からは逃走兵が増えていく一方なのだと、侍女から聞いた。
英彰は気紛れに、王軍の指揮のため、その腰を上げた。その度に、私は手紙を書き続けた。
『王が出る。備えよ』
そう綴り、厳重に封をした手紙を、金貨と共に侍女に持たせて外出させ、私は英彰の帰還を後宮で一人待ち続けた。
英彰は、戦から戻った夜は必ず、荒々しく、執拗に私を抱いた。だが、その一方で、その次の日は、驚く程優しく、私を抱いた。
己を私に刻み込むように。私を絡め取るように。
英彰は、私を抱き続けた。
英彰の出陣の頻度は徐々に増していった。
私はその度に、英彰の背を見送り、便箋に筆を走らせていった。
だが、手紙もこれで終わりにしよう。
そろそろ、頃合いだろうから。
『反乱軍の指導者様』
始まりはいつもと同じにした。
文面は、この手紙を書き始めたあの日から、決めてある。
『城を奇襲せよ。王は、毎夜、後宮の端ーー正妃宮にいる』
そして、侍女がいつも抜け出る時に使う道を事細やかに書き綴った。
夜の闇が深くなった時刻。
上半身裸のまま、私の腰に腕を回し、膝に顔を埋める英彰の後頭部の髪を手で梳いていると、遠くで爆発音がした。
途端、英彰は顔を上げた。
「何事か!?」
正妃宮の扉の外にいるであろう兵に声を掛けるが、返事がない。
ただ、大きな物音や人の怒声が遠く聞こえた。
英彰は大きく舌打ちすると、椅子の背に掛けていた衣を身に纏い、剣を掴んだ。
「…英彰様」
その背に、小さく呼びかけると、英彰の鋭い視線を受けた。
「すぐ、戻る」
その低い声は、背筋が凍るような錯覚を覚える程、怒りに満ちていた。
私は、英彰に向けて強く頷いた。
ああ、やっと。
解放されるのだ。
そう安堵しながら。
騒音が酷い。どんどん、近付いてくるようだ。
正妃宮で、侍女と二人、身を寄せ合う。大きな音が鳴るたびに、侍女が肩を震わせた。
「清玲様」
眉を寄せ、弱々しいその声音に、私は一つ頷いた。
「逃げなさい」
侍女は、私の言葉に大きく目を見開いた。
「清玲様と一緒でなければ、逃げません」
先程の弱々しい声とは違い、確固たる意志を感じさせる強いそれに、私は緩々と首を横に振った。
「いいえ、逃げなさい。もうすぐ、英彰様がここに来ます。そうすれば、もう生きてはいられない。全て、知られたでしょうから」
私は、侍女の両肩に手を置き、力を込めた。
その背は、度重なる心労で、私の記憶よりだいぶ薄くなっていた。
私は目を細め、笑みを浮かべる。
「貴女は良く仕えてくれた。貴女だけでも、生きなさい」
私の説得に、ようやっと頷いた侍女の目には涙が浮かんでいた。
正妃しか知らぬ抜け道をそっと教え、
その道へ向かう侍女の背を見送る。
そして、ようやく私は一人になった。
音が、更に大きくなってきた。
鉄がなる耳障りな音に、思わず耳を押さえたくなる。
英彰は、まだ来ない。
まだ来ない。
まだ、来ない。
私は、寝台に腰を下ろし、胸の前で両手を組んだ。
目を閉じ、祈るように、私はただ待った。
扉の向こう側に、人の気配がする。
ああ、やっと、彼が来た。
私は扉へ視線を向ける。
英彰は、扉を静かに開け、部屋に入って来た。
衣は血に濡れ、右手に握る剣からは血が滴っている。
顔に散った血飛沫を、袖でぐっと拭えば、綺麗な顔には、流石、一つの傷も見えなかった。
彼の表情は、驚く程、穏やかだった。
そこには、怒りも、悲しみも、含まれていない。
いつもは荒ぶる瞳が、今は静謐な泉の水面のようだと思った。
「英彰様」
私は寝台の上で、彼に向けて手を伸ばす。
