第一章:湿った階段と、鉄の扉
30歳の誕生日という人生の節目、ブラック企業での過酷な労働から逃れるように、エンジニアの健二は風俗店へと足を向けた。不気味な雑居ビルの地下、怪しげな重空気が漂う黒い鉄扉を意を決して開けると、そこには現実の疲れを忘れさせてくれるような、妖艶な女性の出迎えが待っていた。
「ここ、か……?」
健二は足を止め、目の前の建造物を見上げた。
築何十年経っているのかもわからない、コンクリートが剥き出しの雑居ビル。その地下へと続く階段の入り口に、手書きで店名が書かれた、今にも消えそうな電飾看板が寂しく明滅している。
ジ、ジジ……という不快な高周波の機械音が、耳の奥をちくちくと刺激した。
階段を見下ろすと、そこはまるで闇が凝縮されたかのように暗い。
カビ臭い地下特有の湿気と、どこか甘ったるい、これまでに嗅いだことのないエキゾチックな香水の匂いが、混ざり合って這い上がってくる。
普通の人間なら、ここで本能的な恐怖を覚えて引き返すだろう。
だが、今夜の健二には「30歳の誕生日」という、人生で一度きりの無敵のバフがかかっていた。
「ここまで来て、また画面の中の嫁で妥協できるかよ。俺の30万秒の残業代、ここで使い切ってやる」
トントン、と、革靴の底がコンクリートの階段を一段ずつ踏みしめる。
なぜか、下へ降りるにつれて、靴底が床に吸い付くような、泥の中を歩いているかのような妙な重さを感じ始めた。大気そのものが、徐々に密度を増している感覚。
最下層の突き当たりにあったのは、重厚な黒塗りの鉄扉だった。
看板のボロさに反して、そのドアノブは真鍮製で、不気味なほどピカピカに磨き上げられている。よく見ると、ドアノブの周囲には、幾何学的でありながら有機的な、歪んだ波のような模様が刻まれていた。
健二は意を決して、その冷たいドアノブに手をかけ、ぐっと力を込めた。
――カチャリ。
重い金属音が響き、扉がゆっくりと内側へ向かって開く。
その瞬間、耳の奥で鳴り続けていた電飾看板の雑音が、ピタリと止んだ。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました、迷える旅人様」
部屋の中から響いたのは、鈴を転がすような、しかしどこか現実味のない、鼓膜を直接撫でられるような妖艶な女性の声だった。




