1汗
プロローグ:その汗は、銀河のガソリンとなるか
宇宙紀元0050年。
人類が重力の軛を逃れ、漆黒の虚無へとその版図を広げてから半世紀。
月面には巨大なドーム都市がそびえ、火星の赤い砂漠には開拓の楔が打ち込まれ、木星の嵐からは文明の心臓を動かすための「血」が休むことなく汲み上げられていた。
だが、拡大の果てに待ち受けていたのは、輝かしい未来ではなく、粘液と触手に彩られた終末だった。
「火星人」との邂逅。それは対話の拒絶であり、理解の断絶だった。
交渉のテーブルなど存在しない。あるのは、焼き付くような熱線と、生命を蹂躙する物理的な暴力のみ。
かくして、太陽系は出口の見えない「第一次火星戦争」へと突入した。
これは、宇宙を救う英雄の物語ではない。
一滴の汗を燃料に換え、鉄の棺桶の中で蒸し焼きにされる消耗品たちの、あまりに暑苦しい生存記録である。
「……もう一杯。一番安くて、一番脳みそが溶けるやつ、ちょうだい」
私は月面都市の場末にあるパブ『ムーンウォーカー』のカウンターで、死んだ魚のような目をしていた。
私の名前はユキナ・ホソカワ。職業、WEBライター。……いや、「自称」を付けるのを忘れていたわ。
昨日のメールで、連載していた『月面スイーツ巡り』のコラムが打ち切られた。理由は「火星戦争の影響で、読者が甘いものより生存戦略を求めているから」だって。笑えない。
「お姉さん、一人? 景気悪そうだねえ」
隣に座ったのは、軍服をパツパツに張り裂けさせそうなほど着こなした、岩石のような大男だった。
普通なら警戒するところだけど、今の私の脳内は安酒のアルコールで煮えていた。
「……景気? 最悪よ。仕事はない、家賃は月を飛び越えるほど高い。今の私は、このコップの中の氷より価値がないわ」
「ハハハ! 謙遜するなよ。その小柄な体格、いい筋肉の質……いや、いい『筋』をしてる。お姉さんみたいな知的な女性にこそ、相応しい仕事があるんだ」
男は、歯茎まで見せそうな眩しい笑顔で、コースターの裏に何かを書き始めた。
「エアコン完備、完全個室、サウナ並みのデトックス効果。さらに、最先端の『小松製』パワードウェアを独占支給。どうだい? 宇宙を舞台に、新しい自分を『執筆』してみないか?」
「……サウナ? エアコン?」
その時の私は、完全にバカだった。
「エアコン完備」が「(外気はマイナス100度だが、室内は40度固定の)エアコン」だとも知らず、「完全個室」が「(寝返りも打てないほどミッチミチの)個室」だとも思わず。
何より、「新しい自分を執筆」という言葉に、ライターとしてのプライドが変な方向に反応してしまった。
「いいわよ……。どうせ、どこに行っても地獄なら、せめて暖かいところで働きたいわ」
私は震える手でペンを握り、コースターの裏、男が指差した「サイン欄」に、ユキナ・ホソカワという名前を書きなぐった。
それが、自身の体液と尊厳をすべて「コマツ」に捧げるという、地獄への片道切符だとも知らずに。
「……よし、契約成立だ。いい飲みっぷりだったぞ、軍曹(予定者)」
男の笑い声が、遠のいていく意識の中で歪んで聞こえた。
「がっはっはー! ようこそ、海兵隊の『スウェッター(汗かき)』部隊へ!!」
数日後:強襲揚陸艦『マッスルビー』格納庫
「ちょっと待ってえええええ!! 話が違うわよ、このクソ筋肉ダルマ!!」
目が覚めたら、そこは火星軌道上の鉄の箱の中だった。
目の前に鎮座しているのは、黄色い重機に手足を付けたような、殺意の塊。
コマツ製装甲機動被服『スウェット2055』。
「うるさいぞ新兵ッ! 貴様がサインしたのは『特殊高機動歩兵・志願書』だ! 文句があるなら、その汗でヒドラジンを沸騰させてから言え!!」
教官――あの日パブにいた筋肉岩石――が、私の首根っこを掴んで『スウェット』の隙間に押し込む。
狭い。狭すぎる。シートなんてない。鉄のパイプと配線に囲まれ、直立不動で固定される。
「待って、これエアコンは!? さっきから温風しか出てないんですけど!」
「それが加温加湿装置だ! 汗をかけ、ユキナ! 貴様の焦燥が、このコマツの鉄拳を動かす爆速のガソリンになるんだ! さあ、最初のポーズをとれ! バックランジだ!!」
「無理! 膝曲がらない! 腹筋が、パイプに食い込んで――」
私の悲鳴をかき消すように、モノラルスピーカーから爆音の軍歌が流れ出す。
股関節の隙間から、人体を溶かす劇薬「ヒドラジンEX」の甘い香りが漂ってきた。
「全弾発射まで、あと3リットルだ! 根性で絞り出せえええ!!」
私は泣いた。
冷や汗が出た。
そしてその汗に反応して、私の黒いサウナ(スウェット)は、無慈悲に火星の戦場へと飛び出していった。
【ユキナ・ホソカワの現状】
現在地: 火星上空・強襲降下中
室温: 45℃(絶賛上昇中)
心境: あの広報官を、絶対に実名で記事にしてやる(生き残れたら)。