英彰は破顔し、私の元へ歩いてきた。
「清玲よ。お前の仕業だな」
英彰は、私の伸ばした手を取り、そっと私の隣に腰掛けた。
手は温かだった。
「はい」
肯定すれば、英彰はくつりと笑った。
「気付いていたのだな」
「はい」
肯定を繰り返し、私は腕を英彰の首へ回し、英彰の頭を自身の胸に引き寄せた。胸の谷間に鼻の先を埋めるようになった英彰は、楽しそうに私の胸に頬ずりして、笑声を上げた。
「この国を、ご自身を、滅ぼしてお仕舞いになりたかったのでしょう?」
問えば、英彰は胸から顔を上げた。片眉を上げて、私を見つめた後、ふっと顔を綻ばせた。
「ああ。本当に、お前は聡い女よ。だが、真逆反乱軍の手引をするとは思わなんだぞ。…酷い正妃だ」
呆れたような声音に、くすりと笑う。
「心外でございますわ。英彰様の想いを、遂げさせて差し上げたかったのです。貴方様の、妻でございますから」
すると、英彰は大きく目を瞬かせた。そして、私の頬に両手を添え、ゆっくり顔を近づけた。
「愛している」
「ええ。私も、貴方を愛しています」
甘い、甘い、口付けに、二人で酔いしれる。
扉の向こうでは、相変わらず酷い音がしている。
それを忘れてしまうかのような、そんな一時だった。
寝台に二人で座り、英彰の腕の中で、来るべきその時を待つ。
私を包むこの腕の主は、近い将来、愚王とも凶王とも、呼ばれるようになるだろう。
人を嬲り殺し、重税や恐ろしい法で縛り、それを愉しんできた男だ。
そうすることで、国を、自身を滅ぼさせるしかなかった、愚かで、ある意味臆病な男だ。
そして、そんな男を私は溺れるように愛してしまった。
彼の望みを、出来るだけ早く叶えてあげたかったのだ。
それは、彼以上に愚かで、狂ってさえいるのかもしれない。
扉が、開け放たれた。
数人の男たちが、立っていた。中心にいるのが、反乱軍の若き指導者だ。
その顔や衣は血に染まっており、英彰の腕の中にいる私を見つけ、悲痛な表情を見せた。
「清玲様…」
その呟きを聞き、英彰はその腕に力を込める。私は微笑み、英彰の腕に手を添わせた。
反乱軍の指導者ーー孫家にいた頃仕えてくれていた男に向けて、私はゆっくりと頷いた。
「殺して頂戴。王と共に」
私は、彼に首を断たれるのを想像した。
私の首も、いつか見たあの光景のように、ゴロリと床に転がるのだろう。
「清玲様…」
もう一度、私の名を呼んで、男は悲痛な表情のまま、一歩進んだ。
と同時に、英彰が笑声を上げた。
可笑しくて、可笑しくて、仕方がない。
そんな調子だった。
「簒奪者たちよ」
声は明朗だった。
簒奪者と呼ばれたこの場にいる反乱軍の男たちは、全員が、その肩を震わせた。
英彰はその様子に構わず言葉を続けた。
「国も、国民も。王位さえも。俺は欲しいと思ったことはない。全て、お前らにやろう」
そこで一度、言葉を切り、英彰は私を更に抱き寄せた。視線は、反乱軍の中心に立つ男へ向けられている。
「だが、清玲は連れて行くぞ。悪いな」
そう言って、英彰は照明を倒した。
倒れた照明を、その中の火が燃やしていく。それは、たちまち炎となって、先程撒いておいた油に引火していった。
その勢いは早い。
反乱軍の男たちと、私たちは、すぐに炎によって隔てられた。
男たちの慌てた様子が炎の先に見て取れる。
だが、すぐに横から腕が伸び、私の顔は英彰の方へ向け直された。
炎の橙色の光が、英彰の綺麗な顔を神秘的にさえしていると思った。
「清玲」
甘い声に、私は微笑む。
そして、彼から今世で最後の口付けを受けた。