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闇に埋め尽くされた世界の中に今、光が瞬いていた。
星空が縮小されたかのような景色に、永膳は思わず嘲笑めいた笑みを口元に刷く。
「まさか、お前がいまだに星々を愛でるような心を持ち続けていたとはな」
その言葉とともに前へ踏み込めば、足元からはカツリ石床を叩くような音が響いた。
冥翁が創り出した異界は、陰の気を凝らせただけの仮初めのものにすぎない。そうでありながらこの場に生み出された品々には、実在しているかのような触感が備わっている。
その細かさが、永膳には少し、気持ち悪い。
「それで? 『この国を焼き滅ぼす薪木に火を着けよ』じゃなかったのかよ?」
寝椅子の上に片膝を抱えるようにして座っている冥翁は、永膳が声を上げながら近付いてもチラリとも視線を寄越してこない。
陰の気で塗り潰された世界に擬似的な星々を散らした冥翁は、ぼんやりと頭上を見上げていた。パチリ、パチリという微かな音は、冥翁が視線を向けないまま繰っている碁石が碁盤とかち合う音だろう。
「足りぬ」
不意にその音がカツンッと高く尖った。
永膳が寝椅子の隣で足を止めてからようやく永膳へ視線を流した冥翁は、珍しいほどに分かりやすく苛立ちを露わにしている。
「試算していたよりも、陰の気が薄い」
「これだけ集めておいてか?」
「今も少しずつ目減りしておる。お前の怠慢であろうて」
八つ当たりとも取れる言葉に、永膳は反射的に眉を跳ね上げた。
「鬼火姿でずっとここに揺蕩っていたお前と違って、俺の魂魄はずっと煉帝剣の中にあったんだぞ? どちらかと言えば、お前の方がまだ自由に動けたはずだが?」
「己が動けぬ間に手足として使う人間を何人も誑し込んでから儂の前に現れたくせに、ようも吐かしおるわ」
貴陽の肉体を得てすぐ、冥翁は宣言した。『この国を焼き滅ぼす薪木に火を着けよ』と。冥翁はあの瞬間、間違いなくこの国を滅ぼす呪詛陣を発動させるつもりだった。
だが冥翁は結局、呪詛陣を発動できなかった。
より正確に言えば、させなかった。
「わざわざ王城に御自ら出向いたせいで、その器で慈雲に鉢合わせるようなヘマを踏んだのはどこの誰だったったかなぁ?」
永膳は煽るように、あえて軽く、囁くように口にする。その瞬間、冥翁はギッと鋭く永膳を睨み付けた。そういう表情をしていると貴陽の最期が思い出されて、わずかに溜飲が下がるような心地がする。
とはいえ、冥翁を煽って憂さ晴らしを楽しんでいる場合などではないと、永膳もきちんと理解はしていた。
『足りぬ』
あの時も冥翁は、そう言って呪詛陣の発動を取りやめた。『試算よりも足りぬ』『このまま発動させても、最後まで保たぬ』とぬかした冥翁は、訝しむ永膳を放置してどこかへと消えた。
──泉仙省が、……慈雲が、思っていた以上に成果を挙げていた。
フラリと消えた冥翁は、再びフラリとこの異界へ戻ってきた。それからというもの、冥翁はこうして擬似的に作り上げた星空を見上げては苛立たしげに碁石を打ち続けている。
冥翁の口から、特段何か説明があったわけではない。ただ一言、苛立ちを隠さないまま『恩慈雲に見抜かれた』と吐き捨てただけだ。
だがその一言とこの状況を鑑みれば、水面下で何が起きたのかは大体推察ができる。
──地盤と貴陽を潰しても、今までの向こうの仕込みが功を奏しているのか、あるいは。
