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地下2階の備品倉庫。扉を開けると、そこは気象観測所になっていた。
ホワイトボードの前で、雨宮日和が指揮者のように指し棒を振っている。
ボードには、赤と青のマジックで複雑怪奇な図形が描かれていた。
日本列島らしきものの上に、巨大な渦巻き、無数の矢印、そして意味不明な記号の羅列。
「……何ですか、その作戦図は」
俺が鞄を置くと、雨宮さんはバッと振り返り、指し棒を俺の鼻先に突きつけた。
「天気図」
「気圧配置にしては、高気圧と低気圧の配置が物理法則を無視しています。なぜ北海道の上空にドクロマークがあるんですか」
「これは実際の天気じゃないよ。私の心理」
彼女はボードの上の巨大な渦巻きを、指し棒でバシバシと叩いた。
「ここ、関東地方全域に関東最大級の『憂鬱』が停滞中。中心気圧は920ヘクトパスカル。猛烈なため息を伴うでしょう」
「台風並みですね」
「最大瞬間風速は、秒速50メートルの『帰りたい』」
「家屋が倒壊します」
俺はホワイトボードに近づき、その混沌とした図を観察した。
よく見ると、等圧線ではなく、迷路のような線が引かれている。
「この前線は?」
「『やる気が出ない前線』。南から北上しようとしてるけど、北からの冷たい『世間体高気圧』に阻まれて動かないの」
「典型的な停滞前線ですね」
「あと、ここ。千葉県の上空」
彼女は青い斜線が引かれたエリアを指した。
「『愛想笑い警報』が発令中」
「気象庁の区分にはありません」
「夕方には『顔面痙攣注意報』に切り替わる見込み」
「食事を摂ってください」
そして彼女は、東京上空に書かれた無数の×印を指し棒でなぞった。
「ここが一番危険。降水確率100パーセント。所により、枕が濡れるでしょう」
「局地的な大雨ですね」
「1時間に5000ミリの涙。バケツをひっくり返したような」
「脱水症状を起こしますよ」
俺はため息をつき、ホワイトボード消しを手に取った。
こんな呪いの儀式のような図を残しておけば、清掃員が腰を抜かす。
「本番のリハーサルなら、正しい情報を入力してください。放送事故になります」
「……練習にならない」
「なります。嘘の天気予報は、詐欺罪にはなりませんが、視聴者の洗濯物を濡らします」
俺がボードの図を消そうとすると、雨宮さんが指し棒で俺の手首をペチッと叩いた。
痛くはない。猫パンチ程度の威力だ。
俺は手を止める。彼女はイレーザーを睨みつけていた。
「消さないで」
「なぜです?」
「これが今の私の『リアル』だから」
彼女は指し棒を抱きしめ、ボードの前に立ち尽くした。
「……スタジオに行くとね、嘘をつかなきゃいけないの」
「仕事ですから」
「『快晴です』って言うたびに、心の中で雨が降るの。『洗濯日和です』って言うたびに、心がカビていくの」
「除湿機を買ってください」
「私の心にはコンセントがない」
彼女はうつむき、足元の床を見つめる。黒いジャージの裾が、少し短くなっている気がする。洗濯で縮んだのか、彼女が萎縮しているのか。
「……墨田さん。私、そのうち水没するかも。水棲生物になっちゃいそう」
「人間はエラ呼吸できませんよ」
「比喩だよ」
「比喩でも溺れます」
「けど……私は深海魚になりたい。誰にも見つからない泥の中で、プランクトンだけ食べて生きたい」
「深海は水圧が高いですよ。貴方の強度では圧壊します」
俺はイレーザーを置き、代わりに黒のマーカーを手に取った。
そして、彼女が書いた憂鬱な渦巻きの隣に、小さな円を描いた。
「……なにこれ」
「傘です」
「傘?」
「雨が降るなら、させばいい。濡れるのが嫌なら、防水スプレーをかければいい」
俺は淡々と、丸の中に棒を書き足した。
「貴方が水没しても、私が排水ポンプを修理します。リコーダー社の業務範囲外ですが」
雨宮さんはしばらくその下手くそな傘の絵を見つめていた。
やがて、指し棒の先で、その傘の絵をツンツンとつつく。
「……この傘、小さい」
「絵心がないのは仕様です」
「これじゃあ、頭しか守れない。肩と背中がびしょ濡れになる」
「直径60センチのビニール傘だと想定してください」
「透明は嫌。外が見えちゃうから」
「じゃあ、黒の遮光傘です」
「……私と墨田さん、2人入れる?」
唐突な問いだった。
俺はマーカーのキャップを閉めながら、彼女を見る。
「……計算上は、密着すれば可能です」
「密着しないと無理?」
「ええ。かなり接近する必要があります」
「じゃあ、もっと大きくして」
彼女は俺の手からマーカーを奪い取った。
そして、俺が書いた傘の上に、さらに巨大な半円を豪快に書き足した。
面積的には、もはや傘というより巨大なドーム球場の屋根だ。
「……これなら、濡れない」
「質量が大きすぎて支えきれません」
「や、墨田さんが持ってて」
「腕が折れますよ」
彼女は「ちぇっ」と舌打ちをし、それでも満足そうにドーム型の傘を眺めた。
ふふっ、と小さく笑う。
彼女は指し棒をマイクのように口元に持っていった。
背筋をスッと伸ばし、スイッチを切り替える。
いつもの『お天気お姉さん』の顔。ただし、目は笑っていない。
「『関東地方の明日の天気は、大荒れのち、巨大なドームにより曇り。所により、変なエンジニアが現れるでしょう』」
「予報円が個人的すぎます」
「『それでは皆さん、今日も心に……』」
彼女はそこで言葉を切り、俺の方を見た。
首を少し傾ける。上目遣い。
計算された角度ではない。無防備な角度だ。
「……虹、かかった?」
「いいえ。地下には虹はかかりませんよ」
「つまんないの」
「ですが……」
俺は腕時計を見た。本番まであと15分。
モニターの中で見る彼女よりも、今の画質の悪い彼女の方が、なぜか鮮明に見えた。
「視界は良好です。濃霧注意報は解除されました」
雨宮さんは「そっか」と呟き、指し棒をくるりと回した。
そして、すれ違いざま、指し棒の先で俺の胸ポケットを軽く突いた。
トスッ、という小さな感触。
「……本番、見ててね」
「仕事中です」
「命令。モニターで監視して。私が溺れてないか」
「……善処します」
「溺れてたら、浮き輪投げてね」
「ここからスタジオまで届きません」
「気持ちで投げて」
彼女は軽い足取りで倉庫を出て行った。
扉が閉まる。
残されたホワイトボードには、巨大な渦巻きと、それを覆う不格好なドーム型の傘。俺はその絵を見つめ、小さく息を吐いた。
「……やれやれ」
俺はポケットからスマホを取り出し、天気予報アプリを開いた。
明日の降水確率は0パーセント。
だが、俺の周辺だけは、当分の間は『予測不能』が続きそうだった。




