第一話
新たな季節は巡り、例年の如くではあるが、この物語の舞台となる大志高校にとって、もっとも忙しい時が訪れた…
それは、新しい息吹と言わんばかりに、やって来る希望に満ちた若き新入生たちを、歓迎しなければならないからである。桜の花びらが美しく舞い散る中、それを愛でる暇すらないような状況下で、入学式の準備は着々と進んでいた。無論、忙しいのは学校だけではなく、各家庭においても同様で、我が息子や娘の新しい門出のために、さまざまな奮闘劇が繰り広げられていたのだった…
それは、家庭だけでなく、とある孤児院においても例外ではなかった…
「ああ、もうこんな時間だわ」
その施設で先生をしている華原奈美恵は、急いでお弁当箱の蓋をしめると、台所のドアを開けてから、そこに住む一人の少年を呼んだ。すると、
「晴翔…早くしないと遅刻しちゃうわよ」
「ああ、かったるいなあ」
あくびをしながら、虎頭晴翔はブレザー姿で、ゆっくりと階段から下りてきたのだった。と、その姿を見て、
「もう、だらしないわね…ネクタイが曲がっているわよ」
すぐに彼女は、晴翔のネクタイに手をかけて、せっせと直し始めた。
「今日から高校生なんだから、ちゃんとしないとダメでしょ」
「はい、はい…朝っぱらから、そんなにガミガミ言わなくても、わかっているってばよ」
彼は、そう言うと、ボリボリと頭をかいて、再び大きなあくびをした。すると、彼女は、お手製の弁当を、ずいっと差し出し、
「ハンカチとティッシュはちゃんと持ったの?」
「はい、この通り」
「先生が話をしている時は、おしゃべりをしないのよ…いいわね?」
「大丈夫だって」
「ズボンで、手なんか拭かないのよ。みっともないから」
「いちいち、ガキ扱いするな…たくっ、ほんと心配性だな」
ぶつぶつ文句を言う彼を見て、くすりと笑った。
「そう言えば、もう10年になるわね。君が、この孤児院に来てから」
彼女の言葉に彼は、首をひねった。
「ああ…もう、そんなに経つかな…」
「早いものね…来たばかりの君は、ほんとに大人しくて目立たない子だったから、この先どうなるんだろうって心配していたけど、こんなにちゃんと大きくなって、高校まで通うようになるなんて」
彼女は、思わず目をうるうるさせ、手を口元にやると、
「おい、おい…高校生になったぐらいで、そんなに感動するなよ」
彼は、困った顔をして、ため息をついた。晴翔は、物心の付かない頃に、母親を病気で亡くし、父親の手によって育てられた。しかし、彼が5歳になった時、突然その父親が何も言わずに蒸発してしまったため、一人ぼっちとなってしまったのだ。そのため、生活をする術を持たないその少年は、とぼとぼと街をただ彷徨い続けるしかなく、ついに路上で行き倒れとなった。だが、幸いなことに、彼は通報を受けた警察によって保護され、一命を取り留めることができたのである。その後、彼はこの孤児院の紹介を受け、新たな環境にて、生活をしていくことになったのであった。
「初日だからと言って、のほほんとしないのよ。気を引き締めて、がんばるのよ。わかった?」
出発直前に、彼女がそう問いかけてくると、
「はあ~い…」
彼は、気怠そうに返した。それを見て、
「そんな気の抜けた返事をしない…もっと、はきはきと元気よく答えなさい」
怖い顔をすると、
「ちゃんと、わかってますよ…はい、はい、と…」
彼はおどけて見せた。
「もう…」
ご機嫌斜めな感じで彼女が、そうため息を付くと、
「それじゃあ、ちょっくら行ってくるぜ」
悪びれた様子を見せることなく、彼は手を振りながら彼女を背にし、悠然と歩み始めた。が、施設の門を抜けてから右へ曲がり、塀の陰に隠れると、
「おお、やべえ…マジで遅刻しそうだぜ」
腕時計の時刻を確認して、さらに驚き、
「くそ…ちょっと走るか…」
すぐに駆け出したのだった…