ただ単に意地を張ったしらみ潰しが効いているだけなのか。もしくは、泉仙省に新たな助っ人がついたのかもしれない。
どちらにしろ、泉仙省はギリギリの瀬戸際でこちらの詰めの一手を封じている。このまま押されてこちらが潰されるということはまずないが、このままでは攻めきれないというのも事実だ。
──これ以上の邪魔立てをされないように、一番邪魔になり得るあいつを消しておければ、多少は安心できたんだがな。
泉仙省側は、永膳が思っていたよりも上手だった。慈雲と冥翁が接触してしまった今、慈雲は永膳と冥翁が共謀関係にあることも見抜いただろう。
そのことに加えて、慈雲は永膳がこちらに引き入れた貴陽をどう使ったのかを知ってしまった。この事実を受けた慈雲がどう動き出すかは、永膳にも予測がつかない。
──感情任せに突っ込んできて、自爆するようなタマだったら楽だったんだがな。
貴陽を折れば、連鎖的に慈雲も折れる。
当初の永膳はそう考えていたが、どうやら永膳が思っていた以上に慈雲は貴陽に依存していなかったらしい。
慈雲の振る舞いは変わることなく冷静で、泉仙省側の動きが鈍る様子もない。どうやら慈雲は相方を潰された時に一緒に折れたり自暴自棄になる性質ではなく、あらゆる感情を自身の原動力に変えることができる派閥の人間だったようだ。
──まぁ、大乱で俺達全員がいなくなった中、泉仙省を背負ってここまでやってきたって辺りから、その辺りは読み取るべきだったか。
あるいは、永膳が思っていたよりも、慈雲の中で貴陽の存在は重んじられていなかったのかもしれない。慈雲の心を折るほどの価値は貴陽にはなく、永膳が思っていた以上にあの二人の感情は貴陽からの一方通行だったのか。
──そうであるならば、貴陽も随分惨めなもんだ。
とにかく、事実を知った慈雲の心を折れなかったというならば、冥翁と慈雲が鉢合わせたことに関してはこちらが一方的に不利益を被ったことになる。
冥翁が展開する呪詛陣への対策を立てるために、慈雲は冥翁が収めた術の詳細を、……引いては冥翁の素性を探っているだろう。慈雲は貴陽の双子の妹とも懇意であったはずだ。『闇の情報屋』である煌家の力を駆使すれば、八年前には行き着けなかった冥翁の素性に迫ることができるかもしれない。
冥翁の素性が割れれば、冥翁の術の基盤が磐燎の『密』にあることも割れる。その時に氷柳が郭家で授けられた知識のことを思い出し、芋づる式に雪榮を頼ることを思いつく可能性はあるだろう。
「……」
そこまで思い返した永膳は、仮初めの星空を見上げたままわずかに目をすがめた。
以前の氷柳ならば、決してそんな展開は発生しなかった。あれにそんな自発的な意思はなかったのだから。呪具屋と顧客という縁は存在していても、その縁を使って事態を動かそうという考えは、けっしてあれには生まれなかったはずだ。
だが、今の氷柳は違う。
そう思えてしまったから、永膳は雪榮を抹殺すべく行動を起こした。結局それも無駄骨に終わったわけだが。
──あのクソ兄貴。俺の存在を察したのかどうかは知らないが、完全に痕跡を消して雲隠れしやがった。
激しい不快感が胸に渦巻いたまま消えようとしない。
冷たいとも熱いとも感じられる激情の炎は、ずっと永膳の中で燃え盛っている。今はその感情の向こうに、郭家の跡地で期せず相対した氷柳の瞳が見えるような心地がした。
「……っ」
そのことを思った瞬間、ギリッと耳の奥に不快な軋みが響いた。
その音でようやく永膳は己が全力で奥歯を噛み締めていたことに気付く。
──何があれをあそこまで変えた?