この時間、街を行き交う人たちは、無表情で忙しなかった。本や新聞などを読みながら電車やバスを待つサラリーマンたち、開店の準備に勤しんでいる自営業の主人、長蛇の列を裁こうと、必死にレジを打つコンビニの店員など、あらゆる人たちが、この一瞬の時に神経をピリピリさせながら追われていたからだ。そんな殺伐とした中を、晴翔は、縫うように走り抜け、脇目も振ることなく、ただひたすら学校を目指したのだった…
彼が向かっている大志高校は、男女共学で、一学年で約200名、全校生徒だと約600名が在籍している。偏差値は並だが、体育会系の部活動が盛んな市立の高校だ。
「おお…校舎が、見えてきたぜ」
走り続けてから数分後、ビルとビルの隙間からチラリと見える目的地を確認すると、
「もう少しで着くぞ…走ると意外と近いんだな」
彼は、少し汗ばみながら、先の見えない曲がり角を曲がろうとした。と、その時、目の前でチンタラと歩いていた大柄な男の背中が急に現れ、勢いよく彼にぶつかってしまったのだった。
「痛えな…誰だ、てめえ!」
日焼けをした金髪の男は、すぐに振り向いて晴翔を睨んだ。そして、
「わりぃ、わりぃ…急いでいたものでな」
「なんだ、その態度は…人にぶつかっておいて、舐めてんのか!」
その態度に、金髪の男は、右手で拳を作って構えた。
「おい、待てよ…こんなところで、チンタラ喧嘩なんかやっていたら、マジで遅刻しちまうぜ」
「ざけんな、こらあ!」
金髪の男は、問答無用と言わんばかりに殴りかかると、
「おっと、あぶねえ…」
晴翔は、その攻撃をさっとかわした。すると、彼は、
「けっ…往生際の悪い奴だな」
ニヤリと笑いながら、
「俺様は、今日から大志高校に通うことになった竜岡優希って言う者だ。ちなみに、そこは、俺がしめることになるからよ…よ~く、覚えておくんだな…」
指をポキポキと鳴らせた。
「はあ?」
晴翔は、ポカンと口を開けた。
「何、訳のわかんねえことを言っているんだ。お前?」
「なんだと…こらあ!」
カッとなった竜岡は、再び殴りかかったが、
「こんなところで、油を売っている場合じゃねえよ」
彼は、その攻撃をさっと避け、彼のみぞおちを狙って、カウンターを食らわせたのだった。
「ぐ…ぐええ…」
それを食らった竜岡は、膝から落ちて、情けなく気絶したのだった。
「あんま、たいしたことはなかったな…これじゃ、番長はムリっぽいぜ」
晴翔は、小さく笑いながら、時計に目をやった。すると、
「げえ…もう、とっくに過ぎているじゃねえか。やべえ!」
青ざめながら全力疾走で、校門へと向かったのだった。
入学式に遅れた晴翔は、当然のごとく職員室へ呼ばれ、担任の先生から手痛く叱られたのであった。
「ふう…初日から、説教攻めに遭うとは…」
彼は、ため息をつきながら職員室を出ると、すごすごと自分の教室へと向かい、
「今日は厄日だぜ。学校が終わったら、とっとと帰って寝ちまうにかぎるな」
ぶつぶつと愚痴を言いながら、教室の中へと入ろうとした。と、ふいに、背後から怒鳴り声が聞こえてきたのだった。
「見つけたぞ、てめえ!」
竜岡が怒りを露わにさせながら、ゆっくりと近づいてくると、
「またお前か…今度は、何の用だよ」
晴翔は、途端にげんなりした。その様子を見て、竜岡は、指をポキポキ鳴らしながら近づくと、
「何の用じゃねえ…まだ、勝負はついてねえぞ」
「まだやる気かよ…今の俺は、そんな気分じゃねえっつうの」
晴翔は、手を振って拒否をしたが、
「ざけんじゃねえよ…さっきは油断したが、今度はそうはいかねえぜ」
否応なしに、彼の顔をぶん殴ったのだった。すると、
「野郎…」
晴翔は、ぺっとツバを吐き捨てて、彼を睨み返した。
「俺を怒らせたことを、後悔させてやるぜ」
「けけっ…そうこなくっちゃな…」
こうして、彼らは周囲の目を気にすることなく、大喧嘩をおっぱじめたのであった。
「おい、おい…入学初日から、喧嘩をやっている奴らがいるぜ」
「マジで、喧嘩かよ…血の気の多い奴だな」
ヤジ馬たちが、その騒ぎに群がって、そう冷やかしていると、
「むう…早く止めなければ」
それを目撃したスキンヘッドで長身の男子学生が、首から下げた108個の大玉の数珠を揺らしながら、その喧嘩を制そうと二人の間に割って入り、
「待ちたまえ…こんなハレの日に、殴り合いなんかするんじゃない」
両手を使って、二人の拳を受け止めたのだった。
「な、何…」
晴翔が、その男の鮮やかな手並みに、思わず驚くと、
「誰だ、てめえは…邪魔するんじゃねえよ」
竜岡は、そう大きく怒鳴った。
「私の名は、宝生院玄奘…この学校の近くにある天翔寺と言う寺の息子だ」
「はあ、寺の子だあ?」
その自己紹介に、晴翔は思わずため息をつき、
「おい…坊主が、いちいちチョッカイを出すんじゃねえよ」
竜岡は、拳を握り直したのだった。だが、
「おっと、間違っても私には手を出さない方がいいぞ…私は、幼少の時より武術の修行を積んでいるからな。宝生院流武術を聞いたことはないのか」
玄奘が、そう言って、小さく笑うと、
「宝生院流…もしかして、あの少林寺拳法に並ぶとされている幻の武術のことかよ。どっかで見たことのある顔だと思っていたが…」
晴翔は、以前にテレビ番組でやっていた特集のことを思い出した。宝生院家には、仏教伝来と同時に、子々孫々代々に受け伝えられてきた古武術があり、なんと彼は、それを体得した伝承者だったのだ。
「なんじゃ、そりゃあ…そんな凄い野郎が、この高校に入ってきたのかよ」
二人の話に、竜岡は動揺を隠しながら、薄笑いした。と、そこへ、玄奘の友人らしき一人の男子学生が、野球のボールを手の上で弄びながら現れた。
「おい、玄奘…どうしたんだ?」
烏丸藤次と名乗る男子学生が、彼の名を呼びながら騒ぎの中へと入って来ると、
「ふっ…ちょっとした揉め事を、制しただけだよ。もう、心配はいらないさ」
そう言いながら、玄奘は、彼へ目をやった。だが、竜岡と晴翔は、それは聞き捨てならないと言わんばかりに、
「出しゃばるんじゃねえよ、てめえら…誰が、終わったと言った」
「まったくだぜ…これは、奴と俺との問題だ。部外者は、すっこんでな」
同時に玄奘を睨んだ。
「やれやれ…どうしても、決着がつくまでやる気か…ならば、喧嘩以外で勝負をつけたらどうなんだ?」
「喧嘩以外だと?」
晴翔は、怪訝そうな顔をして、彼に聞き返した。すると、
「野球で、決着を付けると言うのはどうだ…私とそこにいる藤次は、幼少の頃から野球をやっている。何だったら、私たちが力を貸してやってもいいぞ」
彼は、そう言い放ったのだった。その突拍子もない発言に、
「はあ…何を言っているんだ、お前は?」
藤次は、思わず唖然としたが、
「私は仏に仕える身…この状況を見逃すことはできぬのだ、許せ…」
「たくっ…しゃあねえな…」
ボリボリと頭をかいて、一応納得することにした。それを聞いて、
「けっ…野球だとさ。ガキくせえ…」
竜岡は、小ばかにするような態度を取ったが、
「ふっ…怖気づいたのか…そのたかが、野球ってやつに…」
「何だと!」
玄奘の言葉に、彼は目をひん剥き、
「上等だ…野球だろうが何だろうが、勝負してやるぜ。このクソ坊主が!」
そうタンカを切って、中指を立てた。すると、
「どうやら決まりのようだな…」
玄奘は、ニヤリと笑い、
「ならば、放課後に近くの河原に来い…そこで、決着をつけようじゃないか」
藤次を連れて、その場を去って行った。
「てめえには、絶対負けねえからな…せいぜい、覚悟しとれや」
そして、竜岡も晴翔を睨みつけると、くるりと振り返り、ズカズカと自分の教室へ戻っていったのだった。
「なんちゅう乗せられ易い奴だ、あの金髪は…しかも、何で野球なんだよ。意味わかんねえし…」
開いた口が塞がらなかった晴翔は、しばらくの間、その場で呆然と立ち尽くしたのであった…