あの時、氷柳は永膳を視線で斬り捨てようとするかのように鋭く見据えていた。
初めて出会った時も、あれは永膳に似たような瞳を向けてきた。世界中の何もかもが永膳を生ぬるく肯定し、称賛しかしなかった中で、あれだけが全てを凍て付かせるような凄絶な冷たさで永膳の存在を否定した。
だから永膳は、あれが欲しいと思った。
あの瞳をへし折って、バラバラに砕いて。丁寧に丁寧に否定して、屈服させて、牙を抜き、棘を抜き、自分だけに従うように躾けて。鏡面のような氷だけになった虚ろの中に、悠久に自分だけが映っていればいいと思った。人生で初めて抱いた渇望だったと言ってもいい。
──だが、今は違う。今のあいつが向けてくる『否定』は、俺が喉を掻きむしりながら欲した、あの『否定』じゃない。
今のあれは、虚ろではない。氷のように凍て付いてもいない。
永膳が『欲しい』と狂おしいほどに求めたあの『否定』が、今のあれにはない。
あれはあまりにも人に近付きすぎた。あれはもはや、見目は変わっていなくても、あれの本質からかけ離れた違うモノに成り下がってしまっている。永膳が当初思っていたほど簡単に躾け直せるような状態ではない。
雪解けの清水を思わせるような。生命力と光を湛えた瞳の中には、柔らかでありながらしなやかな意志の光が見えた。その意志の元に、あれは『永膳の元には戻らない』と、永膳のことを拒絶したのだ。
──そうだ。あれは『拒絶』であって、『否定』じゃない。
「これ以上の陰を求めるならば、今までとやり方を変えねばならぬ」
腹立たしさに目の前の景色が歪む。
そんな永膳の意識を今に引き戻したのは、冥翁がポツリとこぼした一声だった。
「八年前は、長い仕込みの果てに、羅城で囲った中の人間達で陰を醸造した。今回は範囲を王城の中のみに絞ることによって、必要となる陰を地脈の傾きと短時間の仕込みだけで得る計算であったが」
「お前のお得意の『星の運行』とやらでどうにか補填できないのか?」
「最適な星並びは、八年前、お前と相対したあの瞬間のものじゃ。直近でそんなに都合の良い並びは巡ってこんわ」
『それ、その並びとやらを計算するために使ってるんじゃないのかよ』と顎をしゃくって擬似的な星空と碁盤を示せば、冥翁は口元に添えた親指に歯を立てる。ガリガリと爪を噛む冥翁の姿は、不思議と貴陽の肉体を使っていても本来の冥翁の顔が滲んでいるように見えた。
「手っ取り早く、人通りの多いところで手当たり次第に通行人の虐殺でもしてみるか。あるいは大妖でも召喚して、都の気を根こそぎ陰に変えてしまうか」
「……大妖、ねぇ?」
人の死も、人々の混乱も、確かに陰を爆発的に増幅させる。大妖がいきなり現れれば、その大妖が帯びる陰に引きずられて周囲の地脈も陰に染まるから、そちらも強い陰の気を手っ取り早く発生させることができるだろう。
だがどちらもそれなりに手間がかかる上に、本題に取り掛かる前に余計な人目は引くことになる。永膳達の影を察すれば、泉仙省の退魔師達が出張ってくるはずだ。なるべくならばそんな危険は冒したくない。
──手間をかけずに、都の気を根こそぎ陰に変える方法、ねぇ……?
そのことを思案した瞬間。
永膳の中でふと、不快な炎と必要な計略がスルリと結びついたような心地がした。
「もっと簡単に、都中の気を陰に変換できる方法があるぜ?」
ふんわりと顔中に軽やかな笑みを広げながら、永膳は冥翁に言葉を投げた。ギロリと下から見上げてくる冥翁と視線を合わせた永膳は、その笑みを消さないまま言葉を続ける。
「氷柳の前で、あの雛鳥を殺せばいい」
声は顔に浮かぶ笑み以上に軽やかだった。
いっそ、この陰にまみれた異界で聞くには異質なほどに。
「あいつの保有霊力の総量は、そんじょそこらの大妖よりも大きい。おまけにあいつは感覚が地脈と同期している。意識的にその感覚を閉じていなければ煩わしさを覚えるくらいには、無意識の部分でな」
あれを変えてしまったのは、あの目障りな雛鳥だ。何もできない、力ない存在であるくせに、あろうことか永膳の華に手をつけた、あの目障りな落ちこぼれ。
──あの落ちこぼれを、あれの目の前で殺してやれば。
慈雲は貴陽を喪っても折れなかった。
だが氷柳は違う。
あれは根っからの『比翼の鳥』だ。誰かに依存していなければ、息をすることさえできやしない。依存する先を変えたから在り方が変わっただけで、あれが元より片羽と片眼だけで存在する、ひどく弱くて不完全な存在であることを、永膳は誰よりもよく知っている。
事実、雛鳥が瀕死の重傷を負った時、あれは酷く動揺していた。
あれの腕の中であの雛鳥が息絶えるようなことになれば、あれの心は必ず折れる。
きっとバラバラになって、虚ろに返って、二度とヒトの真似事などしなくなる。今度こそ決定的に、ヒトの姿をしただけの虚ろになるだろう。
永膳の望み通りに、鏡面のように凪いだ虚ろの中に永膳だけを映し込む、美しい氷の牡丹ができあがるに違いない。
「あれの意識が負に染まれば、あれが持つ霊力も陰に染まる。雛鳥が死んで乱心したあれを止めることは、慈雲にだって無理だろう。そのまま陰に染まった霊力をあれが暴発させれば」
「……莫大な陰の気が発生するのみならず、周囲を巻き込んだ暴発による膨大な人死でも陰の気が醸造される。さらに無意識下で繋がっている地脈も影響を受けて陰に染め上げられるゆえ、都全体が、下手をすれば国が丸ごと忌地に堕ちる、ということか」
永膳の言葉の先を引き継いだ冥翁は、いつになく静かな表情を浮かべていた。先程までの苛立ちとも、常の飄々とした薄ら笑いとも違う表情を向けられた永膳は、わずかに眉をひそめて冥翁を見つめ返す。
「お前は、それでいいのか?」
その表情が『何か言いたいことでもあるのか?』という問いかけであると気付いたのだろう。冥翁は表情と同じく、静かな声音で問いを投げてきた。
「あれはお前の華なのだろう?」
「あれには意志も心も必要ない」
『そのような真似をすれば、あれの霊脈は破壊され、もはや退魔師としての力を失うぞ』と言いたかったのだろうか。あるいは『そんなことをさせれば、命が保つか分からぬぞ』と言いたかったのかもしれない。もしくは『お前が愛でる対象であるのに、いたぶるような真似をするのか』とお優しいことでも思ったのかもしれない。
──いずれにしても、くだらない。
「あれは虚ろの中に、俺だけを映していればいい」
冥翁からの問いを、永膳は軽く瞳をすがめるとともに一蹴した。
「それ以外のモノなど、あれには不要だ」
永膳の答えは短く、明瞭だった。だが冥翁は永膳の言葉が終わった後も無言のまま永膳から視線を逸らそうとしない。
短くない沈黙が、音も死に絶えた異界に広がる。
「……近く、主要な星々が、五十三年前と同じ場所に並ぶ」
その沈黙を破ったのは、冥翁の方だった。
視線を永膳から己が創り出した疑似天球へ向け直した冥翁は、独白するかのように小さく言葉を紡ぐ。
「磐燎王宮が落ちたあの日と、同じ場所にな」
冥翁は永膳の提案に是とも否とも答えていない。
だがポツリとこぼされた言葉に、永膳は凄絶な笑みを唇に刷いた。
「その日に、今度こそ全てを焚き上げる」
ガッと、碁盤に叩きつけられた黒い碁石が、断末魔のような悲鳴を上げた。
その音を受けた瞬間、頭上に散っていた星々は流れ星のように墜ちていく。
「憎き血筋の末代を血祭りに上げ、この国の民の命を捻り潰す。それらを以て楽土に御座します姉姫様への手向けとなそうぞ」
落星に照らし出された冥翁は、存外静かな顔をしていた。だがその瞳の奥には、鬼火のような燐光がメラリと揺れている。
器となったいけ好かない後輩には、決して宿らない色だった。
「いいねぇ」
──いよいよだなぁ?
それを見て取った永膳は、近くに迫る終わりの日に、うっそりと笑みを深めた。
「なぁ? 俺の氷柳?」
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単行本になった師弟もよろしくお願いいたします!




